この1週間は、自然に関する仕事だった。
とりわけ、次の世代の人材育成とか、事業継続のためのリスクマネジメントとか、である。
場所は東京だったが、毎日毎日全国から関係者が集まり、普段は山奥にいる身にとっては刺激的な時間だった。
そのいちいちを詳しく記すとややこしくなるので、今回は書かない。
その1週間の中で、ある研修会で想ったことを記したい。
自然をフィールドにして「ひとづくり」を行う自然学校。
前にも述べたがとても業界というシロモノではない。
業界の底上げを少しでもしていこうという企画運営に、今、私は関わっている。
業界の中堅職員を対象とした強化研修会が、やはり東京で開催された。
講師が問うた質問に次のようなものがあった。
「なぜその職業を選んだのか」
「なぜその職業を続けているのか」
その問いに、受講者である30代くらいの若者たちがう~んと想いを巡らせていてる。
その光景を見ながら自問する。
そういえば、自分はどうなのだ、と。
はっきりと覚えていることがある。
中学2年の時。
進路相談かなにかで担任の先生と面談だった。
「将来は、どんな仕事をやりたいか」と問われた。
いろいろと思案した結果「自然に関係する仕事につきたい」と言ったことを覚えている。
海も山も川もある自然豊かな北陸福井に育った自分は、なんとなくだけれどそう想ったんだろうな。
それが、農業なのか、国立公園のレンジャーなのか、動物園の飼育員なのか。
それは全くわからなかった。
あれから31年。
今、確かに自分は自然に関係する仕事についている。
大学時代は札幌で過ごした。
北海道の大自然に触れ、「この自然を守りたい」と熱く心に誓ったりもした。
体育会(運動部)に属していたが、休日はほとんどバイクで北海道中をめぐって、山に登ったり湿原や原生花園を歩いたり。
当時盛んになっていた知床半島のナショナルトラストなどの自然保護運動にも興味を持った。
札幌にある自然保護運動事務所に顔を出したら「運動やっている人には珍しいね」と言われたのをよく覚えている。
しかし自分が自然保護の最前線に立つのではなく、自然を大事にできる人を育てるほうが、自分にはあっているんじゃないか。
直感的にそう想ったんだろうな。
そうとしか説明できないよ。
だから北海道のへき地の体育教員を目指した。
海も山も川もある北海道のへき地に行こう。
体育会(運動部)で鍛えて体力には自信があったし、最終的には大学の専門は体育教授論だった。
迷いはなかった。
でも、学校の教室に入る前に、教室の外での学びの場にこの身を置いてみよう。
運動ばっかりやっていたバカは、そうやって社会から学ばなければ。
そう想って、2年くらいの自己研修だと飛び込んだのが、信州泰阜村である。
そしてそのまま23年この村にいる。
まあ、教室の中よりもこっちの方がおもしろくなったんだろうな。
そうとしか説明できないよ、ほんと。
こどもたちと創る1年間の暮らし。
泰阜村という自然と向き合いながら、身体を通して大事なことを学んでいく。
まさに私は、へき地の体育教員である。
中学2年生のころにつぶいやた「自然に関係する仕事につきたい」。
それがこのようなカタチになるとは。
あの頃には想像もできなかったカタチである。
▼今は確かに自然に関係する仕事についてる。まさにへき地の体育教員?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/0d/d490330be5f32ba8292eb5859036660e.jpg)
泰阜村に来た1993年の頃は、これが「仕事」などと言える状況ではなかった。
「そんな山奥に行ってどうするんだ」と、多くの人に心配されたものだ。
我ながら、波乱万丈の人生だと思っているが、もがきにもがいて今がある。
這いつくばって血反吐を吐いて今がある。
いやあ、人生っておもしろいとつくづく想う。
なぜその職業を選んだのか
なぜその職業を続けているのか
その後にもうひとつ質問が続いた。
それは、「その仕事を通した夢は何か?」である。
その問いにの答えは、これまでの歩みと、そしてこれから歩く人生にある。
やっぱり夢を語ろう。
夢を語るのは、理屈抜きにおもしろい。
とりわけ、次の世代の人材育成とか、事業継続のためのリスクマネジメントとか、である。
場所は東京だったが、毎日毎日全国から関係者が集まり、普段は山奥にいる身にとっては刺激的な時間だった。
そのいちいちを詳しく記すとややこしくなるので、今回は書かない。
その1週間の中で、ある研修会で想ったことを記したい。
自然をフィールドにして「ひとづくり」を行う自然学校。
前にも述べたがとても業界というシロモノではない。
業界の底上げを少しでもしていこうという企画運営に、今、私は関わっている。
業界の中堅職員を対象とした強化研修会が、やはり東京で開催された。
講師が問うた質問に次のようなものがあった。
「なぜその職業を選んだのか」
「なぜその職業を続けているのか」
その問いに、受講者である30代くらいの若者たちがう~んと想いを巡らせていてる。
その光景を見ながら自問する。
そういえば、自分はどうなのだ、と。
はっきりと覚えていることがある。
中学2年の時。
進路相談かなにかで担任の先生と面談だった。
「将来は、どんな仕事をやりたいか」と問われた。
いろいろと思案した結果「自然に関係する仕事につきたい」と言ったことを覚えている。
海も山も川もある自然豊かな北陸福井に育った自分は、なんとなくだけれどそう想ったんだろうな。
それが、農業なのか、国立公園のレンジャーなのか、動物園の飼育員なのか。
それは全くわからなかった。
あれから31年。
今、確かに自分は自然に関係する仕事についている。
大学時代は札幌で過ごした。
北海道の大自然に触れ、「この自然を守りたい」と熱く心に誓ったりもした。
体育会(運動部)に属していたが、休日はほとんどバイクで北海道中をめぐって、山に登ったり湿原や原生花園を歩いたり。
当時盛んになっていた知床半島のナショナルトラストなどの自然保護運動にも興味を持った。
札幌にある自然保護運動事務所に顔を出したら「運動やっている人には珍しいね」と言われたのをよく覚えている。
しかし自分が自然保護の最前線に立つのではなく、自然を大事にできる人を育てるほうが、自分にはあっているんじゃないか。
直感的にそう想ったんだろうな。
そうとしか説明できないよ。
だから北海道のへき地の体育教員を目指した。
海も山も川もある北海道のへき地に行こう。
体育会(運動部)で鍛えて体力には自信があったし、最終的には大学の専門は体育教授論だった。
迷いはなかった。
でも、学校の教室に入る前に、教室の外での学びの場にこの身を置いてみよう。
運動ばっかりやっていたバカは、そうやって社会から学ばなければ。
そう想って、2年くらいの自己研修だと飛び込んだのが、信州泰阜村である。
そしてそのまま23年この村にいる。
まあ、教室の中よりもこっちの方がおもしろくなったんだろうな。
そうとしか説明できないよ、ほんと。
こどもたちと創る1年間の暮らし。
泰阜村という自然と向き合いながら、身体を通して大事なことを学んでいく。
まさに私は、へき地の体育教員である。
中学2年生のころにつぶいやた「自然に関係する仕事につきたい」。
それがこのようなカタチになるとは。
あの頃には想像もできなかったカタチである。
▼今は確かに自然に関係する仕事についてる。まさにへき地の体育教員?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/0d/d490330be5f32ba8292eb5859036660e.jpg)
泰阜村に来た1993年の頃は、これが「仕事」などと言える状況ではなかった。
「そんな山奥に行ってどうするんだ」と、多くの人に心配されたものだ。
我ながら、波乱万丈の人生だと思っているが、もがきにもがいて今がある。
這いつくばって血反吐を吐いて今がある。
いやあ、人生っておもしろいとつくづく想う。
なぜその職業を選んだのか
なぜその職業を続けているのか
その後にもうひとつ質問が続いた。
それは、「その仕事を通した夢は何か?」である。
その問いにの答えは、これまでの歩みと、そしてこれから歩く人生にある。
やっぱり夢を語ろう。
夢を語るのは、理屈抜きにおもしろい。
代表 辻だいち