南三陸町の被災地に入ると、同行した若手スタッフは無言になりました。
一人は初めて目の当たりにする被災地の現状に、もう一人は福島のツナミ波被害は見ているのですがやはり街全体を飲み込む被害の大きさに、言葉を失ったのでしょう。
震災から半年以上たって、南三陸町の中心地、志津川に入ると、街なかの瓦礫がかなり撤去されているとはいえ、自分の思考の外にあるツナミの破壊力に、何度も足を運んでいる自分もまた改めて息をのむのです。
▼街全体が地盤沈下した。破壊された防波堤から街に海水が流れ込む。
それほどまでに、ツナミの被害はすさまじい。
3月に繰り返し報道されるテレビの映像を見たときに、映画のようだと想っていました。
でも、最初に志津川に足を踏み入れた4月、映画のセットではこの凄惨な状況は創り出せないとすぐに感じました。
高台にある志津川中学校から南三陸町の全景を視野に入れたとき、文字通り何もなくなってしまった街がいやおうなく目の前に飛び込んできます。
▼志津川中学校から望む南三陸町の全容。街が消え去った。
いまだにこの状況を処理できない自分がいて、目の前がくらくらするのです。
南三陸町を襲ったツナミの破壊力は、にわかには信じがたいパワーです。
木造建築物がツナミによって壊れるのはわかるとしても、鉄筋コンクリートの建物も跡形もなく運び去っています。
▼何度も紹介している防災庁舎。今日も遺族が足を運ぶ
▼どうして屋上に車があるのだろうか。そして半年たってもそのままなのだろうか。
3月11日の前日と前々日にかなり大きな地震があったそうです。
このときもツナミ警報が出たらしいのですが、1メートルくらいのツナミだったそうです。
それで、3月11日のツナミにも油断があったのでしょうか。
町の高台には、ツナミ対策として小、中、高校があるのですが、その校庭から街がまるごとのまれていき、逃げ遅れた人々も次々とのみこまれていくその凄惨な光景を見たこどもたち。
そのこどもたちは、今後、どのように育っていくのでしょうか。
そして、そのこどもたちを、私たちはどのように支えていけばよいのでしょうか。
▼元の南三陸の街。美しい街だった
志津川中学校を下ったところに、復興コンビニが営業されています。
そこでRQ市民災害救援センター東北本部長の佐々木豊志さん(くりこま高原自然学校代表)と合流しました。
▼復興コンビニ。街が消え去ったなかではコンビニは重要な存在。
佐々木さんに案内していただいたのは二つの仮設住宅でした。
ひとつは志津川の中瀬地区の仮設住宅。
中瀬地区はコミュニティがしっかりしてたこともあり、地区住民まるごと避難をしました。
その避難先が、RQ市民災害救援センターが本拠地を置いた登米市の旧鱒淵小学校です。
夏になり、志津川の中瀬地区にほど近い場所に建設された仮設住宅に、やはり地区まるごと移住してきました。
▼中瀬地区の仮設住宅。周りがすべて知り合いという安心感はお金では買えない。
コミュニティがばらばらになってしまっては、これまで培ってきた支えあいの構造もまたばらばらになってしまう。
区長さんのこの強い危機感が、どうしても地区丸ごとで避難・移住することを貫いたのです。
貫くといっても、それはそんなに簡単なことではありません。
最後の最後まで、そして今でもそれを貫く区長さんの強い意志と、その意志を支える地区住民の想いに、まさに脱帽です。
そして、仮設住宅は、日本で初めて民有地に建設されたものだそうです。
津波の被害を逃れた地主の方が、こういうときにこそ先祖から受け継いできた土地を活用するのだ、と。
中瀬地区の人々が、暮らしの営みとともに受け継いできた尊い志が持つ生み出す力が、今まさに発揮されようとしています。
▼中瀬地区の区長の奥さんに丁寧に案内していただいた。
次に案内していただいたのは、南三陸町の歌津(旧歌津町)。
中心地の志津川に比べ、支援の手が大幅に遅れてしまった周辺地の旧町です。
RQ市民災害救援センターは、そのような地区を支援するのが目的のひとつです。
いちはやくRQのブランチをつくり、細やかな支援を続けてきました。
歌津の中にある伊里前地区。
その伊里前地区皆さんが避難している仮設住宅を訪問させていただきました。
4月に歌津に足を踏み入れて以来、何度か顔をあわせている千葉さん。
千葉さんは、「契約会」という行政よりも強力な自治構造と自治の力を持つ集団の会長さんです。
なんでも江戸時代から続く、「結」「講」を重要視した自治組織だとか。
伊里前地区では生業としている漁船がことごとく津波で海にもっていかれたそうです。
千葉会長だけは、昔からの言い伝えどおり、地震直後に漁船を沖に向かわせて、この地区で唯一漁船が生き残ったということ。
千葉会長からは、生き残った漁船をなんとしてでも生業として復活させ、復興のシンボルにするという強い意志、伊里前地区が契約会を核とした住民自治本位の復興をめざすという熱い想いがほとばしっています。
地域の底力、本領発揮です。
▼この底力があれば、きっとよみがえる
私は佐々木さんと眼を合わせ、これまであたためておいた計画を千葉会長に伝えました。
全国のへき地農山漁村のこどもたちが、「環境」「教育」をキーワードに相互交流する計画です。
その第一回目の実行委員会を、ここ歌津で開催することも。
千葉会長は快諾です。
▼仮設住宅で熱く語る千葉さん(水色の服)
伊里前小学校や歌津中学校では、漁師のみなさんと協働した環境教育プログラムがもともとあったとのこと。
この大震災で壊滅した漁港では、このプログラムが復活するはずもなく。
ただ、この計画をきっかけに、復活させたいという千葉会長の想いも重なりました。
こどもに希望を語りたい。
その一点で、全国6箇所(宮城、福島、北海道、長野、福井、沖縄)のへき地農山漁村の人々がつながります。
泰阜村をはじめとした農山漁村の教育力と、被災地の集落の底力が、「お互い様」でつながりはじめます。
小さな力、弱い力が、「お互い様」の支援の縁でつながろうとしています。
絶望の縁(ふち)にたたされた人々との間にできた縁(えん)。
この縁を豊かに紡いでいくことが、本当の意味での「支援」なのだと想います。
そして、弱く小さな力が紡がれていくその過程こそ、大震災後にあてもなく彷徨うこの国に必要なことなのだと確信しています。
小さな縁が織り成す、こどもに希望を語る動き。
3年続けます。
小さな弱い動きが、どのように強くなっていくのか。
ぜひご期待ください。
▼登米市のRQ本部。視察の中核はここです。
▼RQ東北本部長の佐々木さん(右) 本当にお世話になりました。
一人は初めて目の当たりにする被災地の現状に、もう一人は福島のツナミ波被害は見ているのですがやはり街全体を飲み込む被害の大きさに、言葉を失ったのでしょう。
震災から半年以上たって、南三陸町の中心地、志津川に入ると、街なかの瓦礫がかなり撤去されているとはいえ、自分の思考の外にあるツナミの破壊力に、何度も足を運んでいる自分もまた改めて息をのむのです。
▼街全体が地盤沈下した。破壊された防波堤から街に海水が流れ込む。
それほどまでに、ツナミの被害はすさまじい。
3月に繰り返し報道されるテレビの映像を見たときに、映画のようだと想っていました。
でも、最初に志津川に足を踏み入れた4月、映画のセットではこの凄惨な状況は創り出せないとすぐに感じました。
高台にある志津川中学校から南三陸町の全景を視野に入れたとき、文字通り何もなくなってしまった街がいやおうなく目の前に飛び込んできます。
▼志津川中学校から望む南三陸町の全容。街が消え去った。
いまだにこの状況を処理できない自分がいて、目の前がくらくらするのです。
南三陸町を襲ったツナミの破壊力は、にわかには信じがたいパワーです。
木造建築物がツナミによって壊れるのはわかるとしても、鉄筋コンクリートの建物も跡形もなく運び去っています。
▼何度も紹介している防災庁舎。今日も遺族が足を運ぶ
▼どうして屋上に車があるのだろうか。そして半年たってもそのままなのだろうか。
3月11日の前日と前々日にかなり大きな地震があったそうです。
このときもツナミ警報が出たらしいのですが、1メートルくらいのツナミだったそうです。
それで、3月11日のツナミにも油断があったのでしょうか。
町の高台には、ツナミ対策として小、中、高校があるのですが、その校庭から街がまるごとのまれていき、逃げ遅れた人々も次々とのみこまれていくその凄惨な光景を見たこどもたち。
そのこどもたちは、今後、どのように育っていくのでしょうか。
そして、そのこどもたちを、私たちはどのように支えていけばよいのでしょうか。
▼元の南三陸の街。美しい街だった
志津川中学校を下ったところに、復興コンビニが営業されています。
そこでRQ市民災害救援センター東北本部長の佐々木豊志さん(くりこま高原自然学校代表)と合流しました。
▼復興コンビニ。街が消え去ったなかではコンビニは重要な存在。
佐々木さんに案内していただいたのは二つの仮設住宅でした。
ひとつは志津川の中瀬地区の仮設住宅。
中瀬地区はコミュニティがしっかりしてたこともあり、地区住民まるごと避難をしました。
その避難先が、RQ市民災害救援センターが本拠地を置いた登米市の旧鱒淵小学校です。
夏になり、志津川の中瀬地区にほど近い場所に建設された仮設住宅に、やはり地区まるごと移住してきました。
▼中瀬地区の仮設住宅。周りがすべて知り合いという安心感はお金では買えない。
コミュニティがばらばらになってしまっては、これまで培ってきた支えあいの構造もまたばらばらになってしまう。
区長さんのこの強い危機感が、どうしても地区丸ごとで避難・移住することを貫いたのです。
貫くといっても、それはそんなに簡単なことではありません。
最後の最後まで、そして今でもそれを貫く区長さんの強い意志と、その意志を支える地区住民の想いに、まさに脱帽です。
そして、仮設住宅は、日本で初めて民有地に建設されたものだそうです。
津波の被害を逃れた地主の方が、こういうときにこそ先祖から受け継いできた土地を活用するのだ、と。
中瀬地区の人々が、暮らしの営みとともに受け継いできた尊い志が持つ生み出す力が、今まさに発揮されようとしています。
▼中瀬地区の区長の奥さんに丁寧に案内していただいた。
次に案内していただいたのは、南三陸町の歌津(旧歌津町)。
中心地の志津川に比べ、支援の手が大幅に遅れてしまった周辺地の旧町です。
RQ市民災害救援センターは、そのような地区を支援するのが目的のひとつです。
いちはやくRQのブランチをつくり、細やかな支援を続けてきました。
歌津の中にある伊里前地区。
その伊里前地区皆さんが避難している仮設住宅を訪問させていただきました。
4月に歌津に足を踏み入れて以来、何度か顔をあわせている千葉さん。
千葉さんは、「契約会」という行政よりも強力な自治構造と自治の力を持つ集団の会長さんです。
なんでも江戸時代から続く、「結」「講」を重要視した自治組織だとか。
伊里前地区では生業としている漁船がことごとく津波で海にもっていかれたそうです。
千葉会長だけは、昔からの言い伝えどおり、地震直後に漁船を沖に向かわせて、この地区で唯一漁船が生き残ったということ。
千葉会長からは、生き残った漁船をなんとしてでも生業として復活させ、復興のシンボルにするという強い意志、伊里前地区が契約会を核とした住民自治本位の復興をめざすという熱い想いがほとばしっています。
地域の底力、本領発揮です。
▼この底力があれば、きっとよみがえる
私は佐々木さんと眼を合わせ、これまであたためておいた計画を千葉会長に伝えました。
全国のへき地農山漁村のこどもたちが、「環境」「教育」をキーワードに相互交流する計画です。
その第一回目の実行委員会を、ここ歌津で開催することも。
千葉会長は快諾です。
▼仮設住宅で熱く語る千葉さん(水色の服)
伊里前小学校や歌津中学校では、漁師のみなさんと協働した環境教育プログラムがもともとあったとのこと。
この大震災で壊滅した漁港では、このプログラムが復活するはずもなく。
ただ、この計画をきっかけに、復活させたいという千葉会長の想いも重なりました。
こどもに希望を語りたい。
その一点で、全国6箇所(宮城、福島、北海道、長野、福井、沖縄)のへき地農山漁村の人々がつながります。
泰阜村をはじめとした農山漁村の教育力と、被災地の集落の底力が、「お互い様」でつながりはじめます。
小さな力、弱い力が、「お互い様」の支援の縁でつながろうとしています。
絶望の縁(ふち)にたたされた人々との間にできた縁(えん)。
この縁を豊かに紡いでいくことが、本当の意味での「支援」なのだと想います。
そして、弱く小さな力が紡がれていくその過程こそ、大震災後にあてもなく彷徨うこの国に必要なことなのだと確信しています。
小さな縁が織り成す、こどもに希望を語る動き。
3年続けます。
小さな弱い動きが、どのように強くなっていくのか。
ぜひご期待ください。
▼登米市のRQ本部。視察の中核はここです。
▼RQ東北本部長の佐々木さん(右) 本当にお世話になりました。
代表 辻だいち