先週、福島に行ってきました。
震災1年目を迎える前日です。
原発事故の影響で、全村避難を余儀なくされた飯舘村。
飯舘村のある地区の皆さんが避難している集合住宅に行ってきました。
1年の区切りを迎えるにあたり、取材がひっきりなしだという区長さんは、取材中のカメラに向かって睨みつけて言いました。
「はっきり言ってありがたいが迷惑だ。あれから1年というが、私はもう40年。これから30年。もっとこちらの気持ちに立たないといけない」
痛めつけられた人々が1年たってなお絞り出す慟哭に、私もまたこの場にいることの意味、立場を考えさせられます。
同じ地区の若手リーダーの人とも意見交換ができました。
私と同じ年齢くらいのお父さんです。
私たちがなぜ震災支援を続けてきているのか、短い時間ではありましたが、その想いを伝えました。
飯舘村のこどもたちが置かれている過酷な状況、若手の人びとが抱くもはや日常的な葛藤、そして地区を守ってきた年配者の壮絶な苦しみ。
どれひとつとっても、お互い様と支え合いの精神で営まれてきた分厚いコミュニティが、飛散してきた見えない物質によって、ひとつずつ切り離されバラバラの個の存在になっていくという、取り返しのつかない危うさを感じます。
区長の慟哭には、まさにこの危うさが込められていのだと想いました。
▼いただいた飯舘のコミュニティ誌
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/72/7325baf7a7ec83ee6f52ab38c39d6aae.jpg)
帰り際、辛口な区長さんが「おい、これであきらめちゃいげねど。俺に言われたくらいで来なくなるならそれまで。困難なことに立ちむかうことが大事。また来いや」と笑顔。
もちろんまた来ます。
若いリーダーの人にもご理解いただけたようで、何度か足を運ぶことになりそうです。
教育キャンプを通して生まれた南信州泰阜村と福島の縁。
村を捨てる教育から村を捨てない教育への転換を模索する泰阜村が、村を捨てざるを得ない状況に直面する飯舘村の人びとに、何ができるのでしょうか。
「支援」という「縁」が紡がれ始めます。
私たちは、今年も夏の信州こども山賊キャンプに東北のこどもたちを招待します。
ぜひ応援ください。
間をとりもってくれた、福島大学の友人に感謝です。
震災1年目を迎える前日です。
原発事故の影響で、全村避難を余儀なくされた飯舘村。
飯舘村のある地区の皆さんが避難している集合住宅に行ってきました。
1年の区切りを迎えるにあたり、取材がひっきりなしだという区長さんは、取材中のカメラに向かって睨みつけて言いました。
「はっきり言ってありがたいが迷惑だ。あれから1年というが、私はもう40年。これから30年。もっとこちらの気持ちに立たないといけない」
痛めつけられた人々が1年たってなお絞り出す慟哭に、私もまたこの場にいることの意味、立場を考えさせられます。
同じ地区の若手リーダーの人とも意見交換ができました。
私と同じ年齢くらいのお父さんです。
私たちがなぜ震災支援を続けてきているのか、短い時間ではありましたが、その想いを伝えました。
飯舘村のこどもたちが置かれている過酷な状況、若手の人びとが抱くもはや日常的な葛藤、そして地区を守ってきた年配者の壮絶な苦しみ。
どれひとつとっても、お互い様と支え合いの精神で営まれてきた分厚いコミュニティが、飛散してきた見えない物質によって、ひとつずつ切り離されバラバラの個の存在になっていくという、取り返しのつかない危うさを感じます。
区長の慟哭には、まさにこの危うさが込められていのだと想いました。
▼いただいた飯舘のコミュニティ誌
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/72/7325baf7a7ec83ee6f52ab38c39d6aae.jpg)
帰り際、辛口な区長さんが「おい、これであきらめちゃいげねど。俺に言われたくらいで来なくなるならそれまで。困難なことに立ちむかうことが大事。また来いや」と笑顔。
もちろんまた来ます。
若いリーダーの人にもご理解いただけたようで、何度か足を運ぶことになりそうです。
教育キャンプを通して生まれた南信州泰阜村と福島の縁。
村を捨てる教育から村を捨てない教育への転換を模索する泰阜村が、村を捨てざるを得ない状況に直面する飯舘村の人びとに、何ができるのでしょうか。
「支援」という「縁」が紡がれ始めます。
私たちは、今年も夏の信州こども山賊キャンプに東北のこどもたちを招待します。
ぜひ応援ください。
間をとりもってくれた、福島大学の友人に感謝です。
代表 辻だいち