わが大地のうた♪

NPOグリーンウッド代表理事:辻英之(だいち)が今、南信州泰阜村から発信する炎のメッセージと…日々雑感!

そうとしか説明できないよ、ほんと ~「自然に関する仕事につきたい」とつぶやいた中学2年のころ~

2016年01月30日 | 私のルーツ・私の物語
この1週間は、自然に関する仕事だった。

とりわけ、次の世代の人材育成とか、事業継続のためのリスクマネジメントとか、である。

場所は東京だったが、毎日毎日全国から関係者が集まり、普段は山奥にいる身にとっては刺激的な時間だった。

そのいちいちを詳しく記すとややこしくなるので、今回は書かない。



その1週間の中で、ある研修会で想ったことを記したい。


自然をフィールドにして「ひとづくり」を行う自然学校。

前にも述べたがとても業界というシロモノではない。

業界の底上げを少しでもしていこうという企画運営に、今、私は関わっている。



業界の中堅職員を対象とした強化研修会が、やはり東京で開催された。


講師が問うた質問に次のようなものがあった。

「なぜその職業を選んだのか」

「なぜその職業を続けているのか」

その問いに、受講者である30代くらいの若者たちがう~んと想いを巡らせていてる。



その光景を見ながら自問する。

そういえば、自分はどうなのだ、と。

はっきりと覚えていることがある。

中学2年の時。

進路相談かなにかで担任の先生と面談だった。

「将来は、どんな仕事をやりたいか」と問われた。

いろいろと思案した結果「自然に関係する仕事につきたい」と言ったことを覚えている。

海も山も川もある自然豊かな北陸福井に育った自分は、なんとなくだけれどそう想ったんだろうな。

それが、農業なのか、国立公園のレンジャーなのか、動物園の飼育員なのか。

それは全くわからなかった。

あれから31年。

今、確かに自分は自然に関係する仕事についている。



大学時代は札幌で過ごした。

北海道の大自然に触れ、「この自然を守りたい」と熱く心に誓ったりもした。

体育会(運動部)に属していたが、休日はほとんどバイクで北海道中をめぐって、山に登ったり湿原や原生花園を歩いたり。

当時盛んになっていた知床半島のナショナルトラストなどの自然保護運動にも興味を持った。

札幌にある自然保護運動事務所に顔を出したら「運動やっている人には珍しいね」と言われたのをよく覚えている。

しかし自分が自然保護の最前線に立つのではなく、自然を大事にできる人を育てるほうが、自分にはあっているんじゃないか。

直感的にそう想ったんだろうな。

そうとしか説明できないよ。



だから北海道のへき地の体育教員を目指した。

海も山も川もある北海道のへき地に行こう。

体育会(運動部)で鍛えて体力には自信があったし、最終的には大学の専門は体育教授論だった。

迷いはなかった。

でも、学校の教室に入る前に、教室の外での学びの場にこの身を置いてみよう。

運動ばっかりやっていたバカは、そうやって社会から学ばなければ。

そう想って、2年くらいの自己研修だと飛び込んだのが、信州泰阜村である。

そしてそのまま23年この村にいる。

まあ、教室の中よりもこっちの方がおもしろくなったんだろうな。

そうとしか説明できないよ、ほんと。



こどもたちと創る1年間の暮らし。

泰阜村という自然と向き合いながら、身体を通して大事なことを学んでいく。

まさに私は、へき地の体育教員である。

中学2年生のころにつぶいやた「自然に関係する仕事につきたい」。

それがこのようなカタチになるとは。

あの頃には想像もできなかったカタチである。


▼今は確かに自然に関係する仕事についてる。まさにへき地の体育教員?




泰阜村に来た1993年の頃は、これが「仕事」などと言える状況ではなかった。

「そんな山奥に行ってどうするんだ」と、多くの人に心配されたものだ。

我ながら、波乱万丈の人生だと思っているが、もがきにもがいて今がある。

這いつくばって血反吐を吐いて今がある。

いやあ、人生っておもしろいとつくづく想う。



なぜその職業を選んだのか

なぜその職業を続けているのか


その後にもうひとつ質問が続いた。

それは、「その仕事を通した夢は何か?」である。


その問いにの答えは、これまでの歩みと、そしてこれから歩く人生にある。

やっぱり夢を語ろう。

夢を語るのは、理屈抜きにおもしろい。


代表 辻だいち


知人が町長になった! ~北海道中頓別町と信州泰阜村の切っても切れない素敵な縁~

2016年01月27日 | 全国のなかまたち
春のような東京で、北国に住む知人と会えることになった。

急なことだった。

数えると5年ぶりの再会である。



彼は北海道の中頓別という小さな町に住んでいる。

地図で調べてもらうとわかると想うのだが、最北端宗谷岬(稚内市)のやや南部にある。

人口規模は1800人。

合併ではなく自立を選んでいる。

6年前までは山村留学も実施していたとか。

わが泰阜村と共通することが多くある。


彼は当時、町役場の職員。

「小さな地域に存在する教育のチカラを発揮させていこう!」と意気投合し、それ以来、信州と北海道を行き来する仲である。

なんと昨年の選挙で当選して素敵な町長さんになった! 

小林生吉さんという町長だ。




彼も泰阜村に来てくれたが、私も2回ほど講演で中頓別町に行った。

真冬に訪れた北の町は、マイナス20度を軽く超えていた。

「これはかなりしばれてるよ~ 21度は超えてるね~」

夜に講演が終わって外に出ると、町の人が皆口をそろえて言っていたことを想い出す。「マイナス」を使わないのだこの町の人びとは。

その寒さはといえば、肌がそぎとられそうな痛みである。

雪を踏みしめる音まで凍りつきそうだ。

気温が上がれば「お、さっきより緩んでる。20度は超えてないっしょ」。

「でも、25度くらいからは、30度でも35度でもかわらないよ」と言うから、最果ての北国の人びと、おそるべしなのだ。


▼前回講演の後に立ち寄った宗谷岬。うそでしょ?という気温





▼車で小一時間ほど走るとオホーツク海に出る





▼宿泊した温泉。「ピンネシリ」を漢字で書くと「敏音知」




▼中頓別の風景





▼JRの玄関口「音威子府」駅。これで「おといねっぷ」と読む




▼おまけで宗谷岬








課題多き北の町と山の村。

それでも希望を失わずに生き抜くひとびとがいる。

前のブログでも記したが、ひとは傷つけば傷つくほど、ひとに優しくできるのかもしれない。

そしてひとは悲しめば悲しむほど、人を想いやれるのかもしれないとも。

傷つき悲しむ被災した小さな地域と、非効率・不合理の名の下に切り捨てられてきた小さなへき地が、同志としてつながっていく。

小さな地域同志のつながりが、優しさと想いやりを大切にするひとびとを育成していくと強く想っている。

目の前に横たわるマッタナシの課題をどう解決するのか、立場は違うがリアルな話はお互いに刺激的だった。

今回は時間が合わず喫茶店コーヒーを飲みながらだったが、次回は一献傾けながらおおいに夢を語りたい。


▼これが小林さん。彼のFBからいただいた写真




▼今回再会したのは、小春日和の東京である





夢を語る。

その前向きな気持ちが、地域を変え、社会を変えていくのだ。

今後、中頓別町と泰阜村が、「ひとづくり」をキーワードに紡がれるであろう豊かな縁にご期待いただきたい。



代表 辻だいち

タドタドシクテ、テマヒマカケテ ~山村留学の説明会をこどもたちが企画運営~

2016年01月25日 | こどものソコヂカラ
「薪作業!」

子どもたちが企画運営する「だいだらぼっち」の説明会は毎年一月、東京と名古屋で開催される。

参加者に「一年間で楽しいことは」と質問されて「薪作業!」と答えた子どもが、「一年間でつらいことは」という質問に次のように答えた。

「薪作業!」

子どもたちの正直さには微笑むばかりだ。

しかし、少なくとも彼らは、薪割りや里山から薪を運び出す過酷な作業を「楽(らく)」なことと思っていないことがわかる。

にもかかわらず「楽(たの)しい」という。

「めんどうくさいことが楽しいんだ」

当時、中学校三年のサキチがつぶやいた。

そもそも、自然体験や生活体験とは「不便なもの」だ。

言葉をかえれば「思い通りにならない」ということになる。

自然も人間関係も暮らしも、決して自分の思い通りにはならない。

そこに向き合うことは、このうえなく不便だ。

しかし、その「不便さ」こそが学びの土台になっている。

ところが最近の山村留学は・・・(続く)




拙著「奇跡のむらの物語 ~1000人の子どもが限界集落を救う!」(農文協)の一節である。続きはぜひ手元で読んでいただきたい。



この時期、こどもが東京と名古屋に出張する。

そう、暮らしの学校「だいだらぼっち」の説明会が行われるのだ。

企画も運営もすべてこどもが手掛ける。

年に一度の珍道中である。

何が起こるかわからない。

だからおもしろいのだ。



来年度のこどもたちの募集。

それはつまりは、こどもたちにとっては仲間さがしである。

私のような大人がPRするこのではなく、こどもたちがその声で語りかけるからこそ意味がある。

きっとこれまでも、こどもたちが30年の間こうやってこどもたちに語り掛けてきたのだ。

だから、今がある。

こどもたちの、たどたどしい説明。

テマヒマかけてるなあと想わせる映像や実物の数々。

きっとそれは伝わっている。









今回、私はこの説明会に同席できなかった。

でも、きっとこどもたちは、愉快で痛快な説明をしていることだろう。

それを遠くにいて信じている。

どんな反応があったのか。

泰阜村に帰ったら、こどもたちに聞くことにしよう。

いつもの薪ストーブの周りで。


代表 辻だいち


もう時効だから言う ~故郷福井で高校時代の親友と一献傾けた~

2016年01月24日 | 私のルーツ・私の物語
先週、高校時代の親友と、久しぶりに一献傾けた。

最近は、故郷の福井に帰ることが多い。

最強寒波の心配がある中、福井の地酒がおいしい店で飲んだ。



高校3年の時に初めて同じクラスになった彼は、バドミントンをやっていた小さいヤツだった。

なんだかウマが合い、以来、今日まで親しい関係を続けている。

小ぢんまりとした店で10年ぶり以上に出会った彼は、相変わらずあの時のままだった。


二人でとりとめもない話をした。

驚くことは、鮮明にあの時のことを覚えていることだ。

もう時効だろうから言うが、毎日毎日、学校帰りにはずいぶんと酒を飲んでいたもんだ。

先生には本当に申しわけないことばかり。

しかし、しかし、と想うことがある。

メールやSNS、ましてや携帯電話がない時代、どうやって連絡をやりとりしていたのか。

それでもちゃんと待ち合わせ場所に集まったり、遅れてもなんとかする技を、身につけていたのだろう。

好きな子の家に電話するには「夜分遅くすみません・・・」が最初の言葉で、もしお父さんが出たらどうしようかとドキドキしていたものだ。

話題の中心は、お互いの子どもと自分の健康問題。

そんな話をひたすらしながら、お互いの顔を見て、歳をとったなあと苦笑い。



初めて出会ってからもう28年。

私の長男がすでに彼と会った時の年齢だ。

それでも親友と一献傾けられる幸せに、今回は酔った。

〆る前にもう一人友人が来た。

彼ら2人は同じ中学校。

2人が馬鹿話をしながら去っていくその姿をずっと見つめていた。

月並みかもしれないが、なんだか涙が頬を伝う。



最強寒波が近づいている。

降りしきる雪が、漆黒の空を遮る。

子どもの頃の、あの北陸の空がそこにある。

もう二度と雪なんか見たくもない、と恨めしく想った空だ。

でも、その福井にやっぱりこうやって帰ってくるのだから、不思議だ。


▼これは私の家の近くにある神社と私が通った中学校









多くの出逢いと、多くの縁。

それらに支えられて自分は生きている。

苦しいこと、悲しいこと、いろいろある。

苦しめば苦しむほど、悲しめば悲しむほど、人はやさしくなれるのだと想う。

傷つけば傷つくほど、人は人を思いやれるようになるのだと想う。

親友と一献傾け、過ぎ去りし時間と真摯に向き合った今夜、ちょっぴりだけ自分がやさしくなれた気がした。

「ほんじゃまたな」

親友との別れの時は、あの頃そのまんまだった。

でもその言葉は、これまでの別れの中で一番想いやりのある言葉だったかもしれない。



代表 辻だいち

新たな公共をつくる人 ~フジドリームエアラインで飛ぶのだ~

2016年01月23日 | 日々雑感
熊本から名古屋に飛んだ。

最近は小牧空港を使うことが多い。

セントレア:中部国際空港ができる前では、ここが名古屋空港だった。

今は、小型機の国内線が飛んでいる。

名古屋駅から近いこともあり、ビジネスマンにけっこう使われているようだ。

南信州泰阜村からは、実は一番近い空港である。

フジドリームエアラインというローカルな航空会社がなかなか小気味良い。

機体の色が一機づつ違い、今日は何色なのか当日にならないとわからないので、けっこう楽しみなのだ。

まあ、乗ってしまえばどの色でも同じだが。






小牧空港に着いてから名古屋駅に向かう。

開発が続く駅前の一角のビル。

環境省関連の会議に呼ばれた。

環境省が設置する中部環境パートナーシップオフィス(通称:EPO)が開催する「MSHD」という会議だ。

マルチ・ステーク・ホルダー・ダイアログ、だからMSHDらしい。

私は「新たな公共をつくる人」を育む、というテーマで、長野県代表として呼ばれた。

もとより難しい話なんてできない。

今、泰阜村で実践している教育活動と、その先に見ていることを、短い時間だけれど発言した。

会議には、中部7県から多様な人々が集まった。

NPO、行政、株式会社、学校、他・・・。

多様な立場からの意見交換がもっとあるかと想ったが、この種の会議ではありがちの言いっ放しの会議だった。

でも、多様な立場の発言を聴くだけでも十分に刺激的である。

小さな村で30年積み重ねてきた教育のチカラの話は、集った人々にはどのように響いただろうか。

もしかすると、この人びとといつか協働することになるかもしれない。

そんなことをぼ~っと考えながら名古屋を後にした。


代表 辻だいち