わが大地のうた♪

NPOグリーンウッド代表理事:辻英之(だいち)が今、南信州泰阜村から発信する炎のメッセージと…日々雑感!

【ソラチ、いってらっしゃい】 ~5年間山村留学していた東日本大震災の被災児童が今、旅立つ~

2016年03月17日 | 泰阜村のソコヂカラ
泰阜中学校卒業式。

村に一つとなった小さな村の卒業式は、教育尊重の営みを積み重ねてきた歴史が滲み出るとても素敵な式となった。

東日本大震災の被災児童を、山村留学「暮らしの学校だいだらぼっち」で預かって5年。

彼女は、今日、泰阜中学校を卒業した。


▼いつも仲良し中学3年生







5年前、彼女は小4だった。

学校で遭遇した大地震におののき、避難後は学校に通えなくなった。

すでに姉が暮らしの学校「だいだらぼっち」への参加を決めていたのもあったが、お父さんから切実な電話が私にかかってきたのだ。

私はすぐに泰阜村の松島村長に電話で相談し、村長も受け入れを即決する。

受け入れの中身は、こどもを山村留学で預かり(NPOグリーンウッド担当)、その費用は村が負担し(泰阜村担当)、こどもの学校教育は村の小中学校が受け入れ(学校担当)、そして地域住民が土台からそれを支える、ということだ。

「泰阜村ができる支援は、こどもを受け入れることだ」

泰阜村とNPOグリーンウッドは、身の丈にあった支援として、被災児童を山村留学で受け入れることを決断したのだ。

それはまさに4月になろうとする時だった。



それから5年。

派手ではないが、身の丈の支援を今日までで続けてきた。

いや、これからも続く。

大事なことは、被災児童をどれだけたくさん受け入れたか、ではない。

受け入れたこどもの人生にどこまで向き合えるか、である。


▼1学年1クラス、13人の卒業生







彼女のニックネームは「ソラチ」

5年前、あんなに小さかったソラチが、今日の卒業式にはとてもしっかりしていて驚いた。

ソラチと一緒に時間を共にした級友たち一人一人に、「ありがとう」と心のなかでお礼を言った。

実は私の次男もソラチとクラスメートである。

クラスメートといっても、学年に1クラスしかないが。

来賓も保護者もとっても多い卒業式だった。

この村の教育力が、確かにソラチに注ぎ込まれている。

いい仲間と素敵な村の人々に囲まれて、ソラチは幸せものだ。

もちろん、私の次男もシアワセモノだと想う。


▼村長も顔がゆるむ




どんな時も支えてくれた泰阜村の松島村長とソラチがツーショット。

本当に素敵である。

支援が織り成す豊かな縁。

私はこれを「支縁」と言っている。

泰阜村とソラチは、一生つながる。



ソラチ、いってらっしゃい。

君ならできる。

応援してる。

信じてる。


代表 辻だいち


【心の底からエールを送る】 ~山深いこの小さな村から旅立つこどもたちに~

2016年03月13日 | ひとねる=自律のひとづくり
私の職場の山村留学は、「暮らしの学校:だいだらぼっち」という。

昨日から今日、1泊2日で「ひきつぎ会」が開催された。

だいだらぼっちは卒業式がない。

その替わり、今年度1年間暮らしたこどもたちと来年度1年間暮らす予定のこどもたち、保護者、スタッフが一堂に会して「大事なことをひきつぐ」ことを趣旨にした会を催すのだ。



私はこの会がとても好きだ。

それは、この会の構造自体を30年前のこどもたちが考え出し、今年この会をやるかどうかもこどもたちが決めて、運営もこどもたちが切り盛りするからだ。

こどもたちによる遅々として進まない混沌とした運営に、今年度1年の苦労と汗と喜びがにじみ出る。

今日昼に、その「ひきつぎ会」終わった。1泊2日という短い時間だったが、こどもからこどもへ、素敵なひきつぎができた。

親から親へも、薪作業や果てしない飲み会を通して、素敵なひきつぎができたことだろう。






1年間、仲間を認め、仲間一人一人を大事にして、仲間を支えきったこどもたち。

その1年間を振り返り、最後の言葉を訥々と語るこどもたちに、不覚にも涙があふれそうになった。

1年間で「だいだらぼっち」を卒業するのではない。

こどもたちの人生の「だいだらぼっち」は、泰阜村を去った時から始まる。

山深いこの村から旅立つこどもたちに、心の底からエールを送りたい。



代表 辻だいち


【また飲もう】 ~朝日新聞天声人語に福島県飯舘村の鴫原さんが~

2016年03月11日 | 泰阜村のソコヂカラ
今日は言わずとしれた東日本大震災の日。

14時46分、黙祷した。


その後、福島からメールが届いた。

福島県飯舘村の長泥区長である鴫原良友さんである。



被災児童を山賊キャンプに招待する支援活動で、知り合ってから4年になる。

最初に会った時は「NPOは嫌いだ。自分たちの自己満足のために福島に来るだけだろう」と凄まれた。

同時に「おめえ、こんなんであきらめたらなんねえど」とニヤリと激励された。

以来、4年、ことあるごとに福島まで足を運んで顔を会わせている。

今の飯舘村の状況を伝えてもらうために、私の立教大学の授業にもゲストスピークに毎年来てもらっている。


そんな鴫原さんが、3月11日の朝日新聞「天声人語」に紹介されている。







 春は満開のサクラ、夏は闇を彩るホタルの群舞。四季の美しい光景が次々あらわれる。しかし、それらの写真に人は写っていない。ページをめくると、餌の根茎を求めて土地を掘り返すイノシシや、牛舎に侵入するサルが登場する。人が消えた集落の今である。

▼福島県飯舘村の南端に位置する長泥地区。福島第一原発が吐き出す大量の放射性物質を浴び、村で唯一の帰還困難区域に指定された。地区の役員や協力者の写真家、社会学者らが今月、この5年の記録として『もどれない故郷ながどろ』という本を刊行した。

▼水素爆発直後、危険情報は地区の人々に知らされなかった。防護服の男たちが線量を測りに来ているにもかかわらず。「なぜもっと早く避難させてくれなかったのか」という怒りが、今も人びとの心にくすぶる。

▼74世帯、281人は散り散りになった。年に1回の懇親会には100人ほどが集まるが、いつまで結束を保てるか。今のうちに本を作っておこう。区長の鴫原良友さん(65)はそう思ったと語る。

◆あの日以前の写真も多く収録した。花見や盆踊り、老人会の催し。「じいちゃん、ばあちゃんの姿を子や孫に伝えたい」と鴫原さん。多くの聞き書きでたどった地区の歴史も子孫に手渡される。

▼原発被災地の痛切な記録だ。地区を超えて広く読まれればいい。次世代を気遣う鴫原さんの言葉が本にある。「地球を滅ぼすために原発やってんだか、処分場でもできないうちになんでやんだかって、あの精神が俺はわかんない」




▼一緒に飲むときは必ず肩もみをする




鴫原さんとやりとりしたメールは「また飲もう」というとりとめもない内容だ。

一緒に飲める仲になった今、できることはやはり福島に足を運び、顔を会わせることだ。

6年もまた福島へ。


代表 辻だいち


【いよいよやるか!】 ~ありそうでなかった「ひとづくり×地域創生」のシンポに登壇~

2016年03月05日 | 日本初!教育で立つ村
「ひとづくり×地域創生」。

ありそうでなかったテーマのシンポジウムに登壇した。

長年想っていた人も、久しぶりに会う人も、一緒に登壇となり、始まる前からワクワクしていた。





長崎対馬の、地域と大学が奏でる学びの連携。

島根海士の、島の高校留学を起点としたひとづくりの輪。

岡山の、市民と行政などがカタチづくるESDのまちづくり。

宮城気仙沼の、息の長いユネスコスクールの取り組み。

そして熊本水俣の地元学。

すべて、胸のすくような話ばかりだった。

日本の端っこばっかりだが、こんなにも「学び」と「地域」を中心において生きる人びとがいるとは。

私も、泰阜村における30年の実践とその意義や成果などを、がんばって伝えたつもりだ。














地域創生というと、あらゆる視点があるだろう。

それを絞らずにやると、総花的なシンポジウムになってしまう。

今回は主催者が「ひとづくり」に絞ったため、論点がブレずに本当に実のある発表や議論になった。



地域の風土に根づく暮らし。その暮らしに立脚した学び。


このキーワードで全国の仲間を募りたいと常々思っていた。

今回の登壇者は、少々ニュアンスに違いはあるが、このキーワードがストライクゾーンに入っているひとびとだ。

この仲間に泰阜村も入れてもらい「学び」をど真ん中においた未来づくり、すなわち「教育立村」に向けて、本気でネットワークを組んでいこうと想えた。

懇親会でそんな夢を話せば、打てば響く太鼓のように皆さんが応えてくれた。

NPOグリーンウッドが泰阜村の地に足をつけて30年。

その地にさらに深く足をつけながら、全国をつなぐ。

そんな時が来ているのかもしれない。

いよいよやるか!


代表 辻だいち


【漢字10ページ!!】 ~容赦なく罰を下す担任の話題に頬がゆるむ~

2016年03月02日 | 私のルーツ・私の物語
故郷福井で、小学校時代の友人と飲んだ。

会うのが実に25年ぶりと言うヤツもいる。

この中の2人とは、小学校1年生の時のクラスメートだ。

「漢字10ページ!ってよく怒られたよな」

容赦なく罰を下す担任の先生の話題になると頬がゆるむ。

「おかげで字がうまくなったわ、ほんと」

「そういえば、辻、めちゃくちゃ字うまかったやろ?」

と言われて「そういえばそうだった」と思ったが、あの時から40年近くの時を経て、ミミズが這う字になってしまった。






自宅がほど近いひとりとは、もう幼なじみと言う方が適切かもしれない。

本当に毎日毎日、兄弟のように遊んだ。

危ないこともけっこうやって、でも、いつもケガをするのは自分だった。

運動能力が高いヤツで、足が速かったのと、特に肩が強かったのを覚えている。

地区のソフトボールを一緒にやっていたが、彼の運動能力をほっっておくわけがなく、ほどなく野球スポーツ少年団から声がかかって、引き抜かれてしまった。

「あの時、辻に『裏切り者!』って言われたなあ」

今となっては笑い話だ。

中学までは一緒だったが、高校は別々になってしまったから、一緒に飲むのは何と初めてのことである。



これまた自宅がほど近い一人は、小学校高学年から中学卒業までほとんど同じクラスだった。

その時期は、常に一緒に遊んでいたかもしれない。

包容力のあるヤツで、当時荒れていた中学校の荒れたヤツらの気持ちがわかる人物だった。

私も、いろいろと助けられた覚えがある。

一緒に飲むのは、私の結婚式以来か。

ご無沙汰してしまって申し訳ない。



そして、なんと保育園が一緒だったヤツもいる。

保育園時代からほんとにやんちゃだった。

今なら問題になるんじゃないかということも平気でやっていたな。

そんな話で、飲み会もずいぶんと盛り上がった。

そいつが今や割烹料理屋のオーナーだ。

その店で飲めるなんて。

40年の時を超えて、こんな時が来るとは夢のようだ。

素敵な雰囲気の店だから、今度何かの記念の時にまた来ようと想う。

福井市の「吟楽」という店だ。



あっという間に日付が変わりそうになった。

出会ってから40年の年月は、とてもとても一晩では語り切れない。

ほんとに小さいときからお互い知っている仲だ。

隠すことも何もない。

その心地よさに、今夜はちょっと酔った。

また会おうと固く約束を交わして別れた。



代表 辻だいち