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わが大地のうた♪

NPOグリーンウッド代表理事:辻英之(だいち)が今、南信州泰阜村から発信する炎のメッセージと…日々雑感!

【泰阜村は国策被災地】~熊本地震の被災地で夢を語る~

2018年01月24日 | 震災支縁=支え合いの縁を紡ぐ
ウワサの天草エアラインの飛行機に乗った。
倒産寸前の小さな航空会社が奇跡のV字復活、と、テレビだかなんだかでやっていた気がする。
これがそうなんだろう。
ずいぶんとカワイイ機体だ。




この機体が降り立ったのは、熊本空港。
被災地に足を運ぶのは、今年度5回目である。
これまでの4回は、こどものためだった。
NPOグリーンウッドが主催する信州こども山賊キャンプに、被災したこどもたちを招待して2年。
呼びかけにきたり、打ち合わせに来たり、説明会に来たり、報告会に来たり。
今回は、こどものためだけではない。
被災地の復興を目指すひとびとから、講演に呼ばれた。


被災地のど真ん中、震源地の益城町。
衝撃的な光景が広がったこの地も、見た目はすっかり片付いている。
しかしこの地はこれからだ。
そんなことを想うひとびとが、益城町だけではなく広く被災地全体から集まった。
定員をうわまわる参加をいただたというから来た甲斐がある。


主催者は、RQ災害教育センター。
東日本大震災を機に、全国の自然学校といわれる運動体が束になって作った機関である。
自然学校という手法を用いて被災地を復興できないか。
このような趣旨だ。
被災者にとっては自然学校などどうでもよいことだろう。
私もそう想う。
私は泰阜村とNPOグリーンウッドの30年の実践を語った。
そして、今後の夢も。




泰阜村もまた被災地だ。
あらゆる国策に翻弄され続けてきた、いや、これでもかというほど痛めつけられてきた、弱き僻地山村である。
そう、泰阜村は国策被災地なのだ。
そんな国策被災地が今、教育立村に向けて歩みを始めようとしている。
そんな話をした。


短い時間だったが、参加者の強い想いが渦巻いた。
私は、支え合いの縁を豊かに紡いでいくことを「支縁」と呼んでいる。
支援が支縁になっていく。


代表 辻だいち


【1月17日が、「い・い・なの日」になるように】 ~阪神大震災の被災児童ももう32歳~

2018年01月17日 | 震災支縁=支え合いの縁を紡ぐ
1月17日
23年前の今日、阪神淡路地域に未曾有の大地震が発生した。
その当時、テレビ、新聞が悲惨な状況や死者数などを競って発表する中、私たちは「私たちに何ができるのか?」と南信州の地で考えた。
SNSなどない時代。
現地の情報なんか全く手に入らず、考えても考えてもよくわからなかった。
だから、まずは被災地に行ってみたのだ。





数回、現地神戸市に足も運び、街の状況を肌で感じた。
平衡感覚を失うほど街がゆがんでいる。
全国から集うボランティアの活発な姿や、ガレキと化した家の前にいけられた花が目に映る中、私たちは考える。
「被災児童の疎開受け入れができるのでは。もしニーズがあるのであれば、私たちの今までの経験と教育の場が役立つことになるのではないか」と。
そんな折り、伊丹市の市民団体と私たちの地元泰阜村当局の両方から「被災児童の長期受け入れができないか」という要請があった。

そして、次ような役割分担ができた。

市民団体が現地状況の調査と募集。
泰阜村行政が財政支援。
私たちNPOグリーンウッドが児童の受け入れ。
今思えばパートナーシップ事業のモデルとも言えるような協力体制ができあがった。


1995年4月から1年間、西宮市の小学4年生女子2人が、暮らしの学校「だいだらぼっち」に元気に参加した。
その夏休みには、2人が通っていた学校のクラスメイト17人を泰阜村行政が夏キャンプに招待し、企画運営を私たちが担った。
続いて1996年4月から2年間、神戸市灘区の小学5年生1人が暮らしの学校「だいだらぼっち」に参加し、1998年3月に泰阜南小学校を卒業した。




暮らしの学校「だいだらぼっち」で、彼らはたくましく育った。
現地で復興に向けて親子が力を合わせるのと同じ位、離れた地でがんばることは大事なことだった。
そう自分に言い聞かせて暮らす姿はいじらしいほどであった。
そしてそんな彼らを受け入れた仲間たち、村の人々がいる。
様々な立場のこどもたちが共同生活する「だいだらぼっち」は、まさに「違いは豊かさ・多様性の共存」をこころに刻む学びの場となったのだ。
そして厳しい自然環境のなかで助け合いながら生きるひとびとの住む泰阜村での生活は、まさに「支えあい・お互い様」を身体に刻む学びの場となった。




その3人ももう32歳。みな社会人である。
彼女たちからさきほど届いたメールである。
長くなるがおつきあいいただきたい。


思うことは、もう23年経ったんやーということかな。記憶も風化してしてきて、また、日々忙しく、今日のネット情報とかで「今日は震災の日か」と、思い出す感じやね。
けど、震災への備えは昔よりもしっかりするようになってるかな、それは家族、子供ができて、何かあった時の責任感に起因してるかもしれないけど、大震災に実際経験した怖さ、大変さをどこかで覚えてるんやろうね
震災のことは今日みたいな日に一年に一回思い出すかしないかぐらいになってるけど、今後大震災が起こった時の避難、連絡、備えの大事さについては日頃のから家族も含めて話したり考えとかなあかんね





『重い地元負担…復興借金、いまだ4386億円 東日本被災地は地元負担ゼロ「不公平」の声も』っていう記事があって、いろいろ考えた1日だった。
財政について若干他人事みたいに思ってしまう自分もいて、年月が経って個人的には傷も癒えて良しとするか、もっと関心を持つべきか、と思ったり。
東日本の人が一生懸命復興しようと頑張ってる最中、阪神地域の人で「不公平」って思う人がいるって知ったら「同じ経験をしたのにな」って寂しくならないかな、とか心配してみたり。
神戸の街は元気で、見た目では完全復興のように見えても、まだまだ問題があるんだなとか。
23年間で地震以外も被災してる地域がたくさんあって、過去の被災を教訓としてどんどん改善されていくことを期待するのが当然だと思うけど、「自分の時は家が全壊して何もかも失って、あとからの人は自分の時よりいろいろサポートを受けている」ってなったとしたら、「ずるい、羨ましい。」って思うのも自然な感情なんだろうなとも思ったり。
じゃあ阪神淡路大震災の更に前に被災した人からしたらどうなんだろうとか。
支援すること、されることについては、「世の中を変えていこう」とする人と、「世の中が変わればいいな」と思ってる人でもまた捉え方が違うんだろうなとか。
平等って難しい。
こういうことを考えるのも、この日か、どこかまた被災地が出てしまった時かだけだから、1/17は大切にしていきたいと思う。




阪神地域はすっかり復興したと聞く。
しかし、復興とは元に戻ることだけではないだろう。
建物や道路はもちろんだが、価値観も再構築されてさらに磨きがかかる。
大震災が私たちに伝えるものは、この価値観の再構築だ。
私たちは「違いは豊かさ・多様性の共存」という価値観を、「支えあい・お互い様」という価値観を、こどもたちと共にもう一度築き上げていこうと強く想う。
そうしてはじめて、復興と言えるのだ。
多くの災害が日本を襲うたび、私たちNPOが担う人づくりの役割もまた磨きがかかる。
阪神・淡路で被災して心も身体も傷ついたこどもが、小学生時代に泰阜村の風土に包まれて育った。


今後、彼らが果たす社会的役割に期待である。
1月17日が「いいなの日」になるように。

代表 辻だいち


【もうひとつの1月7日】 ~昭和⇒ボランティア⇒タイガーマスク

2018年01月07日 | 震災支縁=支え合いの縁を紡ぐ
1月7日。

七草粥を食べる日だが、若い世代は今は食べるのだろうか。
「人日」の節句である。
私の世代が知るもうひとつの1月7日は、29年前、1989年のこの日だろう。
昭和の歴史が終わった。
私は当時大学受験真っ最中。
最後の共通1次試験が目前に迫っていた。
折しも、平成の歴史が終わろうとしている。
数十年後に、今年のことを思いだす人がいるかもしれない。




さて、それから8年後の1997年1月7日。
覚えているだろうか。
福井県三国町の日本海で重油タンカーナホトカ号がひっくりかえり、大量の重油が日本海を汚染したことを。
福井は私の故郷で、三国の海岸はこども時代によく遊びに行った海だ。
小正月に帰省した時に、油だらけの真っ黒な海を見て絶句した。
「日本海が終わった」
そう想うほどに壮絶な状況だった。
荒ぶる真っ白の吹雪と、黒い油膜がうねる荒波のコントラスト。
でも、いつもの冬の荒々しい波ではなく、重々しい波に、涙が出るどころか、この世の終わりとばかりに震えたものだ。
実に、21年前のことである。



ここで活躍したのが全国から集まった青年ボランティアである。
その2年前の1995年が阪神大震災を機にボランティア元年と呼ばれ、間をおかずに勃発した災害に、国民が反応した。
全国から集まった善意が地域住民の不屈の想いと重なり、日本海はよみがえった。
そして私もまた重油を掬いに行ったボランティアの1人である。
もちろん、暮らしの学校「だいだらぼっち」の子どもたちも。
その当時、新聞に紹介された記事を2件、紹介する(毎年紹介しているけれど、まあおつきあいいただきたい (笑))。




1997年(平成9年) 1月22日(水曜日) 中日新聞

福井の重油回収 県内の若い力も支援活動
泰阜のダイダラボッチの小中生 11人、駆け付け奉仕
すくい出しやふき取り



 泰阜村田本、通年合宿所ダイダラボッチ(辻英之所長)の子供たち11人(小学生6人、中学生5人)は19、20の両日、ロシア船籍タンカーによる重油流出事故で海岸への漂着被害を受けている福井県坂井郡三国町を訪れ、ボランティアで重油回収作業を手伝った。
 辻所長(26)は福井市の出身。小正月で実家に帰省した際、三国町で重油回収作業に参加し「一人でも多くのボランティアが必要」と感じ、子供たちに福井からファクスで参加を募った。

 合宿所で生活する子供たちの中には、神戸市灘区から来ている小学生もおり「阪神大震災の時のお礼もしたい」と全員が賛同。19日が授業参観で、20日が振り替え休日となっていたことから、19日午後にマイクロバスで三国町に入った。

 日本海は荒天で、回収作業は20日の午前中、2時間ほどしかできなかった。しかし、子供たちは、海岸の石を一つひとつ持ち上げ、すき間にたまった重油をすくい出したほか、石に張り付いた重油をふき取る作業に一生懸命に取り組んだという。

 19日は、辻所長の友人宅に泊めてもらい、現地の人から重油が海や環境へ与える影響など、貴重な話を聞くこともできた。

 辻所長は「わずかな時間しか参加できなかったが、小さなカの積み重ねが大切だということを学んだと思う。日本海が元の姿を取り戻すまではしばらく時間がかかる。また機会を見て、ボランティアに参加したい」と話している。(終)












1997年(平成9年)1月24日(金曜日)  信濃毎日新聞

重油回収 僕らも
泰阜村 山村留学の子供たち参加
福井・三国町で深刻さを実感「また行きたい」



 日本海のタンカー重油流出事故で、下伊那郡泰阜村の山村留学施設「グリーンウッド遊学センター」(辻英之所長)の子供たちがこのほど、タンカーの船首部が漂着した福井県三国町で、全国から集まったボランティアに交じって重油回収に協力した。

 ボランティア参加したのは、関東、中京方面から山村留学し、村内の小中学校に通う子どもたち13人。19日に現地入りし、20日の午前中、海岸に打ち寄せた重油の回収を手伝った。

 「チョコレートが溶けたような感じ」(子供たち)で至る所にこびり付く重油を、竹べらやスコップでこそげ取り、石を一つひとつ布でぬぐう。「気の遠くなるような作業だった」と辻さん。神戸市民をはじめ、全国からボランティアが詰めかける中、子供たちは新聞やテレビニュースでは想像もできなかった被害の深刻さと、人々の支援の力を実感した。

 福井市出身で、小学生のころ現場近くの海岸に遠足に出掛けたという辻さん。たまたま帰省していた18日に三国町に立ち寄り、汚染のひどさを見て、センターにファックスを入れた。支援の呼び掛けに、子供たちは即座に参加を決定。阪神大震災で被災し村に来ている小学五年生も、高校受験で横浜市に帰っていた生徒も駆け付けた。

 「またボランティアに行きたい」と子供たちはいう。「元通りのきれいな海に戻すには相当時間がかかるはずだ。助け合いがどんなものなのか、感じ始めた子供たちと、また現地に行きたい」と辻さんも考えている。(終)






自分が若くてクラクラする(笑)
阪神大震災の時(1995年)、被災児童を暮らしの学校「だいだらぼっち」で3年間預かった。
そのこどもが、1997年の福井重油事故では、先頭に立って重油を掬ってくれた。そそう、私は、神戸のこどもたちにも、ふるさとを助けてもらった一人である。
その恩を、私は一生忘れない。


覚えてるだろうか2011年の今を。
タイガーマスク現象が巻き起こった時期だ。
3月には未曽有の大地震が起こる。

その2011年から今まで、東北のこどもたちを支援することに奔走してきた。
支えられた自分が、今度は東北を支えてきた。
同じことは一昨年の熊本地震でも。
あの時、重油をすくった子どもたちは今、30歳を超えた。
そのうちの一人は、昨春、結婚した。
もちろん、私も参列した。
うれしすぎる。
きっと彼らは今でも、周囲のひとびとを支えているはずだ。
それでいいのだ。

善意のタイガーマスクは常に世の中に存在する。
私は、全国のボランティアに故郷を救ってもらった1人である。
だからなのか今、被災地を想う。

ひとは、傷つけば傷つくほど、ひとにやさしくなれるのだと想う。
苦しめば苦しむほど、悲しめば悲しむほど、ひとを想いやれるのだと想う。
支え合いは、支え愛。
1月7日はいつも、愛を感じる日なのだ。


代表 辻だいち






【困らない時もお互い様】 ~被災地熊本からミカンが届いた~

2017年12月06日 | 震災支縁=支え合いの縁を紡ぐ
みかんが届いた。
なんと九州、熊本からだ。
信州こども山賊キャンプに招待したこどもたちと、その保護者の皆さんかららしい。




今年夏、熊本地震で被災したこどもたちを、キャンプに招待した。
2年目となると、全国からの支援もなかなかないとのこと。
表面的には復興が進んでいるかのようにみえる被災地。
でも、こどもたちの心に残した傷は深い。
泰阜村は、教育を通した支援を、一貫して続けている。
それは、阪神大震災に始まり、中越地震、東日本大震災、そして熊本地震へと。



泰阜村のひとびとの暮らしの営みから滲み出るように産み出される教育のチカラ。
その教育力が、キャンプを通して熊本のこどもたちの身体と心に流れた。
そう確信している。





保護者の方からメッセージが来た。
「素敵な夏の思い出になりました。また行きたいそうです。いつかリーダーで参加してくれたら嬉しいです。お世話になりました」
待ってるよ。
困った時はお互い様。
困らない時も、お互い様。


薪ストーブを囲んで、さっそく食べた。

うまい。

「支え合い」の味がする。


代表 辻だいち


【支え合うからこそ豊かな縁が紡げる】 ~熊本のこどもをいつまでも応援し続ける~

2017年10月24日 | 震災支縁=支え合いの縁を紡ぐ
熊本に来た。

今年度、5回目の被災地訪問になる。

今回は、「夏の信州こども山賊キャンプ」に招待した熊本地震の被災児童を対象に、想い出会(報告会)を開催した。

14人中11人のこどもたちと保護者が集まってくれた。

欠席した3人も、修学旅行と重なったというのだから100%の参加だ。

そして、そして鹿児島大学の学生や、山口県の教員など、キャンプに参加したボランティアも来てくれた。

スタッフが作成したビデオやスライド、そして泰阜村民たちからのビデオメッセージ等々。

あたたかい演出に、参加した熊本のこどもたちは一様に「楽しかった」と言ってくれた。











しかし一方で考えるのだ。

私たちは、このこどもたちに、どれだけのことを支援できたのだろうか、と。

ただの自己満足ではなかっただろうか、と。

こどもたちの一言一言が、私たちの誠意を試しているような気がする。

「一生わすれない思い出」になったこと、本当にうれしい。

でも、被災地のこどもは、復興に向けての闘いがまだまだ続く。


もしかすると、心に刻み込まれてしまったトラウマとは、一生つきまとう闘いかもしれない。

それでも、この泰阜村で 自然に包まれて、村人の支えあいの気持ちに包まれて、確かに何かをその小さい胸に刻み込んで被災地に帰っ
ていったことだろう。

このこどもたちが被災地の未来をつくっていく。

このこどもたちが日本の未来をつくっていくのだ。

多くの人々の気持ちに支えられて、きっと熊本のこどもは強くなる。

そう信じている。




熊本のこどもたちと泰阜村との出会いの縁が、今後どのように紡がれていくのか。

それをみんなで楽しみにしつつ、みんなでその希望を語り合うのが、本当の意味での「支援(縁)」なんだと想う。

支援は「支縁」。

支えあうからこそ、豊かな縁が紡がれる。



また会おう。

一緒にすばらしい未来をつくろう。

いつまでもいつまでも、遠い小さな泰阜村から、きみたちのことを応援している。


代表 辻だいち