一生

人生観と死生観

起業の起原

2009-11-06 17:22:46 | 哲学
11月6日 晴れ
 穏やかに晴れた日であった。夕ともなれば、秋がやがて衰える時を迎えることを予感させる冷え込みが肌に沁みるのだ。
 人間の問題、人類の起原は多くの人の関心をひきつけるが、社会学の問題でもあまり良く分かっていない歴史的な課題があると思う。素人の疑問を専門家たちの目を恐れずありのまま記してみることも時には許されるであろう。資本主義は善か悪かという議論はマルクスの『資本論』を引くまでもなく大問題であろう。最初に資本を投下しなければ企業は成り立たない。プリミティブな段階では、やる気もあり頭も働く人でお金が足りないという状況で、兄弟とか親戚から借金して事業を始めたであろう。私の郷里の新潟の田舎の人たちは東京に出て風呂屋を開設して成功した物語がある。親や本家の金持ちから借金をして、苦節うん十年、立派な銭湯を町場に持つに至った成功物語である。銀行からお金を借りるというような近代的な話が成立する以前の起業スタイルである。能力のある人間は風呂屋の旦那衆になれ、都会議員や稀に国会議員に出世することもできるが、能力のない人間は何時までも三助(風呂場で客の背中を洗ったりする人)で出世とは無縁だ。こうして自ずから人の素質によって前途が決まるのだ。機会均等をいくら唱えても越えられない貧富の差が生じる。都会では田舎と違って伸びる人はいくらでも伸び、伸びない人はそのままほって置かれる。
 こういう苛烈な現実を経済だけの尺度で測らず、宗教的な救いの問題として、あるいは非宗教的理想主義の問題として、お互いにつながりのある社会に変えようという試みは昔からあったように思う。鳩山首相の友愛精神ではないが、一種のユートピア思想で甘い夢も見させてくれるが、実際はなかなかきびしく、信奉者が脱落して、ついに崩壊するといった事例は間々あるようだ。
 しかし起業せねば貧困のまま、これを乗り越えようという前向きの心を持つことがまず求められる。企業の起原はここに始まる。松下幸之助流に工夫によって世の中と自分の関係をよくする、そういう適応が起業から企業を生み出すのだろう。万人にできることではないと初めから諦めてはなるまい。小さなグラミー銀行が評判となり、社会を変えていった物語もあるのだ。