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今日は3月の風がふいていた。その香りも気まぐれさも、日本と同じ突風の春風。
私の最愛の相棒の若手教師が、新学期になっても出てこない。
すべてが凍っていた1月の終り、停電になったとたんに私の宿舎に駆けつけてくれて、一緒にラーメン屋でラーメンをすすった。
春節は北京で過ごすからね、と告げると、
それじゃあ先生の誕生日を私は一緒にお祝いできないね・・・とうつむいたので、
ごめんね、春節も誕生日も一緒にいられなくて、と、つい謝った。
数秒の沈黙後、いつものようにはきはきと滑舌よく正確な発音の日本語で、彼女は言った。
先生が帰ってきたら・・・おぎないます!!
私はただ笑顔になる。
補う。
この場合、日本人なら「埋め合わせる」を使うのかもしれない。
だけど、このあまりにも微笑ましい一言を訂正する気になれなかった。
補う、という気持ちに近い言葉を探してみても見つからない。
埋め合わせる、というのは、何か引け目を感じていて、足りない部分を意識する言葉だ。反対に、補います、という気持ちは、プラスされるほうに意識がいっていて、あたたかい。
その彼女の携帯電話はずっと電源が切れているし、他の同僚の先生たちからも病気らしいという情報しか得られなかった。
昨日のメールの返事で、「人生の岐路に立たされているような感じがする」ほど悩んでいて、体調も悪いと知る。
ここでの仕事を続けるか、仕事を辞めて彼についていくか、女28歳の選択。
気持の整理がつくまで誰とも連絡をとりたくない、そっとしておいてほしい、という。
私としてはあなたが幸せになってくれればそれでいい。あなたがどんな選択をしたとしても力になりたい。あまり思いつめないで。なるべくリラックスして。でも一時の感情や一時の妥協で決めないで、と伝える。
私のほうは、今週は新学期の授業のシラバスやカリキュラム関連の書類を数多く書いている。
他の若手同僚から説明を受けながら書く。日本語力のある相棒に説明してもらった時の数倍から数十倍は時間がかかる。
私には、キミガヒツヨウ。
しぜんに支え合えるキミガヒツヨウ。
人と人との別れは本当は出会いと同じように全く予想がつかないことが多く、随分と、はかない。
まるで大型の客船を岸辺から見ているようだ。
目の前にそびえたっている船が、ゆるゆると岸辺を離れ、気がつくと視界に空と海が広がっている。
その存在が、岸に永遠に固定されているかのように錯覚していたのが、ただ波に浮かぶ、心もとないものだったことを思い出し、なすすべもなく小さくなっていくのを見ている。