わが大地のうた♪

NPOグリーンウッド代表理事:辻英之(だいち)が今、南信州泰阜村から発信する炎のメッセージと…日々雑感!

【こうやって小さな集落は守られてきた】 ~いつまでもこのワイワイが続きますように~

2017年11月26日 | 泰阜村のソコヂカラ
週末は、集落自治会の「道つくり作業」
集落構成員総出で、道路の溝さらいや草刈り、支障木撤去など。
早朝からたっぷり3時間。
もちろん、暮らしの学校「だいだらぼっち」のこどもたちも出労。
みんなで力を合わせて、細い道の先にある老夫婦の家までの道がきれいになる。
こうやって、集落は守られてきた。





「道つくり作業」の後に、「阿弥陀様」祭り。
難病の神様で、その昔、疫病の流行からこの集落の人々を守ってくれたとか。
その感謝を今に伝えて構成員全員で祭りを行っているというわけなのだ。
暮らしの学校「だいだらぼっち」のこどもたちにも、そのいわれを長老が語ってくれる。仲間や家族がインフルエンザやノロウィルスなどに罹らないように、私も真剣に祈った。




本来は阿弥陀様の前にゴザを敷いて、班構成員総出でお祭りの宴会をやるところなのだが、寒いので会場を移動して焼き肉。
それでも外で食べたけど(笑) 
この村は、何かあると焼肉、それが文化である。
各戸からの持ち寄りの漬物や果物が彩りを添える。





乳幼児から長老まで、生粋の泰阜人からUIターンの人まで、立場や背景に関係なく、みんなでワイワイと肉をつつき、お酒を酌み交わす。
こうやってワイワイやるからこそ、きっと今年の冬も感染症から阿弥陀様が守ってくれる。
そういうことなのだ。


小さな集落に住む人々が、少ない財(労働力、時間、汗、祈り、夢、などなど)を持ち寄って、この集落を守り続けている。
その豊かさを、次世代に伝えなければならない。
いつまでもこのワイワイが続きますように。


代表 辻だいち


【こどもから怒られた】 ~コメの暮らしから産み出される学力~

2017年11月25日 | こどものソコヂカラ
やっと脱穀が終わった。
やっと、ついに、とうとう。
そんな言葉が似合う、と勝手に想う。
毎週末の雨に悩まされ、稲刈りは4週遅らせることになった。
しかも水がなかなか引かずに足元がぬかる中での稲刈り。
必然的に脱穀も遅れる。
しかも夏の長雨もあり、今季はちょっと不作だ。






もうやだー! と嘆きたくなるものだ。
でも、こどもたちは誰も嘆かない。
「早く新米を食べたい」
と、むしろ積極的に脱穀作業を進めている。
よく働くこどもたちだ。
目を細めていると「だいち、ちゃんと機械動かしてよ」とこどもから怒られた。
春から手間暇かけて育ててきたコメ。
いろいろあったけど、1ヶ月天日に干した新米だ。
きっとおいしいにきまっている。









4月には、土いじりもできなかったこどもがいる。
そんなこどもが、今、「もったいない」「みんなで拾えばお茶碗何杯分かな」と言って、泥だらけになって落ち穂を拾っている。
ここで培われた「学力」はどんな「学力」なのか。
それはけっして、水稲栽培の知識と技術といった「学力」だけではない。
それはきっと、仲間の暮らしを長期的に見据える視点を伴った「学力」なのだ。
暮らしが産み出す「学力」。
今こそ問い直すべきだ。

代表 辻だいち

【これ、おだちんな♡】 ~小さな村の資源回収は心地よい~

2017年11月19日 | 泰阜村のソコヂカラ
この村には中学校がひとつしかない。
ふたつあった中学校が統合したのが25年前。
ちょうど私がこの村に来たその時だ。
小学校も8年前にひとつに統合されてしまった。
されてしまった? そう聞くと重苦しくなるが、これはこれで元気な学校になっていきている。

週末は早朝から中学校のPTA作業。
資源回収の作業だが生徒会も一緒にやる。
回収して得たお金が生徒会の運営費用の一部になる。
正確には、生徒会の作業をPTAがサポートする、と言った方がいいかもしれない。

集めるのは基本的には新聞やダンボール、ビール瓶などなどだ。
統合されたばかりの25年前は、お酒の一升瓶なんか途方もないくらいの量だった。
今では10分の1以下だろうか。
飲む量が減ったのか飲む人が減ったのか、それとも一升瓶ではなくなったのか。
四半世紀という時代の変遷を感じる。

さて、その資源だ。
基本的には、村民の皆さんに中学校まで持ってきてもらう。
しかし車がないお年よりも多い村。
そこはPTAや中学生が、村内をまわる。
軽トラに中3の長女を乗せて、わが集落をまわった。
彼女が気にしたのは、独居老人や老夫婦の家。





誰も行かないような曲がりくねった細い道。
その先の2軒の家を訪ねる。
「やっぱりあったあった」
と長女が声をあげる。
その声を聞いて、おばあまたち(おばあ様の意味の方言)が家から出てくる。
「わざわざ来てもらって助かるよ」
「これ、おだちんな」
とおやつをもらって「あとで(クラスメートと)食べよ♡」と喜ぶ長女。





そんな会話を生徒があちこちで繰り広げたのだろう。
たくさんの資源が集まって、無事作業を終えた。


一人暮らしの老人のことまで考える資源回収の雰囲気。
それがとても心地よい。


代表 辻だいち




【小学生が大学生に教える】 ~そんな大学があってもいい~

2017年11月18日 | 泰阜村が大学になる
養護教諭のタマゴたち

飯田女子短期大学で私が受け持つ授業の学生だ。

今回は、校外実習で私の職場に連れてきた。

暮らしの学校「だいだらぼっち」(山村留学)のこどもたちの暮らしをサポートする。

それを通して、こどものリスクとどう向き合うかを学ぶ。




この日は、こどもたちは山に入って間伐材を搬出する予定だったが、生憎の雪雨で延期となった。

なので、1年を通してもなかなかないまさかのまったり1日。

その分、学生にとっては、こどもたちの自立的な暮らしを共にする貴重な時間だった。







サポートするとはいうが、内実は逆だ。

1日の時間の使い方。

薪ストーブを焚くときの注意。

こどもたち主導のごはん作りでの衛生的注意点など…

ここでは、確かに女子大生が小学生から学んでいる。




小学生が大学生に教える。

そんな大学があってもいい。

12月にもう一度来てもらう。

さて、どんな学びに着地していくか。



代表 辻だいち


【失敗の国策を乗り越えて】 ~満蒙開拓交流20周年~

2017年11月16日 | あんじゃねぇ=平和で安心な社会へ
20周年記念祝賀会。

何をおいても泰阜村に戻ってきた理由である。

当時の人口の3分の1を満州開拓に送り込んだ泰阜村。

「失敗の国策」の当事者である。

わが村は「国策が必ずしも村民を守らない」ことを学習し続けて、今がある。

逃避行の果てにたどりついた中国方正県と友好提携をして20年。

私は、泰阜村と方正県のこども相互交流に力を注いできた。

この村の教育力を発揮すること。

それは平和と自律を希求する尊き野心である。





当日の新聞記事と、式典の村長メッセージを紹介する。

ご笑覧ください。



11月17日 泰阜村 方正県と友好提携20周年 祝賀のつどい 草の根交流これからも

泰阜村と中国黒龍江省ハルビン市方正県が友好提携を結んで20周年を迎え、村は16日、同村田本のあさぎり館で記念式典「祝賀のつどい」を開いた。方正県からの帰国者などから体験談を聞くなどして「満州泰阜分村」の歴史や残留邦人問題、両者の歩みを振り返り、今後の継続した交流を誓った。
 同村は1939年から入植を開始し、1100人以上の村民が中国三江省の大八浪(ターパーラン)へ開拓に赴いた。敗戦後は苛酷な逃避行を強いられ、行方不明者も含め680人余が帰らぬ人となった。
 一方、逃げ延びた先の方正県では、飢えや寒さから救ってくれた歴史的背景があり、97年9月、その恩恵に感謝し、さらなる交流と発展促進を目的に友好提携を締結。相互の交流訪問や中学生による学校訪問、生徒間交流が行われてきた。
 関係者ら約70人が出席した式典で、松島貞治村長は「当時、両者の求めるものが異なり、友好提携には慎重論だった。何をすればいいのかを考え、草の根的な市民レベルの交流を続けてきた」と振り返り、「同じ人間が憎しみ合うことはあってはならない。二度と戦争のない関係を作るための方策を考え、提案する機会になれば」と述べた。
 今回来村がかなわなかった方正県の関係者ら。張建華(チョウケンカ)県長が寄せた「友好関係は着実に実を結んできた。より一層友好関係が深まっていくことを念願する」とのメッセージが式典で披露された。
 40(昭和15)年に開拓団に参加し、53年に帰国した同村左京の池田純さん(86)は「養父は本当の子どものように育ててくれてありがたかった。その方正県と友好提携を結び交流を続ける村にも感謝したい」と思いを伝えた。






11月18日 泰阜村と中国方正県 有効20周年で帰国者語る 養父母、交流に感謝

 泰阜村と中国黒竜江省ハルビン市方正県が友好提携を結んで20周年を迎え、16日に同村田本のあさぎり館で開かれた記念式典で、残留孤児だった村民や20年間方正県で暮らした2世らが体験を語る機会を設けられた。
 「満州泰阜分村」の歴史がある同村は、1939年から1100人以上の村民が中国三江省の大八浪へ開拓に赴き、敗戦後は過酷な逃避行を強いられた。一方、逃げ延びた先の方正県で飢えや寒さから助けられた歴史的背景があり、同村は97年、その恩恵に感謝して友好提携を締結している。
 式典の席上、「帰国者の話」として3人が体験や想いを語った。
 40年(昭和15)年に開拓団に参加し、53年に帰国した同村左京の池田純さん(86)は、体力の限界から母親と一緒に養父の世話になった経験を振り返り「助けてもらえなかったら、今の渡井はない」と強調。生きていくために畑仕事を懸命に行う中で、わが子のように育ててくれた養父に感謝した。
 母親が残留孤児として養父母の元で育てられ、自信は20歳まで方正県で暮らし、91年に帰国、現在は泰阜村温田に暮らす川島波子さん(46)は「養父の写真は今でも肌身離さず持っている。日本に来ることに多少の不安はあったが、方正県と風景が似ていてすぐになれる事ができた」と中国語で語った。9歳の娘が中国や方正県に興味を示していることから「将来は泰阜村と方正県の架け橋になってくれたらうれしい」と願った。
 中学2年のときに交流研修旅行で方正県に訪れた、村役場職員の吉岡利貴さん(31)は「互いの言葉が通じない中、ジェスチャーで意思疎通を図った。思いを伝えることはできる」とし、「一般人同士の草の根交流を若い感覚で促進していきたい」と述べた。