わが大地のうた♪

NPOグリーンウッド代表理事:辻英之(だいち)が今、南信州泰阜村から発信する炎のメッセージと…日々雑感!

北陸のど真ん中

2015年01月25日 | 全国のなかまたち
つくづく金沢とは素敵な街だと感じる。

風情があるのはもちろんだが、何よりいつ来ても素敵な出会がある。



私はお隣の福井出身だ。

この街には、中学時代に遠足で来た覚えがある。

まだ金沢城址に大学があったとかすかながらに覚えている。

一番覚えているのは、忍者寺。

いわゆるどんでん返しなどのカラクリが満載の寺は、こどもの好奇心を存分に刺激してくれた。

久しぶりにその寺の前を通ると、30年前がよみがえる。


▼忍者寺ともいわれる「妙立寺」





今回金沢に来たのは、「達人から学ぶ」という講座に招かれたからだ。

NPO法人角間みらいの里という団体が実施する連続講座。

今年で2年目だそうだ。

これまでの講師つまりは「達人」のリストを拝見して、これはなかなかの講座に招かれてしまったぞ、と内心思ったりもした。

今年度最後の講座ということで、「締めくくり」の意味もあるのだろう。

たくさんの受講者のみなさんが会場を埋め尽くしていた。



「限界集落から始まる教育改革 ~教育をど真ん中においた地域再生が、日本を変える!~」

わが泰阜村の底力を題材にした私の講座のテーマである。

生意気なテーマではあるが、受講生のみなさんには好評だったようだ。

午前中は、泰阜村の「教育立村」に向かおうとする30年の歴史をゆっくりと話した。

午後は、全国の失敗事例に共通する「落とし穴」を内々にお伝えし(笑)、最後は「で、あなたはどうする?」というワークも。

6時間は長いと思っていたがそうでもなかった。

それは、受講生も主催者スタッフの皆さんも、ほんとうに気持ちのいい人たちで、運営するストレスがあまりなかったことが大きいだろう。

また、会場に飛び交う言葉にはどことなく私の故郷福井の方言と似てる訛りがちらほら。

アウェイの感じがしない心地よい雰囲気が、あっという間に感じさせた。


▼そうそうたる達人の仲間入り








受講者のなかには、石川県だけではなく富山県や福井県から来た人も。

北陸はそこがいいところだ。

3県のつながりが目に見える。

そしてそのつながりをしっかりと形にしている主催NPOの力も見落とせない。



夜の部も金沢らしい酒と肴が素敵でずいぶんと酔ってしまった。

とりわけ2次会はこぢんまりとして心地よい雰囲気に。

同席した学生が、白山麓の白峰村の出身だという。

私が通っていた福井の中学校は、白峰中学校と姉妹校だったことを想い出した。

そんなことを話すと、奇遇だね、縁だね~、とまた盛り上がる。

NPOの事務局長である河崎さんとは、3年前に福島でほんの30分ほど顔を会わせたのが縁の始まりだ。

それ以来の再会となるわけだが、それを感じさせない近さがあるから不思議である。

来年度は「達人」を集めてフォーラムをやろう、そんなことをとりとめもなく語りあうのは、至福のひと時ともいえる。

素敵な縁をど真ん中にして、それがさらに豊かに紡がれていく。

そう。それこそが、小さな地域の戦い方でもある。


▼金沢駅は大騒ぎだ





3月には新幹線が来るという。

街はややバタバタしている感がある。

春からは人の流れが変わるのだろう。

この街がグローバル経済の波に流されるのか、いやローカルな誇りを守れるのか。

また金沢に来よう。

便利に到達できることになっても、素敵な出会いが重なり、魂が揺さぶられる街で、あり続けますように。


代表 辻だいち


飯田を侮るな!

2015年01月24日 | 泰阜村が大学になる
「今度は保健室でがんばります!」

学生が最高の笑顔を残して教室を出ていった。



私の住む泰阜村は、長野県南部に位置する。

南部の拠点都市は人口10万人程度の飯田市。

飯田市には4年制大学がなく、唯一女子短大がある。

ということは、南部出身の進学希望の若者は、一度は南部から出ていく運命にある。

だから今、飯田市に4年制大学を創設する動きもある。




さて、私はこの飯田女子短期大学で、5年間授業を受け持ち続けている。

5年前までは、短大と正直あまり接点がなかった。

村のこどもたちの未来を考える「あんじゃね支援学校」に、短大の教授を招いたのがきっかけだ。

彼は議論を通して、飯田市の隣村に「かくも力強い実践とノウハウ」があると感じたらしい。

短大の教育の質を上げるためには、地域の教育資源と連携しなければ。

彼は奔走したそうだ。

そして、翌年から私は非常勤として授業を持つことになった。


▼学生の興味は、私の出張土産(笑)







現在、養護教諭(保健室の先生と言ったほうがわかりやすい?)を育てるコースで3つの授業を持っている。

「養護処置」という授業では、こどもたちの日常に潜むリスクについて教えている。

「ファーストエイド演習」という授業では、応急処置の国際認定コース(MFA:メディックファーストエイド)を実施する。

「青少年体験活動演習」という授業では、実際のキャンプボランティア実習を通して全国的な自然体験指導者資格を取得する。

いずれも私たちNPOグリーンウッドの得意分野がカバーされている。

それは逆に、短大が教室の中だけれは実践的な学びを提供しにくい分野であることに他ならない。




今年度後期は「養護処置」のみだった。

教科書には書いていないリスクがたくさんあること、それに瞬時に立ち向かって状況判断をしなければならないということ、それを15回の授業でワークショップを主体に考えてもらった。

ただ座って黒板に書かれる文字を暗記するだけだった学生には、私の授業はずいぶんと新鮮だったらしい。

彼女たちはまだ20歳になったばかりだ。

しかし短大ではもう卒業で、4月には社会に出ていく。

まだ赴任するところが決まっていない学生もいる。

それでも彼女たちは元気に出て行った。

「今度は保健室でがんばります!」



その底抜けに明るい笑顔を最後にプレゼントされた私は想う。

人生を前向きにとらえることができる若者が地域の未来を変えていく、と。

信州南部の若者が2年とはいえ地元の大学で学んだ。

そして、信州のために社会に出ていこうとしている。

がんばれよ。

信州の未来は君たちにかかっている。


▼NPOグリーンウッドのスタッフもゲストスピークしてくれた





▼教え子は、ほんとうにかわいい





しかし、もしかすると私の息子や娘の小中学校に赴任してくるかもしれない。

そう考えると不思議というか腑に落ちるというか。

まさに「学びは循環している」と感じる。

人を育てる醍醐味を私も感じている。



代表 辻だいち

先生の声はいつも優しくて…

2015年01月21日 | 泰阜村が大学になる
今年度最後の授業のリアクションペーパーにはこう記されていた。

「先生の声はいつも優しくてききとりやすかったです」

先生とは、私である。

立教大学の「自然と人間の共生」という授業で1年間、教鞭をふるってきた。

毎回の授業ごとに、リアクションペーパーに感想や学び、そして私への「つぶやき」が記される。


▼これがリアクションペーパー






東日本大震災の直前の冬、立教大学から非常勤の授業をお願いされた。

毎週東京に出てきてくれという。

私の住む南信州泰阜村から東京までは5時間もかかる。

しかも授業名がふるっている。

「自然と人間の共生」

気の遠くなるようなテーマではないか。



往復10時間もかけて、毎週通えるわけがない。

何よりこんな壮大なテーマで私が話せるわけもない。

そう想って断りかけたが、担当者の一言がそれを押しとどめた。

「泰阜村の人々の暮らし、それがそのまま自然と人間の共生でしょう。それを語ってください。もちろんそこで展開される教育活動も。ぜひ。」

わが意を得たりとはこのことか。

常々、泰阜村の厳しい自然と向き合って暮らしてきた人々の壮絶な営みについて、若者に伝えたいと思っていたからだ。

泰阜村まで足を運べない青少年にも、この泰阜村の教育力を説くことができたら。

迷いはなかった。

2011年4月からの授業は、震災によって1ヶ月以上も開講が遅れた。

以来、今日まで約4年間、毎週東京通いを続けている。


▼おしゃれで重厚な雰囲気の立教大学




▼前期も後期も、約300人ずつの学生が履修してくれる





この授業の目標は次の通りだ。

「へき地山村に住む人々が営む自然と共存する暮らし。その暮らしに潜む教育力を学び、今求められる自然と人間の関係性を考える。」

学生諸君がこの目標を達成するために、私は渾身の力で彼らに語りかけた。

時には泰阜村から猟師が、時には福島県飯舘村から被災者が、授業に来てくれた。

今後彼らが生きる社会では、「関係性」を深く考察するチカラが必ず必要になる。

そして、「関係性」を丁寧にたどるチカラも。



ほんの少しだけ、最後のリアクションペーパーを写真で紹介したい。

14回の授業の感想である。

オマケで学生諸君の率直な「つぶやき」も紹介した(笑)


▼そうか。俺も、「がんばらなくちゃ!」と想って往復10時間かけてましたよ。授業、聞いてくれてありがとう。





▼徹底して考えた将来が、「メイクセラピスト!」 がんばれ。応援してる!





▼そうそう、夢は叶えるものだからね。





▼俺もこたつ大好きです。レポートがんばれ!





▼ほんと遠いんだよ泰阜村は。いつかみんなで遊びにおいで。授業、聞いてくれてありがとう





▼そうなんですか。女子の本音やね。





▼俺も来週沖縄に行くよ! ソーキそば、うまいよな~





▼4年間いて、考える授業が初めてなんて、立教大丈夫か!?  彼女と仲良くやってください!





▼やさしい気持ちになれたならよかった。また会おう!





▼300人と距離を縮めるのはたいへんなのだ。単位ほしけりゃ試験がんばれ!






私の声がやさしいかどうかはわからない。

ましてや聞き取りやすいかどうかも。

私は決して話が上手なほうではない。

むしろ下手の部類だろう。

でも、私には「伝えたい」という強い想いがある。

そして、「伝えたいもの」「伝えなくてはならないもの」がある。

それをどうにかして、なんとしてでも、若者の心に送り届けるのが、大学での私の使命なのだ。

聞き取りやすかったならよかった。

これからも丁寧に、伝えつづけよう。

学生諸君、がんばれよ!


代表 辻だいち

ツインズ

2015年01月19日 | 震災支縁=支え合いの縁を紡ぐ
「覚えてる! お腹がすごく大きい人だよね!」

笑えた。

20年ぶりの再会の場面でのことである。



場所は群馬県赤城山。

自然体験活動やアウトドア団体の指導者向けのリスクマネジメントセミナー。

私は講師としての参画だ。

とかく沈む雰囲気になりがちなリスク関係の講習が、楽しい雰囲気となったのは受講生の皆さんの真摯な姿勢の賜物だろう。

私もまた学び多い1泊2日だった。



会場となったのは国立赤城青少年交流の家。

職員・スタッフのきびきびした態度や言葉は、たいへん気持ちの良い雰囲気で、セミナーの成功を側面からぐいぐいと支える。

皆さん、1泊2日たいへんお世話になりました。




その職員・スタッフの中に、約20年ぶりの再会となる人がいた。

あれあれ、同じ顔が受講生の中にも??

そう、双子だ。

この双子、創生期の信州こども山賊キャンプの参加者である。

名前が特徴的な双子ということで、私もよく覚えていた。


▼約20年ぶりの感動の再会






「私たち、2週間くらいいたよね」

「そうそう、本がいっぱいある部屋で待たされて」

「夕方に次のコースのみんなと合流したんだよね」

次々とわきああがる彼女たちの言葉は、かすかにたどる記憶がよみがえる驚きだろう。

私も20年前の風景が鮮やかによみがえる。



当時代表だった「むさしを覚えてる?」と聞くと…

「覚えてる! お腹がすごく大きい人だよね!」

その通り。

よく覚えていたね、と大笑い。



あの頃、この双子は8歳くらい。

それが今は、一人は高校教員。

もう一人はなんと、会場となった国立赤城青少年交流の家の職員!

あんなに小さかった双子が、今や私と同じこどもたちの未来を創る仕事をしている。

しかも一人は自然体験の同業者。

なんだかもう、冥利につきるというかうれしいというか。

うれしくて、懐かしすぎて、そして笑いすぎて、不覚にも涙がちょっぴり出てしまった。




双子の名前は、青葉と若葉。

お父ちゃんは、生命力の強い旧知の仲間だ。

この双子と、いつか一緒に仕事がしたい。

そんなことを想いつつ、講習を終えて赤城山から降りてきた。

赤城に入る時はただただ寒くて震えていた空っ風。

降りる時にはそれが心地よい風に変わっているから驚きだ。

前橋の街の佇まいに包まれて、赤城山を振り返って深呼吸。

そして心に想った。

20年前に泰阜村で産まれた縁を、今、再び感じることができて幸だ、と。

豊かに紡いでいかなければ、と。


前を向こう。

未来に向かおう。

そして次の地へ、次のステージへ、足を進めよう。




▼とてもセンスのいい会場





▼私は「ヒューマンエラー」という講義を担当した





代表 辻だいち

20年目の1月17日

2015年01月17日 | ひとねる=自律のひとづくり
「今年なんと30! 震災から20年と、自分が30になることがダブルでびっくりだよ!(笑)」

なんとも元気なメールが神戸から届きました。



20年目の1月17日。

私にとっても、特別な日となりました。

20年前といえば私は若き24歳。

大学卒業と同時に泰阜村に来て、2年目の冬です。

午前中に村役場に用件があって言った時に見た、テレビの映像が忘れられません。

神戸在住の友人から電話がつながったのが数日後。

携帯電話もない時代、安否確認に途方もない時間がかったのが、20年前です。



神戸の惨状をテレビや新聞で見て、いてもたってもいられずに当時の上司と共に神戸へ。

若さとはそういうものなのかもしれません。

でも、何もできないことがわかっていて行くことも、今と違って手探りだったのです。

気の遠くなるようなバス・電車の行列を耐え、ようやく神戸の待ちに足を踏み入れた時、吐き気をもよおしました。


街が歪んでいた。

どこが水平で、何が垂直かがわからなかった。

ぺしゃんこになった家のそばで佇むおばあさん。

避難所になった小学校で話を聞いてくれた憔悴しきった教頭先生。

日本中の泥棒が集まっているという話を、涙を流しながら話してくれたおばちゃん。


今も鮮明に想い出します。

今思えば、泰阜村長の親書をしたためて神戸の町に入り、神戸市役所や兵庫県庁に乗り込んでその親書を渡しまくった自分は、本当に若かったと思います。

村長の親書は、被災児童を泰阜村の山村留学で預かる、という内容。

当時語られた「疎開」の一つのカタチです。

珍しかったでしょうね。

信州の山奥から、神戸のこどもたちに対して「1年間、おいで」という声がかかるなんて。

3年前の東日本大震災ではそれが当たり前になりましたが。



神戸に何度も何度も通い、当時小4の女の子2人が、泰阜村に「疎開」してくることになりました。

NPOグリーンウッド・暮らしの学校「だいだらぼっち」が、震災などの重大自然災害に対して身の丈にあった支援を行った最初です。

懇意だった神戸の市民団体が「疎開」のニーズを拾う。

そして被災児童2人を暮らしの学校「だいだらぼっち」で受け入れる。

その参加費用は泰阜村行政が負担する。

20年前に、この構造を創りました。



1年間、泰阜村で山村留学をした女の子。

今年、30歳になります。

冒頭のコメントは、その子からのメールです。

この世の終わりともいうべき惨状を目の当たりにした彼女。

血の涙を流しながらも、親元を離れて信州で1年間暮らす決意をした10歳の彼女。

私は彼女をわが子のように、わが妹のように、1年間向き合いました。

そして、その後の20年間も。

この20年に、彼女の身には多くの困難がふりかかったでしょう(今回のメールにも、彼女の友人が向き合う苦悩が語られていました)。

多くの幸せもまた降り注いだでしょう。

生きていればこそ、です。


▼これは昨年の3月に、私の講演に来てくれた彼女です。




30歳か。

今からだよ。

支えてる。

一生支え続ける。

一緒にがんばろう。



私も20の歳をとりました。


もう44歳です。


代表 辻だいち