一生

人生観と死生観

進化論の現況

2010-09-26 15:30:29 | 哲学
9月26日 晴れ後曇り
 私たち日本人は仏教的環境のもとで千年以上も暮らしてきた。神道の影響は時に強く表れ、明治初期の廃仏毀釈のような事件はあったが、概して日本の神は行事のさいに顔を出す程度であった。西洋の文明を明治時代になって積極的に取り入れるようになってから、キリスト教とどう向き合うかは重要な課題であったが、政治・社会の大勢は和魂洋才の原則でキリスト教を外来宗教として敬遠してきた。心は日本人らしくということであったが、太平洋戦争後60年もたった今「和魂洋才」は推奨する人もなく、無原則に西洋思想と立ち向かう傾向が強いように思う。無原則だからあっちへいったりこっちへ行ったりで心許ない限りである。日本人はもともと個性が強いほうではない。流されやすいのは信念を持った西洋人から見れば頼りないということである。
 進化論はダーウィンが唱え始めて約150年たつ。現在イギリスでは進化論について対立があり、激論が交わされているよし、毎日新聞の書評で知った。対立する論点は
 「生物の進化は、ランダムな試行錯誤なのか、それとも方向性をもって進むのか」
グールドは前者の論客であり、サイモン・コンウェイ・モリスは後者である。両者ともダーウィンの適者生存を否定はしない。グールドが生物の進化がランダムな試行の積み重ねで数多くの種を生み出して、淘汰によって進んできたと考える。コンウェイ・モリスは進化には方向性があるということを「収斂進化」という言葉で述べ、これは種を超えて起こっていると見ている。すなわち哺乳類のオオカミと有袋類のフクロオオカミなど、まったく異なる系統から非常に似た形態や機能が生まれることであり、それが何回も段階的に方向性を持ってある機能や形態に向かって進化を遂げるというのである。この著者の結論は生命は奇跡ということにあるようだ。科学者としてはこの世の因果関係を飛び越えたと非難されているようだが、彼自身生命の驚異に率直に対面しているのであろう。私も彼の立場に近い。科学的説明は次の説明を要求し、生命の本質はいつまでたっても科学だけで解けることになっていないのが歯がゆい。やはりこの世の次元を超えたあるものを必要とするのではないか。それをいっぺんに言うと非科学的と非難されるが、人の知恵の限界や、無力を感じるのは私ひとりではあるまい。