わが大地のうた♪

NPOグリーンウッド代表理事:辻英之(だいち)が今、南信州泰阜村から発信する炎のメッセージと…日々雑感!

考えるのだ~

2012年09月26日 | 応援団より
昨日から立教大学で後期授業が始まりました。

「自然と人間の共生」という授業です。

 自然と人間の関係性がどうあるべきかを「考える」のがこの授業の目標です。

その達成のための教材として、泰阜村での自然と向き合う人々の暮らしや、その暮らしを土台にした教育活動を紹介します。

後期は池袋キャンパス。

まあ、とにかく学生が多いこと多いこと!

池袋駅から大学までずっと学生が連なっていましたし、キャンパス内も休み時間ともなるとどこにいたの?というほど、学生がまさに湧き出てくる感じです。


▼立教大学池袋キャンパス。風情がある。





私の授業は履修学生がなんと300名弱までふくれあがりました。

教室は超満員。

ちょっと圧倒されました。

そんなに人気があるんですかね~この授業が(笑)

学生さんに「なぜこの授業を履修したのか?」という理由をリアクションペーパーに記入してもらいました。

「ちょうどこの時間が空いていた」

「単位を取りやすいと先輩から聞いた」

「試験が楽そう」

正直に書いていいよと言いましたが、本当に正直な学生たちです(笑)

なるほど、人数が多いわけですね~。




ただ、昨年に引き続き、次のような理由も多かったのです。

「東日本大震災のことを扱う授業内容だったので」

「震災を機に、自然と人間の関係を考えるようになったから」


あの震災はいったいなんだったのか?

そんなことを考える前に、支援やボランティアの熱は冷め、いつの間にか報道も少なくなってしまいました。

あの震災から学ことは多いのですが、やはり若い力が今後の社会について想いを巡らせ、知恵を絞り、考え抜くことが大事だと想うのです。

一度も被災地に足を運んでない学生がほとんですが、そんな学生でも考えることはすぐできる。



「一方的に教え込まれる授業ではなく、考えることを大事にする授業内容だから」

こんな理由も多く見受けられました。



そう、考えよう。

今後、自然と人間の関係がどうあるべきなのかを。

現状から一歩出よう。

考えることをあきらめてはいけない。

300名の若い力と、毎週毎週、未来について考えようと想います。


代表 辻だいち


奈良女子大学の取り組みから

2012年09月21日 | 応援団より
奈良女子大学に来ています。

震災支援基金に、学生有志から支援をいただきました。

その支援の方法が、ふるってます。



<「一歩一歩プロジェクト」活動内容>
 靴職人の川田さんから頂いた皮の端切れを使って、5センチほどのサイズのミニチュアレザーシューズを作り、500円で販売しています。そのお金を全額義援金として、被災地に送ります。また、新たな企画としてミニチュアレザーシューズを2個買っていただいたら、プラス一個を被災した方々に送る取り組みもしています。



この売上金を、信州こども山賊キャンプに福島の子どもたちを招待する支援金に支援いただいたということです。

この「一歩一歩プロジェクト」のすばらしいところは、生産活動を通して義捐金を生み出そうとするところと、そこに学生の力だけではなく靴工房など社会にかかわろうとするところです。

靴屋さんが捨ててしまう皮の端切れが材料なので、元手にかかるお金がほぼゼロ。

あとは若い力が、時間と手間をかけて小さな小さな靴を生み出します。

 ※詳しくは、昨年のブログを見てください。その1    その


そして、特筆すべきは、昨年と今年の2年継続ということです。

1年目は、支援に対する熱さと、加熱する報道がその熱さを後押ししました。

しかし2年目は、極端に報道が減り、支援金を有効に活用する支援先も激減しました。

私たちNPOと泰阜村がキャンプを通した支援を2年継続で続けていること。

私たちの支援を、交流として発展的にとらえてくれる被災地の皆さんがいること。

私たちがその被災地の皆さんと、丁寧に信頼関係を築いてきたこと。

奈良女子大の皆さんが、奈良の地元で靴屋さんに理解をもらい続けていること。

その活動を、しっかりと世に発信していること。

そして、奈良女子大の皆さんが、私たちNPOや泰阜村と、これまた丁寧に信頼関係を築いてきたこと。

どれひとつ欠けても、2年継続の支援活動は形になりません。


▼学生有志が発表した成果が掲載された。






支援。

たった2つの文字です。

しかし、それを現実の形にするためには、気の遠くなるような丁寧な営みがあるのです。

支え合うとは、簡単に形にはなりません。

しかし、被災地の皆さん、NPO、泰阜村の皆さん、大学、学生、奈良の皆さん、他関わる人が、お互いを尊重し合い、手をつないで前を向き続ければ、ほんの少しですがよい未来が切り拓けるものと確信しています。



勇気を出して、現状から一歩出ましょう。

それは決して被災地の皆さんだけに求められていることではなく、私たちにも求められていることです。

手をとりあって、一緒に。

まさに、一歩一歩です。



奈良女子大との縁。

この縁のおかげで、今度奈良女子大学から、講演に呼ばれることになりました。

支援が織りなす豊かな縁。

丁寧に、前向きに、紡いでいこうと想います。


▼歴史あるたたずまいの奈良女子大学





甲斐先生をはじめとした奈良女子大学の皆さん、ありがとうございました。


代表 辻だいち

出逢うことが大事なのだ

2012年09月18日 | 震災支縁=支え合いの縁を紡ぐ
9月8日・9日と、宮城県南三陸町に行ってきました。

前々からこのブログでも紹介していましたが、全国のへき地6か所のこどもたちが一同に会するこどもフォーラムです。


▼未来を語ろう! 全国こども環境フォーラム





6か所とは、以下の通りです。

北海道浜中町。

宮城県南三陸町。

福島県鮫川村。

福井県若狭町。

沖縄県国頭村。

そしてわが長野県泰阜村。


ハンディキャップが多い全国のへき地。

そのへき地で地道に実践されるこどもたちの環境活動。

その活動を持ち寄って発表する。

他の地域の活動を知って、自分の地域に持ち帰る。

全国のへき地同士が、こどもによってつながっていく。

それを通して、被災地支援はもちろん、オールジャパンでこどもの教育を行うというモデルにしたいと、強く想い、準備を進めてきました。

私はこのフォーラムの実行委員長です。


当初は交通の便で集まりやすい仙台での開催を考えていました。

時間がある地域のこどもたちはオプションで沿岸地区の被災地に行こうと。

でも、8日・9日の1泊2日で全国から集まるこどもたちに、時間の余裕などあるわけがありません。

このフォーラムはNPOグリーンウッドが主催するものですが、主催者としてどうしても被災地のど真ん中で開催することにこだわりました。



南三陸町歌津地区に集った全国のこどもたち。

被災地歌津在住のこどもたちが、ホスト役になって2時間ほど、被災時の状況を紹介しながら、歌津地区を練り歩きました。

歌津地区の伊里前小学校の兵藤校長先生も、全面的に協力してくれました。


▼南三陸町歌津地区。何もない状況。




▼伊里前小学校の校庭は仮設住宅




▼校長先生が案内してくれた。学校から海を見る。




▼学校から見た海と街




▼山の中に、まだ車が残ってる。というか、こんなところにまで津波で押し流された。





全国のこどもたちは、テレビの映像だけでしか見ていなかったあのシーンが、今、自らの目の前に広がっていることに、息をのみました。

そして、その状況から立ち直り、こどもらしく生きる被災地のこどもたちの姿を見て、案外普通に過ごしていることに逆に拍子抜けもしました。

それでいいのです。

自分の五感で被災地の状況を感じることがどれほど大事か。

北海道から、沖縄から、遠かったでしょう。

でも、足を運んで、自分の目で聞いて、自分の耳で聞いて、自分の鼻で臭いを嗅いで、自分の肌で風を感じて、自分の舌で被災地の味を感じて、そうして初めてわかることが多かったのでしょう。

その後のフォーラムでの発表は、素晴らしいものでした。

そしてこどもどうしの交流も。



▼北海道浜中町のこどもたち発表




▼宮城県南三陸町のこどもたちの発表。「元の川と海に戻ってほしい」という言葉にぐっときた。




▼福島県鮫川村のこどもたちの発表。「福島に遊びに来てほしい」という言葉にもぐっときた。




▼長野県泰阜村のこどもたちの発表




▼福井県若狭町のこどもたちの発表




▼沖縄県国頭村のこどもたちの発表




▼北海道教育大の前田和司先生の講評





なぜ? この時期に?

なぜ? 南三陸で?

なぜ? こんなフォーラムを?

理屈や理由がないと動けないことも多いでしょう。

でも、理屈や理由抜きに、こどもたちは感じるのです。

現地まで足を運ぶ意味が、こどもながらにわかったことでしょう。

そこでの出逢いがどれほど重要なことかもわかったことでしょう。

あれこれ考えて、この機会を失うことなかれ。

出逢いから、次の動きが始まります。


▼左から、沖縄、北海道、宮城のこどもたち




▼長野、北海道、福島のこどもたちと、大学生




▼別れの朝、お互いの学びを伝え合う





こどもたちのこの出逢いの場を用意したのは、6地域の大人たち。

この大人たちの集まりを「元気なへき地ネットワーク」と呼んでいます。

「どっちがへき地か勝負しよう」と、不利な条件を笑い飛ばす愉快な仲間たちです。

私は一応このネットワークの幹事長。

6地域の大人が仲良く手をつなぎ、へき地に横たわる課題をへき地どうして解決しようと努力しています。

だからこそ、その6地域のこどもたちの出逢いの場を創ることができました。


小さく、弱い地域。

そこに住む人々の、細々とした暮らしの営み。

その力を侮ることなかれ。

小さな力を信じて、力をあわせれば、素敵なことができます。

弱く、小さな力を信じること、あきらめないこと、支え合うこと。

南三陸でのこどもフォーラムから、改めて、そのことを強く感じました。



南三陸のフォーラムを開催するにあたり、ご尽力いただいた関係の皆様に、この場をお借りして厚く御礼もうあげます。

ありがとうございました!


▼「また会おう~」と、南三陸のこどもたちが見送り




▼おまけ。長野新幹線に初めて乗る長野県のこどもたち(笑)と、それを撮影する引率の先生(笑)





代表 辻だいち


自分のすべてで

2012年09月12日 | 日々雑感
ブログの更新が滞りました。すみません。

先週末から宮城県南三陸町、石巻市、仙台市、そして福島県飯舘村に行っていました。


南三陸町では、全国6か所のへき地から、こどもたちが集い、「未来を語ろう! 全国こども環境フォーラム」を開催してきました。

私が実行委員長です。


▼こども環境フォーラム。素敵な出会いです




その後、福島県飯舘村に行きました。

飯舘村の帰宅困難地域・長泥区の区長さんとともに、1泊2日じっくりと現地を見たり語りあいました。


▼飯舘村の帰宅困難地域はいまだにこの数字




▼長泥区の区長さんを囲んで




それぞれの様子は、後日、ぼちぼち紹介します。

お待ちください。



昨日、震災から1年半の9月11日。

東北を後にして、信州松本市で迎えました。

14時46分には黙祷ができず、夜に一人、黙祷をしました。



傷ついた東北に想いを巡らします。

あきらめと絶望が支配する飯舘村に想いを巡らします。

そして、世界の平和を、あきらめずに祈ります。

それは、隣の人の瞳を見つめ、唇を見つめ、耳を傾け、息づかいを感じ、自分のすべてで、隣の人を理解しようとすることから始まります。

そして自分のすべてで、隣の人に、想いを届けようとすることから始まります。


代表 辻だいち


北陸福井小浜にて

2012年09月06日 | 日々雑感
9月5日。

昨日は、四年前に他界した親父の命日です。

父の故郷の福井県小浜市に墓参りに行ってきました。

小浜市は若狭湾に面した小さな港町。

私自身は借家住まいの福井市で生まれ育ちました。

ですが、本家のある小浜市には特別の想いがあるのです。

ご存知のように、小浜市を含む福井県若狭地方は世界一の原発集中立地地帯です。

私の実家(親父の生家)も、再稼働した大飯原発10キロメートル圏内に位置しています。

小さな港街は、もし地震による津波がきたらひとたまりもないでしょう。

東日本大震災では、津波が小さな港街を次々に襲いました。

もし小浜に地震が直撃したら、津波が街を襲い、そして放射能が降り注ぐでしょう。

私が、今回の東日本大震災をどうしても他人事にはできなかったもうひとつの理由が、ここにあります。


▼小浜市の実家






昨年の同じ時期に書いたブログの内容からも、抜粋で以下の通り紹介します(太字)。


私の親父は小さな街の小さな農家が生んだ政治家でした。

国政に挑戦すること11回。6勝5敗でかろうじて勝ち越しです。

負けても負けても負けても、挑戦する貧しい青年政治家のその姿に、福井の大地に生きる大衆はいつしか心から応援を始めたと聞いています。

小さな田舎からよりよい社会づくりに人生を懸けた親父。

そしてその親父を支え続けた名もなき大衆の未来に懸ける想い。

私の身体には確かに彼らの魂が流れています。

私は、小浜の風土と人々が生みだした親父から「あきらめない心」を学びました。



さて、私が育った福井市は災害多き街です。

戦災の焼け野原から復興途中の2年後に福井地震が起こり(死者約3,900人)、街は壊滅状態でした。


福井地震により「震度7」が設置されました。そしてその「震度7」が初めて適用されたのが阪神大震災でした。


その二つの災害から立ち直り、福井は「不死鳥の街」とも言われたものです。

最近でも、三国町沖に重油タンカーが座礁して日本海が真っ黒い重油にまみれたり、集中豪雨や豪雪が重なります。


 いまだに福井市の積雪最大深(203センチ)は、全国の県庁所在地で一番だと聞きます。私が小5のときの「56豪雪(昭和56年豪雪)」も、福井平野に198センチもの積雪があり、たいへんな災害でした。


災害のたび、強くよみがえってきた街の風土もまた、私に「あきらめない心」を強烈なまでに教えてくれました。

災害のリスクを抱える街に生まれ育ち、その街の風土が私に教えてくれた「あきらめない心」を、東日本大震災の被災地にどうしても送り届けたい、その想いが私を震災支援に突き動かしています。

これが私個人がどうしても震災支援に動く、DNAレベルの理由です。

この「心」が、泰阜村ではさらに大きく増幅されます。

きびしい自然環境を生き抜いてきた人びととその風土が発揮する不屈の精神は、私が福井で培った「あきらめない心」をさらに大きく育ててくれました。




小浜の実家の縁側に佇めばなんともゆったりとした気持ちになり、親父の墓の前に立てば猫背もしゃんと伸びました(笑)

親父の戒名の意味は、大局的な視座に立ち、物事を判断して動かしていく、という意味です。

あきらめない心を発揮するには、大局的な視点が必要なのだ、と、墓前で親父が語りかけてくるようでした。


▼実家からみた小浜の風景





一点突破の瞬発力や勢いも必要です。

しかし、やっぱり大局的な視座に立ち、ゆったりと未来を見つめるおおらかさもまた必要だと。

私は、おおらかにあきらめない心を持ち続けようと想います。

今日の福井は、夜中は雷鳴が鳴り響き、朝は記録的大雨、昼からは快晴。

まるで、親父の人生のようです。

さてさて、私も同じような人生になるのでしょうか???

すみません。今回は、私のまったくの個人的な想いでした。


▼幼いころよく遊んだ小浜の海。あの半島に大飯原発がある。




代表 辻だいち