一生

人生観と死生観

キリスト教信者の行動

2010-09-06 16:33:07 | 哲学
9月6日 晴天一時薄曇
 海に近いいわきは晴れる日のある時間、薄曇になることがあるので不思議に思っていた。薄い雲は海の成分からきているのだろう。これは気象台に聞けば分かることだろうか。
 さて私は定年退職後、何か漂流しているような感覚になることがある。履歴書のようなものを要求されれば無職と書かざるを得ないが、人間それでは満足できないから、何らかの仕事を持つ。ひとつが終わればつぎの仕事に移る。人間誰しも何かに役に立つ人間だと思いたいのだ。それは生き甲斐というものだ。
 私は聖書を深く学ぶことを生き甲斐にしてきた。キリストの生涯になした奇跡の物語は迫真性がある。目撃者の思い込みがあるかもしれないが、聖書に書いてあることすべてがある真実を目指している。懐疑は上等な知性の証拠のように思っても、それでは人生の解決にならない。パスカルは信仰の中に賭けを見た人で、このスペース(宇宙)の永遠の沈黙を震え上がるほど怖いと思ったのだが、信仰者としての選択をした。そこには彼なりの真実があった。分かる気がする。
 私は無教会の信仰に必ずしもとらわれているわけではない。いわゆる超教会主義はどの教派に属する人にも必要と思っている。無教会では聖書さえ深く学べば行動は要求されないとし、結核で入院している患者さんなどは、「信仰のみ」といってわき目もふらず聖書を読んでいれば救われるとした。しかし健康な人はこの世で行動しないわけにはゆかない。聖書が示す聖霊の導きにしたがって行動するー行動できる人は幸いだ。矢内原忠雄は戦時中にそういう戦いをした。朝鮮を植民地にし、中国を侵略する戦争に続き、太平洋戦争は無理が無理をよんで敗れた。それは不義の戦争だと彼は言った。聖書の学びは戦いそのものであった。
 日野原重明氏が牧師の息子で、教会の信者であるが、その活動は教会を超えている。私は日野原氏に出会ったことから彼の行動がキリスト教でいう「証し」であり、一種の伝道であることを学んだ。直接伝道は牧師がやるといってもしばしばそれは押し付けになる。平信徒が行動によって間接伝道したほうが効果があることもあるだろう。日野原氏の『愛し愛されること、創ること、耐えること』という新老人の会三原則はきわめてキリスト教的であるが、生き甲斐の創出だけを求める現世的な人にも受けいれられている。ひろやかな立場で彼はそういう人たちにキリストの教えを伝えているのだ。
 彼に出会ったことから私は赦しということも大事だということに気付いた。正義の貫徹を願うあまり、人を裁くことに急な人たちがいる。それは伝道にはならない。行動をもって証ししようと思うからには自ら人を裁いてはならない。相手の誠意を引き出す行動原理が必要なのである。