わが大地のうた♪

NPOグリーンウッド代表理事:辻英之(だいち)が今、南信州泰阜村から発信する炎のメッセージと…日々雑感!

本から唄に載せて ~被災地へ翔んでゆけ~

2011年08月30日 | 日々雑感
 今日は、仕事の休憩時間に、ギターを弾いて唄を歌いました。

 北東の山を見ながら。

 フクシマのこども、被災地のこどもを想ってです。

 歌った唄は「私のこどもたちへ」という曲です。このブログでも紹介しました。

 歌詞と、その唄に載せた私の想いは、ブログ該当所を見てください。こちらへ


 仕事というのは、このブログでも少しだけ紹介しましたが、秋に発行される出版の原稿書きです。

 泰阜村の風土や文化から導き出した教育力によって事業を行い、支えあいの村づくりに挑戦してきたグリーンウッドの25年の歴史と実践をまとめています。

 25年前にヨソモノがどのように過疎山村に入ったのか。

 何を大事にして村の人びとから信頼されるようになったのか。

 そこに生まれた苦しさや葛藤は何だったのか。

 若者の職場をどうつくって運営・経営しているのか。

 その教育実践が社会に果たす役割は何なのか。


 実は私、それを一年かけて執筆しているところです。

 8月末、つまり今日!脱稿予定です。要は〆切が今日!


 夏に発行予定が、大幅に遅れました。そのひとつの要因が東日本大震災です。

 泰阜村の「支え合い」「お互い様」の教育力が、震災支援に役立つのではないか、そういうことも、事実を交えながら本に掲載されることになりました。

 きっとこのブログからも、いくつか文章が掲載されると想いますよ!


 この「本を書く作業」ってほんとうにたいへんです。

 やってみないとその苦しさはわからないものですね。

 なので、今日は、執筆最後の日なのですが、気分転換の休憩に、ギターで弾き語りをしたというわけです。

 この本に凝縮されている泰阜村の教育力が、「私のこどもたちへ」の唄に載り、被災地に届きますように。


 ということで、まとまなブログ記事にならずに申し訳ありません。

 しかも、「ちゃっかり」本の宣伝までしてしまいました(笑)


代表 辻だいち



支援とは感謝の気持ちを抱くこと

2011年08月29日 | 泰阜村の「あんじゃね(震災)支援学校」
フクシマのこどものキャンプを、泰阜村の人びとが支えました。

伊那谷あんじゃね支援学校の座長、木下藤恒さんが村の人びとに、支援を呼びかけてくれたのです。

そして集まった多くのお米とお金。

村の人びとの想いに対して、村の全戸に、次のようなお礼状が配布されました。


2011年8月19日

泰阜村民の皆様

伊那谷あんじゃね支援学校
校長(座長) 木下 藤恒

NPO法人グリーンウッド自然体験教育センター
代表理事   辻 英之



福島のこどもの招待キャンプにおける協力のお礼


 このたび、東日本大震災で被災した福島県のこどもたち約50名を「信州こども山賊キャンプ」(NPOグリーンウッド主催)に招待するにあたり、村民の皆様からお米や野菜、お菓子やお弁当、そして募金など、多くのご支援をいただきました。この場をお借りして厚く御礼申し上げます。

 福島県のこどもたちは皆、泰阜村の自然の中で、青い空と満点の星空をみあげて深呼吸をし、透き通る清流で心ゆくまで魚を追い、顔にべったりと泥がつくほど転げまわり、泰阜村のお米と野菜をおなかいっぱいに食べました。

 8月12日を持ちまして、福島県のこどもたちは泰阜を離れ、福島県(いわき市、福島市、郡山市、二本松市、田村市、鮫川村)に帰っていきました。こどもたちの中には津波で家を失ったこどもなどもいましたし、際限のない放射線の影響と恐れおののく毎日が再び始まります。福島県のこどもたちが「あんじゃねぇ」と安心して暮らせるための支援につきまして、ささやかながらも今後も継続してまいりたいと思いますので、その際には何卒ご理解とご協力を賜りますようお願い申し上げます。

ご支援いただいた募金額   107,044円

ご支援いただいたお米など  お米350キログラム、野菜、お菓子、他


●福島県いわき市のこども(中1)のお礼の言葉
 このたびは山賊キャンプに僕達を招待してくれてありがとうございます。今回の招待は泰阜村の皆さん、長野県の皆さん、学生の皆さん、その他たくさんの方々の支援があって実現したことを聞きました。本当にありがとうございます。

 僕は去年の夏と冬に山賊キャンプに参加してとても楽しかったので、今年の夏も山賊キャンプに参加しようと思っていました。でもあの地震があってから参加はあきらめていました。でもキャンプのスタッフがわざわざ僕の家までお見舞いに来てくれて、今年もキャンプに参加できると聞いたときにはとても嬉しく信じられませんでした。

 今、福島県と聞くと、福島原発、放射能が思い浮かぶかと思います。3月11日の大地震から、僕たちの生活は大きく変わりました。地震のとき、僕は小学校で先生方との謝恩会を開いていました。学校の屋上から、津波が近づいてくるのを見ました。そして同級生の家が流されました。その日の夜は近くの学校の体育館に避難しました。それからしばらく水や電気が止まり、毎日何時間も並んで水汲みに行きました。スーパーが閉まって物が入らなくなり、食べ物がなくなりとても困りました。原発が爆発してたくさんの人が県外に避難していきました。僕もしばらく東京のいとこの家に避難していました。

 しばらくすれば落ち着くと思っていましたが、5ヶ月たっても福島の状況はよくなりません。いわきでは水辺ではもう遊べませんしプールの授業もありません。外での部活も時間が制限されています。食べ物もできるだけ離れたところで作ったものを買います。
 でも僕たちは福島で生活していくしかないので、学校ではあまり放射能のこととか話したりはしません。これからどうなるのか不安はありますが、みんなでがんばっているので福島を応援してください。

 僕たちは山賊キャンプで、いわきではできない水遊びや自然の中での遊びを思いっきり楽しみたいと思います。そして泰阜村の皆さんが作ってくださった野菜やお米をたくさん味わいたいと思います。

 このたびはありがとうございました。



 今日、8月29日、信州こども山賊キャンプの全日程が終了しました。

 全国から集った約1,100人のこどもたち、約350人の青年ボランティが、泰阜村の自然を思いっきり堪能して帰っていきました。

 このなかに、47人のフクシマのこどもたちがいました。

 47人のこどもたちもまた、泰阜村の鳥が飛ぶ空をみあげ、魚が泳ぐ川を潜り、そして皆が立つその土を駆け回りました。

 フクシマのこどもたちからは、続々とお礼の手紙が届いています。

 泰阜村のみなさんへ、学生のみなさんへ、もちろんわたしたちスタッフへ、そしてこの支援活動を支えたすべて人たちへ、感謝の想いが綴られています。

 そして、この支援活動を支えたすべての人びともまた、感謝の想いを強くしていることでしょう。

 それはなぜなら、支援活動を通して、私たちが失いつつある大事なものを気づかせてくれたからに他なりません。

 困ったときはお互いさま。持ち寄ってみんなで支える。

 文字にすればたったこれだけのこと。

 でも、その気持ちを持つことが今の世の中は難しいのです。

 支えるとは、感謝の気持ちを自らの胸に抱き続けることでもあるのかもしれません。


 泰阜村の皆様、この場をお借りして御礼申し上げます。ありがとうございました。

 私たちの支援活動を支えていただいたすべての皆様、この場をお借りして御礼申し上げます。ありがとうございました。

代表 辻だいち



だから記念の夏なのだ

2011年08月28日 | 日々雑感
 すみません。更新することが滞ってしまいました。

 秋に出版する本の最終打ち合わせが東京であり、このケガの身で行っていたものですから。

 出版の打ち合わせの作業量もさることながら、移動するも何をするにも時間がかかるうえに、目のくらむような地下鉄駅の広さや階段の多さに、恐怖とともに「途方にくれる」とはこのことか!というような3日でした。

 ブログの更新に労力と時間を割けませんでした。申し訳ありません。


 言い訳はさておき。

 いわきから、キャンプに参加したこどもと親御さんの、お礼の手紙が届きました。

 手紙といっても、低学年のこどもからのお礼は、絵手紙の様相です。微笑ましい。

 たくさんあってみんな紹介したいのですが、次の機会にさせてください。

 ここでは、お礼の手紙をとりまとめていただいた親御さんの一文だけ紹介します。


泰阜村の存在も知らなかったいわきの子どもたちが過ごした今年の夏が、ひとりひとりの心の中で生き続け、また必ず泰阜村を訪れることがあるかと思います。泰阜村といわき市が繋がった記念すべき夏となったような気がしました。



 泰阜村といわき市が繋がった記念すべき夏。

 いい表現ですね~。

 私も、本当にそう想います。


 フクシマのこどものために、さまざまな気持ちやモノやお金を持ち寄ってくれた泰阜村の人びと。

 村の人々は、今でも地域の課題解決を行政任せにしすぎず、自分たちで解決します。

 私は2010年度の田本(地元集落)地区の自治会役員でした。

 集落に6つある班の班長です。

 一班の班員19戸は、月に一回の「常会(寄り合い)」で地区内の課題を出し合い、皆の知恵で解決します。

 課題によっては、かなり紛糾するときもあります。

 長老格のおじいま(おじいさまの意味)もいれば、私のようなペーペーの若造もいます。

 泰阜村に来て18年たっても、若造は若造です。

 私よりもっと若い住人もいますし、ヨソモノもいます。

 常会では意見を言わずに裏でこそこそする人もいます。

 紛糾するのは日常茶飯事ですが。そのときに大事なことは、一人一人を地域自治の主権者として尊重するということです。

 若造の私ですが、その若造が班長のときは、やはりみんな班長の私を尊重するのです。


 困ったときはお互いさま、何かあったら寄り合ってみんなで決める。

 村の人々が積み重ねてきたこの「支え合い」と「自己決定」の歴史が、いまの泰阜村を創ってきたのです。


 そしてその積み重ねの歴史に、フクシマのこどもたちへの支援が加わりました。


 こどもたちからのお礼の手紙に、グリーンウッドのスタッフ、特にキャンプの現場責任者を担当したスタッフは涙ぐんでいました。

 私は、逆に、微笑みながら読めました。

 それは、けっして夏キャンプで終わるのではないのですから。

 きっとこれからいわきと泰阜に住む人々の始まる長い長い人生の中に、このキャンプの数日間が位置づいただけです。

 距離を越えて、想いを共通させ、互いの地域性や人間性を尊重し、この出会いで生まれた豊かな縁を、さらによいものにしていきたい。

 そう思える、手紙でした。

 本当に心に沁みました。


 いわきの親御さんが表現したように、今年の夏は記念の夏です。

 フクシマのこどものキャンプの終わりは、これからの未来作りへの挑戦の始まりでもあります。

 姉妹都市でもない、災害協定都市でもない。

 でも、「支え合い」の気持ちによってつながるいわきと泰阜の縁は、きっと豊かになるでしょう。

 記念の夏です。

代表 辻だいち




中越地震の被災地からの贈り物(その3)

2011年08月25日 | 応援団より
 その3です。

 2005年7月に実施した、新潟県長岡市のこどもと、福井県美山町のこどもと、そして泰阜村のこどもの合同キャンプ

 どうなることかな~と見守っていました。

 印象的だったことを。

 こどもたちが「クワガタだ!」と血相を変えてバタバタしています。

 泰阜村によくいるミヤマクワガタを捕まえて、文字通りの美山町のこどもは興奮気味でした。

 「え~、でも、福井の山の中に住んでるんでしょ? ミヤマいるでしょ~?(実際は私も福井弁で)」

 私がこう聞くと、美山のこどもたちは応えました。

 「うん、山にいくらでもいた。でも、山ごと流された」

 次の言葉が出ませんでした。


 キャンプ中の夜、天候が悪いときがありました。
 
 テントに寝ているときに雨が降ってくると、こどもたちが泣くのです。

 「怖い」

 地震や豪雨は、こどもたちに自然を「怖いもの」として強烈にインプットさせてしまったようです。


 今年夏に招待したフクシマのこどもも同じでした。

 「この草、触って大丈夫?」

 と真顔で聞くこども。

 「出たくない」

 と雨を恐れてテントから出ないこども。

 放射能の恐怖が、さまざまな媒体を通して、小さな胸に刻み込まれてしまったのでしょう。

 ここでも、自然を「怖いもの」としてインプットせざるを得ないこどもたちがいます。


 阪神大震災のときに山村留学で受け入れたこどもと泰阜のこどもが、福井県三国町沖の重油タンカー事故の際、ボランティアに行きました。

 阪神大震災のこどもが、時を超えて、中越地震と福井豪雨で被災したこどもたちのキャンプを支えました。

 そして、今、阪神大震災のこどもと中越地震のこどもが、フクシマのこどもたちを支えます。

 中越地震の被災者である内山さんの娘さんは、今年4月から社会人。

 初めてもらうであろう給与から、フクシマのこどもを招待するための「あんじゃね震災支援基金」に寄付してくれました。感動です。


 阪神大震災のときに山村留学で受け入れたこどもも、大きな額を寄付してくれました。

「私が受けたお世話の比べ物にならないけど」

 と、その気持ちが本当にうれしい。


 私は福井県出身。1997年の重油タンカー事故のがあった海岸は、こどものころから遊びなれた海岸でした。

 日本中からボランティアが集まり、日本海がよみがえった。

 私もまた、故郷を助けてもらった一人です。


 弱く小さな立場の人が、より弱い人びとが犠牲にならないように、時を超えて、地域を超えて、立場を超えて、支えあっていく。

 弱く小さな立場の人が、寄り添い合い、支え合い、強(したた)かな縁を紡いでいく。

 この国が失ってしまった本当に大事なことが、忘れ去られたような小さな山村で、しっかりと息づいています。

 神戸から福井へ。

 福井から新潟へ。
 
 新潟から福島へ。

 そして泰阜からすべての地へ。

 支えあうなかで小さな縁が紡がれ、強い縁になったときに、「支援」の持つ本質的な意味が発揮されるのだと想います。

 被災地だけではなく、縁の豊かさが失われつつある全国各地に、この想い、届けたい。

代表 辻だいち


中越地震の被災地からの贈り物(その2)

2011年08月24日 | 応援団より
 その2です。リンクが多いのでが、ぜひひとつづつアクセスしてみてください。


 雪かきボランティア。

 それを実現するたびに何度も長岡に足を運びました。

 その過程で、内山さんをはじめ、長岡の人びとと対話を重ね、理解と信頼をいただくようになりました。

 そして、暮らしの学校「だいだらぼっち」(山村留学)のこどもたちが訪れた内山さんの家のある地区のこどもたちを、2005年夏の山賊キャンプに招待しようという話が進みます。

 ところが、なにせ人口20万人を超える大きな町なので、市の教育委員会などを通すとめんどうかなと思いました。

 そこで、地区のとりまとめ役の大野肇さんという方が一肌脱いでくれ、地区のこどもへの呼びかけや募集、そして教育委員会との調整なども一手に引き受けてくれることになりました。

 半年かけて築いてきた信頼関係が本当にいきる瞬間でした。

 一方、泰阜村。

 今年のフクシマのこども招待と同じで、NPOグリーンウッドが単独で招待するのではなく、泰阜村の人びとみんなが招待しようということで、実行委員会を組織することになりました。

 村の教育委員会、特に担当の池田真理子さんがたいへん積極的に協力してくれました。ほんとうにありがたい。

 実行委員長は、木下藤恒さん。

 今年のフクシマのこども招待で、村の人びと全員に支援を呼びかけた「あんじゃね支援学校」座長の木下さんです。

 木下さんに「副はお前がやれ」と、私は不肖ながら副実行委員長をつとめました。

 村のひとたちに、役員をやれなんて、言われたことは一度もなかったので、ヨソモノの私は、正直戸惑いました。

 それでも、実行委員の皆さんは「やれやれ」と笑顔で言う。

 ようやく村の一員になってきたんだな~、と感じた瞬間でした。泰阜村に来て、実に12年目のことです。

 私、本当に一生懸命がんばりましたよ。

 呼んで字のごとく、命を懸けて実現にむけてひたすら歩き続けました。


 長岡市のこども招待が現実味を帯びてくるとき、私は故郷の福井にも想いをめぐらせました。

 中越地震発生にさきがけること3ヶ月。2004年、7月に福井を襲った集中豪雨は福井県美山町(当時)の足羽川流域を壊滅的な状況に変えてしまいました。

 私の育った福井市のど真ん中に足羽川は流れていて、福井市街もまた大きな被害を受けました。

 私は福井に育てられました。

 重油タンカーがひっくりかえったときもボランティアに駆けつけましたが、今回もどうしても福井で被災したこどもを泰阜村に招待したいと強く思いました。

 美山町には私の兄がやはり、NPOグリーンウッドと同じような自然体験教育の団体を立ち上げていました。

 そこで彼に連絡を取り、夏に長岡市と美山町のこどもを泰阜村のキャンプに招待したい旨を伝えました。

 彼は美山町教育委員会と協議し、やろうじゃないかとなったのです。

 長岡市にも何度も足を運びましたが、日本海側をそのまま福井にも何度も足を運びました。

 美山町教育長(当時)の前川先生、ほんとうにありがとうございました。

 そして、このキャンプに、泰阜村のこどもたちも合流しようということになりました。

 村内に2つあったPTA会長(当時)の原忠義さんと横前明さん、本当にありがとうございました。


 そして2005年、夏、中越地震で被災したこどもと、福井豪雨で被災したこどもを泰阜村に招待し、泰阜村のこどもと合同のキャンプを行いました。

 キャンプ直前の私の心境を、「GREENWOODコラム(2005年7月27日)」に綴っています。まずはご覧下さい。

 昨年度は本当に自然災害が多い年でした。昨年度はちょうど暮らしの学校「だいだらぼっち」に長岡市出身のこどもが参加しており、冬にはだいだらぼっちのこどもたちが大雪の長岡市に雪かきボランティアに行って来ました。
 NPOグリーンウッドでは、10年前には阪神大震災で被災した神戸市と西宮市のこどもたちをのべ3人、3年間暮らしの学校「だいだらぼっち」で受け入れました。この時、参加費用は全額村が負担し、NPOと行政の被災支援の原型を構築しました。
 そしてこの夏、NPOグリーンウッドでは昨年度被災したこどもたちを対象とした被災地応援キャンプを実施することになりました。 続きはこちらへ



 このキャンプでどうしてもこだわりたいことがありました。

 それは、キャンプをサポートする青年ボランティアです。

 通常の「信州こども山賊キャンプ」は、全国から学生や社会人を集めるのですが、今回は暮らしの学校「だいだらぼっち」(山村留学)の卒業生を集めようと。

 こども時代に少なくとも1年間は泰阜村民となり山村留学をした彼ら。

 泰阜村に心身ともにとってもお世話になった彼らが、今、村への恩返しをするのです。

 そして、1995年に阪神大震災の際に暮らしの学校「だいだらぼっち」に3年間受け入れたこども2人も、ボランティアとして参加してくれてました。

 被災したこどもが、時を超えて被災したこどもを支える。

 しかも、泰阜村で。

 それを可能にしたのは、泰阜村の人びとや風土が生み出す「支え合い・助け合い」「困ったときはお互い様」の文化です。その気運です。

 当時の新聞記事を2つ紹介します。ぜひご覧下さい。

 昨年、地震や集中豪雨に見舞われた新潟県長岡市と福井県美山町の小学生計三十三人が二十九日から三日間、泰阜村を訪れ、同村の小学生と「ふれあい子どもキャンプ」で交流する。これまで同村は阪神大震災の被災者を招いてのキャンプや長岡市での雪かきボランティアに取り組んでおり、村内有志による実行委は「被災地を縁とした支援と交流の輪がさらに広がれば」と期待している。 続きはこちらへ


 もうひとつ。

 新潟県中越地震や福井豪雨の被災地の子どもたちが30日、泰阜村の子どもたちと一緒に村内の栃中川でアマゴのつかみ捕りを体験し交流を楽しんだ。
 南信州の大自然の中で、被災した悲しみを癒してもらおうと、同村や村内のNPO法人グリーンウッド・自然体験教育センター、村民らが実行委をつくり、復興途上の両被災地の子どもたちを招待した。  続きはこちらへ


 12年たってようやく村の一員になれたのかもしれない、という実感。

 泰阜村が持つ教育力と包容力の可能性。

 私は、「なんとしてでも被災したこどものキャンプをやる」と強く思って実現にこぎつけました。

 この実感を手にした戸惑いと充実。

 この可能性を信じる強い意志。

 泰阜村でキャンプやっててほんとうによかったな~、と思う瞬間でした。


 長岡市の内山彰さんと、山村留学に参加してた娘さんから、今回のフクシマのこどもたちのために、お米が届きました。そして実は支援金も。

 支援金に物語があるのですが、続きは次回にしたいと想います。


 最後になりました。長岡市教育委員会の林さん、実行委員長の木下藤恒さん、ほんとうにありがとうございました。

 

代表 辻だいち