昨日から「冬の信州こども山賊キャンプ」に福島県のこどもたち18人が参加しています。
昨日、1人のこどものお母さんから、私に手紙が届きました。
ご紹介します(※個人情報保護の観点から若干編集してあります)
泰阜村 こども山賊キャンプ
代表 大地 様
今回は、キャンプへの無料招待をしていただき、ありがとうございます。また、いわきからの直通バスをご用意いただき、そのお心遣い、大変ありがたく思っております。
今回のキャンプでは息子がお世話になります。
3月11日の震災では、幸いにも自宅、学校などは高台にあり、津波の被害はなく、子供達にもけがはありませんでした。
しかし、日に日に原発の状況は悪化し、断水も続き、しかも私はケガの最中。茨城の親戚の家に3月いっぱい「いそうろう」させていただきました。
普段は、ほとんどゲームをさせていませんでしたが、避難期間はゲーム三昧。妹は皆とオセロをしたり、トランプをしたり、楽しげでしたが、息子は、ほとんど話をせずに、ずーっと黙々とゲーム。ふり返ると、それも、ストレス状態だったんだろうなあ、と思います。
4月からは学校も始まり、放射線量や給食の食材の産地など、手さぐり状態の中、かなり異常な精神状態とも言えるような親御さんもいたり・・・。今でも個人の差はあるものの、皆、多少の不安を持ちながら生活しています。私自身は、ようやく、平常に近い形で生活できるようになってきたなあ、と感じています。
世界から見れば、Save Japan Save とか、Chiledrn、日本から見れば、原発事故のあった福島県=「フクシマ」。
ある程度、「普通」の生活をしている私たちには、少し違和感を感じています。そして、私の職場でも、原爆がおとされ多数の方が命を落とした「ヒロシマ」と同じように、「フクシマ」と呼ばれるようになってしまったことに、大変がっかり、というかどうしようもなく残念な気持ちになってることが話題にのぼっています。(大地さんだけでもいいいので、どうか「フクシマ」よ呼ばないでやってくだされば幸いです・・・)
震災時の状況、震災後の状況の変化、いわきの市民の心情の変化は、うまくお伝えできませんが、少し参考になればと思い、写真集と、証言集をお贈りします。また、キャンプの関係者の皆様、泰阜村の皆様、ご支援くださった方々に、お礼をいくら言っても足りません。心ばかりですが、いわきのお菓子をどうぞ召し上がっていただければと思います。
今回のキャンプで、いわきではできなくなってしまった「山遊び」をたっぷりとしてきてくれれば、十分満足です。土にまみれ、こどもらしい、あたりまえの遊びを心から楽しんできてほしいと思っています。
どうぞ、温かく見守りくださるよう、どうぞよろしくお願い申し上げます(言うまでもありませんね・・・)
とりとめのない文章、乱筆、どうぞお許しください。
私は読み終えて、すぐそこで野山を駆け回る福島のこどもを見つめ、そして東北の空を見つめて、このこどもたちの未来・希望を深く念じました。
そして、同時に、自分の思慮の足りなさに猛省をしました。
「支える」。
それは一方的なことを意味しません。
相手を認め、相手を尊重し、相手から学ぶ。
それはある意味覚悟と責任が必要なことです。
その覚悟と責任を胸に抱いて、被災地の人々と接することができるのかどうか。
「フクシマ」
その表現を続けてきた私は、傷ついた被災地のひとびとの心に果たして寄り添うことができていたのか。
尊重しようとしていたのか。
学ぼうとしていたのか。
私にはまだまだ覚悟と責任が足りないのだ、と、改めて想いました。
2012年。
支援はここからです。
昨年の大震災は悲しく苦しい歴史ではありますが、それは同時にこの国が失いつつあった「支えあい」の文化を取り戻し、ささやかな希望を改めて紡いでいく挑戦の始まりでもあります。
私も「支える」ことの本質に真摯に向き合う挑戦が始まりした。
昨日、1人のこどものお母さんから、私に手紙が届きました。
ご紹介します(※個人情報保護の観点から若干編集してあります)
泰阜村 こども山賊キャンプ
代表 大地 様
今回は、キャンプへの無料招待をしていただき、ありがとうございます。また、いわきからの直通バスをご用意いただき、そのお心遣い、大変ありがたく思っております。
今回のキャンプでは息子がお世話になります。
3月11日の震災では、幸いにも自宅、学校などは高台にあり、津波の被害はなく、子供達にもけがはありませんでした。
しかし、日に日に原発の状況は悪化し、断水も続き、しかも私はケガの最中。茨城の親戚の家に3月いっぱい「いそうろう」させていただきました。
普段は、ほとんどゲームをさせていませんでしたが、避難期間はゲーム三昧。妹は皆とオセロをしたり、トランプをしたり、楽しげでしたが、息子は、ほとんど話をせずに、ずーっと黙々とゲーム。ふり返ると、それも、ストレス状態だったんだろうなあ、と思います。
4月からは学校も始まり、放射線量や給食の食材の産地など、手さぐり状態の中、かなり異常な精神状態とも言えるような親御さんもいたり・・・。今でも個人の差はあるものの、皆、多少の不安を持ちながら生活しています。私自身は、ようやく、平常に近い形で生活できるようになってきたなあ、と感じています。
世界から見れば、Save Japan Save とか、Chiledrn、日本から見れば、原発事故のあった福島県=「フクシマ」。
ある程度、「普通」の生活をしている私たちには、少し違和感を感じています。そして、私の職場でも、原爆がおとされ多数の方が命を落とした「ヒロシマ」と同じように、「フクシマ」と呼ばれるようになってしまったことに、大変がっかり、というかどうしようもなく残念な気持ちになってることが話題にのぼっています。(大地さんだけでもいいいので、どうか「フクシマ」よ呼ばないでやってくだされば幸いです・・・)
震災時の状況、震災後の状況の変化、いわきの市民の心情の変化は、うまくお伝えできませんが、少し参考になればと思い、写真集と、証言集をお贈りします。また、キャンプの関係者の皆様、泰阜村の皆様、ご支援くださった方々に、お礼をいくら言っても足りません。心ばかりですが、いわきのお菓子をどうぞ召し上がっていただければと思います。
今回のキャンプで、いわきではできなくなってしまった「山遊び」をたっぷりとしてきてくれれば、十分満足です。土にまみれ、こどもらしい、あたりまえの遊びを心から楽しんできてほしいと思っています。
どうぞ、温かく見守りくださるよう、どうぞよろしくお願い申し上げます(言うまでもありませんね・・・)
とりとめのない文章、乱筆、どうぞお許しください。
○○母
私は読み終えて、すぐそこで野山を駆け回る福島のこどもを見つめ、そして東北の空を見つめて、このこどもたちの未来・希望を深く念じました。
そして、同時に、自分の思慮の足りなさに猛省をしました。
「支える」。
それは一方的なことを意味しません。
相手を認め、相手を尊重し、相手から学ぶ。
それはある意味覚悟と責任が必要なことです。
その覚悟と責任を胸に抱いて、被災地の人々と接することができるのかどうか。
「フクシマ」
その表現を続けてきた私は、傷ついた被災地のひとびとの心に果たして寄り添うことができていたのか。
尊重しようとしていたのか。
学ぼうとしていたのか。
私にはまだまだ覚悟と責任が足りないのだ、と、改めて想いました。
2012年。
支援はここからです。
昨年の大震災は悲しく苦しい歴史ではありますが、それは同時にこの国が失いつつあった「支えあい」の文化を取り戻し、ささやかな希望を改めて紡いでいく挑戦の始まりでもあります。
私も「支える」ことの本質に真摯に向き合う挑戦が始まりした。
代表 辻だいち