一生

人生観と死生観

幸福とは何か

2009-11-08 15:42:41 | 哲学
110月8日 晴れ
 穏やかな秋の日が続く。宮城県中央児童館の問題は県会議員も動き出したのでしばらく静観するほかない。こんなことで千人のいのちを殺し傷つけたワクチン禍事件の慰霊のための記念物が見捨てられてはたまらない。考古学で明らかになったように、ネアンデルタール人など旧人でさえ死者を優しく弔ったではないか。県の担当者が人間としての原点に戻ることを望む。
 幸福とは何か。いろいろの人がいろいろの幸福を持つと思われるが、共通項目は何だろうか。幸福論を書いた人は数多くいる。幸福は金持ちでなければ得られないか。勿論そんなことはない。貧しくても心満ち足りている人もいるだろう。極度の貧困は困るが、富の度合いは幸福の尺度ではない。社会で尊敬される職業や地位というものがある。市長さんやお医者さんなどはその部類だろう。そういう人たちは幸福だろうか。人のために働くということができるのは幸福のひとつの要素といえるが、忙しすぎて命を落とす人もおり、必ずしも幸福な人たちとは言えない。地位は幸福の尺度とはならない。若い人は自分の描く夢が達成されたら嬉しいだろう。
しかしそれが達成されてしまえば、次の目標が必要となり、夢追いはきりがない。
夢を達成するだけの能力が欠けている場合もあるし、思いがけない事故が起こるときもある。すべての人に共通する幸福として挙げられるだろうか。
 その他いろいろあるが、幸福は追い求めれば遠ざかる。どうもそういうものは本当の幸福ではないようだ。
 結局、多くの人にとって幸福は小さな満足の心にあると言えるかも知れない。小市民的といわれるかもしれないが、幸福の黄色いハンカチを掴むためには少しばかりの努力は必要で、棚から牡丹餅のような幸福待望は不健全である。そのために日常を楽しむ心は普段から育てておかなければならない。
 ただし人間、幸不幸を越えて精一杯生きなければならない場合もある。