わが大地のうた♪

NPOグリーンウッド代表理事:辻英之(だいち)が今、南信州泰阜村から発信する炎のメッセージと…日々雑感!

時間が解決できないものがある。でも!

2011年09月29日 | 震災支援:ボランティア派遣
信州泰阜村に帰ってきました。

いわきを11時に出て、泰阜村に着いたのが20時。

経路にもよりますが、やはり東北は遠いと感じた移動の日でした。


さて、昨日はいわきの被災地をめぐっていました。

被災の状況だけではなく、被災からどう復興するのかという人びとの取り組みをみてまわりました。

8割以上の集客減に対しても、果敢に新しい機軸を打ち出して立ち向かう観光施設。

港の形状から、奇跡的に津波被害を最小限に逃れた小さな港街が、街並保存に取り組もうとする現状。

いずれも、現実と法制度の壁が立ちはだかります。

それでも、震災から立ち上がろうとする人々の姿には感動しました。


▼消防団も地元からがんばっています。



▼軽トラにも想いがみなぎっています。



いわき市の沿岸地域。

東北ではここだけかも?という、奇跡的に津波の被害が最小限だった港街。

それでも、隣の家は全く大丈夫なのに、その隣の家は解体撤去で基礎しかありません。


▼基礎だけの家とその隣の家1


この基礎だけの家の人びとの暮らしはどうなってしまったのでしょうか。

この家の人びとの人生は、この地域から切り離されてしまったのでしょうか。

いわきの沿岸の一部は、宮城、岩手のように、街全体が破壊されたわけではない。

街は残っているのです。

でも、街を営む人びとの暮らしが破壊されました。

暮らしの営みが失われた家の基礎と、その横で暮らしが営まれている家を見て、ただただ佇むばかりです。

いっそ街全体が破壊されたほうがよかったのでしょうか。

暮らしと人生と街が、じわじわと断ち切られていくフクシマの叫び。

元に戻るには自然の力をもってしても数万年かかると知ったフクシマの叫び。

その叫びをどうやって聞けばいいのでしょうか。

「時間が解決するさ」と言えない問題が横たわるのが、フクシマなのです。


▼基礎だけの家とその隣の家2



▼基礎だけの家とその隣の家3



津波が突き抜けた商店の壁に貼ってありました。


▼商店に貼りだしてあった紙


この文字をどんな気持ちで書いたのだろうか。

一つ一つの文字に込められた無念の想いと怒りに満ちた想いが、私の身体を突き抜けます。

写真を撮っていいものだろうかとはばかられましたが、やはり伝えなければ。


いつの世も、常に犠牲になるのは、より弱いものです。

原発を押し付けられた過疎地域。

基地を押し付けられた沖縄。

次はいったいどこの弱者が何を押し付けられるのだろう。


この国は、弱いものや弱い地域を犠牲にして成り立ちすぎてしまったのかもしれない。

街がどれだけ復興したとしても、この国を支配する考え方を一度壊して再構築させなければならないのかもしれない。

私たちのような小さな村に住む小さな力しかない人びとができることは、次の世の中をつくる「人づくり」なんだとやっぱり想います。

こんなときだからこそ教育に力を入れたい。

時間をかけても無駄だ、という絶望感が支配する被災地。

その被災地に、時間をかけても人をつくるんだ、という強い気持ちを、ゆっくりと届けたいと想います。

代表 辻だいち


フクシマ再訪(飯舘村、南相馬市)

2011年09月28日 | 震災支援:ボランティア派遣
福島を再訪です。

今回は、RQ市民災害救援センターの作戦会議と視察に参加しました。

RQとは、日本全国のアウトドア団体、自然体験教育団体が結集して創設した災害ボランティアセンターです。

今回のブログは、フクシマの現状を探る視察の様子をお伝えします。

まずは福島駅に集合しました。その数19人。

日本全国の名だたる人たちばかりです。

▼福島駅前の食堂で、RQ市民災害救援センターの作戦会議



最初に、放射線量の高さにより全村避難を余儀なくされた飯舘村に入りました。

飯舘村に入った瞬間に、ぐんぐん上がる放射線量。

そして入った瞬間に、いきなり人間の手が入らない田畑が広がります。


▼飯舘村の放射線測定の値。すごい値です。




▼飯舘村の光景。だれもいない。


生産活動のにおいも音もしない荒涼とした風景。

ここが半年前までは、自然と人間が共生していた里山の風景なのか、と絶句します。

飯舘村は全村避難ですが、幹線道路(国道)が村内を通っているので、案外車が通ります。

今日は、飯舘村から猪苗代に避難している方が、家に日中だけ戻ってこられていたのでお話を伺いました。


▼飯舘村の農家の方。まさに絶望。



たった半年でここまで荒れてしまう農地を見つめて「耐えられないことで、ただただ残念」とうめくように語ってくれました。

田畑の除染もさることながら、山々の除染をどうするのかを考えると、どうしてよいのか思考の外に放り出されてしまいます。

途方に暮れるとは、まさにこのことか。

「まず、ここに帰ってくるのは無理だろう」
「だからといって、今すぐに家を売り払ってなどすることはない」

自然が自然ではなくなってしまった飯舘村。

絶望感の向こう側にある荒んだ空気が支配します。

身体がひきちぎられるように痛い。

身体が本能的に震えます。

原発災害とはこういうことなのだと身体が反応しています。


▼南相馬市の津波被害。


▼津波の直撃をうけた火力発電所


沿岸部の南相馬市は、津波被害と原発被害をあわせもつ複合災害を受けた街です。

人が住んでいる地域もありますが、夜の街のようにこどもが外を歩いていない異様な光景だそうです。

学校が10月上旬にようやく再開されるようです。

全ての学校の除染が進んでいました。

除染でけずりとった土、除染で使った大量の水、それらはいったいどこにいくのか。

人間が制御できないもの、自然では分解しきれない物質を、いったいどこにもっていくのか。

先が見えない徒労感が残りました。

南相馬市からいわき市に移動するのに、わざわざ一度中通りと呼ばれる二本松市まで迂回しました。


日に日に復興に向かうどころか、日に日に見えなくなっていく希望。

フクシマを覆うこの状況に、私たちはいったい何ができるのか。

無力なのか。それとも。

本能が身体を震わせましたが、それでもその震えを克服して、一歩前に進みたい。


▼おまけ


南相馬市の海岸です。

西日を浴びて、長い長い脚が撮れました(笑)

せめて笑顔でいたい。


代表 辻だいち

めった打ちにあって

2011年09月26日 | 日々雑感
 昨日、次男ががんばっている野球大会がありました。

 最近絶好調の泰阜少年野球クラブは、キャッチャーで4番の中心選手を欠く苦しい布陣でも、控えの選手が大活躍して準決勝へ。

 準決勝は、最終回まで行き詰る大接戦が展開され、1点リードの最終回の裏に、逆転サヨナラ負けを喫して、散りました。

 3位決定戦は、それまで連投のエースを下げて、なんとわが次男が先発でした。

 しかし、出てくる打者に次から次に打たれ、めった打ちです。

私はその試合の審判でもあったので(当該チームから2人ずつ審判を出す)、自分のチームの応援をするわけにもいかず、増してや次男に「がんばれ」の一声もかけることができませんので、とても歯がゆく想いました。

 打たれに打たれ、チームメートに迷惑がかかる展開にいつしか投球フォームも縮こまる次男。

 マウンド上で孤独を感じ、ともすれば折れてしまいそう心を、先輩の6年生が「がんばれ!」と声をかけ、そしてチームみんなが応援して、支えてくれました。

 そのチームメイトの姿、ほんとうに美しかった。

 その応援を受け、歯をくいしばって、最後まで次男は投げきりました。

 いつもは気丈な彼が、試合後に人知れず涙をぬぐっていました。


 まだ身体も小さい幼い次男から、改めて教えられました。

 どれだけめった打ちにあっても、それでもあきらめずに最後までやりぬくこと。

 どれだけ苦しいことがあっても、みんなで支えあい応援しあいながら最後までやりにくこと。

 そうしてはじめてつかむことのできるものがあることを。

 今日から、再び福島に入ります。

 まさにめった打ちにあっている被災地フクシマ。

 フクシマが、この国のなかで孤独感を強めてしまっていることを危惧します。

 小さな山村からでも、声をかけ、励まし、痛みをわかちあい、応援して、支えあって、希望を語ることができます。

 フクシマの復興はいつになるかわかりません。

 それでも、その復興の日まで、最後まであきらめずに支えようと想います。

 そうしてはじめてつかめる「何か」があるのでしょう。

 それが、フクシマにも、被災地にも、そしてこの国にも必要なのだと想います。

 私たちができる身の丈にあった長期支援。

 今日から4日間、福島で多くの人たちと意見交換しながら、考えます。

 応援ください。

代表 辻だいち

感謝に「感謝」

2011年09月22日 | 震災支援:山賊キャンプ招待
 こんにちは、池田ばんです。

 先日、泰阜村内の方々からいただいたお米を福島へ送りました。

 作業はわれわれスタッフだけではなく、「暮らしの学校 だいだらぼっち」のこどもたちも一緒に行いました。

 詳細についてはだいちが書いたブログのとおりです。
9月14日付けで更新。また、9月16日付けで新聞記事が紹介されています。)


 このことに対し、早速、福島の方々からお礼の返事が届きました。

 遠い福島から寄せられる「ありがとう。」の声。

 電話を受けるスタッフの表情も非常に嬉しそう、喜びと充実感がこちらにも伝わってきます。

▼こどもの直筆で送られてきたお礼のFAX



 そうした返事をもらった直後、みんなが活き活きとした表情で机(パソコン)に向かったのは、決して私の見間違いではないでしょう。

 遠く離れた土地でのつながりが、自分たちに元気を与えてくれます。

 私たちは幸せ者です。本当にありがとうございます。
 
 そして、これからもよろしくお願いします。

 また、泰阜村の方々も本当にありがとうございました。
 
 そして、これからもよろしくお願いします。

短期事業部長 池田ばん

自然の猛威に立ち尽くすだけなのか

2011年09月21日 | 日々雑感
今日は、現在列島縦断中の台風が、限りなく泰阜村の近くを通過していきました。

午前中は雨と風がだんだん強くなるな~という感じでしたが。

昼をはさんで午後からは、猛烈な風と雨になりました。

私の机の窓からは泰阜村の山また山の風景が一望できます。

でも、今日は猛り狂った自然しか目に入りません。

雨の固まりが山々を真横に横断しているのが目で見てわかります。

風に揺れる木々、横殴りの雨、激しい風雨の音、山々を隠しつつ足早に過ぎ去るぶ厚い雲。

いつもはおだやかな南信州の山々が、うなりをあげてまるごと揺れています。

木の枝が折れて舞い上がり、屋根もとんで、稲のハザ(天日干し)もみな倒れました。

激しい風に事務所が大揺れに揺れ、空も山も風もうなりをあげて、それはまるで村全体が揺れている感じでした。

あまりの壮絶なうなりと揺れに、生命の危険を感じもしました。

いつもはおだやかな自然が牙をむく姿を目の当たりにして、本能的な恐怖が湧き出た1日でした。


東日本を襲った震災のとき、被災地のみなさんはこの「本能的な恐怖」をこれでもかというほど激烈に感じ、そして被災地を支配する「絶望感」に枯れるかというほど涙を流したのだと想います。

一度味わってしまった恐怖と絶望は、そう簡単には取り除けはしない。

被災地のみなさんから恐怖と絶望が取り除かれるのに、いったいどれだけの時間がかかるのでしょうか。

その時間と、私たちが被災地に想いをめぐらし続ける時間とは、果たして一致するのでしょうか。

今回の台風は、被災地紀伊半島、そして名古屋に住む人々の恐怖と絶望を載せて東北へ向かっています。

この台風は、またぞろ東北のみなさんに恐怖と絶望を振りまいてしまうのでしょうか。

そう想ってしまうよりも、私たちはいっそこの台風に、「支える気持ち」と「希望」も載せようと想おうではありませんか。

いっそこの台風に、被災地のみなさんへの想いも載せようではありませんか。


自然災害が、こうまで日常を脅かすようになってしまったこの国。

今こそ、小さな力を信じて、その小さな力をあわせましょう。

今こそ、小さな弱いもの同士、支えあいましょう。

今こそ、その想いを被災地に届けましょう。

今日は、自然の猛威に立ち尽くしてしまいました。

でもただ立ち尽くすだけではなく、想いを届けようという強い気持ちを持ちたい。

そして、被災地から恐怖と絶望がとりのぞかれるまで、その強い気持ちを持ち続けたい。

支える気持ち、台風に載せて東北に翔んでゆけ。


東北の被災地に、これ以上の被害が広がりませんように。


代表 辻だいち