一生

人生観と死生観

オランダの自由と民主主義

2010-01-22 10:48:40 | 哲学
1月22日 晴れ
 去年は日蘭400年の記念の年であったが、オランダが小国のためか非常に盛大な行事は行なわれなかったが、それでもいくつかの記念となる催しがあった。鎖国時代にオランダは日本の海外に向けた唯一の窓であり、そこから入ってくる情報は大変貴重なものであった。世界は進歩し、人類の知恵は進む中で鎖国する日本は取り残される惧れを感ずることもなく、ただのうのうと眠りをむさぼってよいか?こんな疑問を抱く人は日本人で一人もなかったのだろうか?
 幕末に近付くと西洋の力は東洋に及び、太平の夢をむさぼっていた徳川幕府もさすがにこれが気になりだした。18世紀8代将軍徳川吉宗が洋書の解禁を行なったのは彼の旺盛な好奇心を示すものであり、知識人の内的要求にも叶うものであった。平賀源内のごときはエレキテルを完成、科学の実用性に着目した先駆者であった。18世紀ロシアは当方進出を進め、日本の北方海域に探検船が出没し、北海道松前藩に通商を求めいたった(1878)。幕府が最上徳内や近藤重蔵に蝦夷地の調査をさせたたのはこれに関連した反応である。
 ところで長崎に来たオランダ人について考える。もともとオランダはカルバン派の新教徒が多く、旧教国スペインから独立した国で、進取の気性があり、自由を求める気風があった。ここに来たオランダ人は東洋に来る動機は利益のためだけでなく溢れる好奇心と、自由闊達の精神をもっていたように思われる。中にはシーボルトのように東洋を見るためにドイツから来てオランダ人のようになり、長崎に渡ったものもある。
 『東日流外三郡誌』という書物があって、偽書扱いにされる中、真書と考える人も尽きない。著者の秋田孝季は長崎に深い縁のある人で、長崎のオランダ人から外国事情や学問を熱心に習得したらしい。オランダ人の思想の影響もあったであろう。自由思想の価値も知っていたであろう。彼は母親が東北三春藩主の配偶者となったために、藩主から調査を目地られたと言う。彼の書いたものの中に「天は人の上に人をつくらず」という言葉が何度か出るがこれは福沢諭吉の有名な言葉とそっくりで、東日流外三郡誌が偽書の証拠と見なされたりするが、そうではないだろう。彼の書き物は恐らく長崎のオランダ人の思想の反映である。福沢諭吉も自分の言葉は誰かの引用であるかのような書き方をしている。諭吉の先生は緒方洪庵で長崎派だから、福沢に長崎の影響がここにでたと見られ、別に三郡誌を引用するまでもないのである。もともと東北地方には『自然真営道』に見るように比較的平等思想に立っていたのだ。偽書の証拠と見るのは行き過ぎで私は取らない。