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鎌倉幕府とオックスフォード大学

2022-12-04 | 日記
日本の中世史を振り返るテレビ番組がある。最近、源平合戦から頼朝による鎌倉幕府成立の辺りの出来事がテーマとなっている。それを見ていて、日本が平安時代から鎌倉時代・武家政権への転換期を迎える頃、ヨーロッパではオックスフォード大学やパリ大学が設立された時期にあたると知った。
 それを見るまでも無く、ヨーロッパの伝統ある大学が相次いで中世時代に設立されていたことは、既に知っていた。だが、改めてパネルにして中世日本の状況と世界の主要大学の設立時期を並べて見せられると、日本の「知の歴史」が浅いことを知らされる。
 何も「大学の古さ」がその国の分化や知識の伝統を全て表しているわけでは無い。しかし、現在では大学がその国の「知の主たる集積場所」とされていることを思うと、そこにどれだけの長い間の「知」が集積・維持されているかを考えざるを得ない。
 歴史の浅さが知の程度の低さを表すわけでもない。しかし、「知」と「経験・体験の記憶、情報量」が相関する側面から見る限り、その「知の蓄積量」や「知の分析・管理経験」において日本の大学が、千年の伝統を持つ大学に及ばないことを認めざるを得ない。
 とは言え、別に日本の大学の歴史が浅いことを嘆くことは無い。だが、それだけの歴史的な違いを超えて、軽々にそれらと日本の大学を比較できないことは認識すべき。問題は、日本の大学の世界的評価が「もっと歴史の浅い国の大学」に追い越されてしまっている、という現実を知ること。
 日本の大学がせいぜい百数十年の歴史しか持たないことからすれば、世界の国々の新しい大学とたかだか100年以下の歴史の違いしかない。世界の「千年の歴史を持つ大学」と比較すれば、その数十年の歴史の違いなど「ちょっとした遅れ」でしかないのだろう。適切なスタートダッシュがあれば、その差は全く「問題にならない」程度のものかも知れない。
 現在の論文数や国際的受賞の多さを競うと同時に、日本でこれまで大学とは異なる形で蓄積されて来た「千年の知」を、大学の持つ「知」へと継続・連続させられているかについても、今一度、真剣な検討と改善努力が必要なのだろう。「政治や権力者の恣意的改ざん」から独立した立場で、同じ程度に影響力を持った「知の継続」の場が。

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