令和元年7月22日
午前三時 母はベットから転倒する。
寝苦しく 寝がえりを繰り返しての転倒である。
午前9時 掛かりつけの病院へ連れて行く。
レントゲン撮影では 骨折なしの診断。
母は大正生まれである。
骨折しなかったのが 嘘のようです。
お尻を打撲しただけですが、歩行には支障あり。
歩行の練習をしかありません。
(続く)
令和元年7月22日
午前三時 母はベットから転倒する。
寝苦しく 寝がえりを繰り返しての転倒である。
午前9時 掛かりつけの病院へ連れて行く。
レントゲン撮影では 骨折なしの診断。
母は大正生まれである。
骨折しなかったのが 嘘のようです。
お尻を打撲しただけですが、歩行には支障あり。
歩行の練習をしかありません。
(続く)
令和元年 6月 吉日
北方町居宅支援センターの方が来られた。
拙者と母に面接をされる。
「今日は何年何月ですか?」と易しい質問である。
拙者は「年号と月ですか?」と返答すると
「助左衛門さんではありません。お母さんですよ。」
担当者は母に同じ質問をする。
「え~と。昭和60年・・・」
と答える。
「れいわ 聞いたことありませんか」
「れいわ? 大正娘に難しい話は無理ですわ。」
令和という言葉が出てこないことはショックである。
放送大学のテキスト「認知症と生きる」と読むと
認知症の中核症状には
「記憶障害、失行、失語、失認、実行機能障害、そして見当識障害」
があることが 書いてある。
見当識障害は時間、場所、さらに人に関して
不確かなことを言う。
カレンダーは 部屋にあり
毎日 見てるはずであるが・・・
会話も難しい。
(続く)
拙者には 戸籍上 姉はいない。
しかし 姉と呼んでいた 人はいた。
その人は拙者の母より
8歳下の叔母である。
昔 本家に皆が集まると
拙者の母より 背が高く
色白な女性がいた。
拙者を優しく呼んでいた。
実は叔母であるが
拙者には姉がいないため
「お姉さん お姉さん」と
親しく 呼ばせて もらっていた。
拙者の母は 三姉妹
母は 真ん中である。
姉もなくなり 妹も・・・
拙者は 叔母はまだ元気だと・・・。
死に際して 姉に話した。
「死ぬのは 怖い。」
「大丈夫、私も直ぐに 行くから。」
「きっと。早く来てね。」
それから 訃報が届くのには
一週間も要しなかった。
現在は いつの間にか
「家族葬」になっている。
昔のように 「親戚全員」が
集まることは 難しい。
この法事には
母は参加していない。
法事の件を伝えれば
母はきっと 泣きだす。
「私を 死なせてくれ。」
と 無理な注文をする。
結局 法事は伝えなかった。
昨日 母は 和室に座る。
なんかの拍子に
仰向けに なった。
しかし なかなか 起きられない。
「立たせておくれ。」と懇願する。
拙者にはショックであったが
手助けはしなかった。
その後 母は自分一人で
なんとか 起き上がる。
老化は一日一日 進むと言う。
拙者は大した介護は出来ない。
(完)