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銀座セゾン劇場、堤清二 うたかたの夢

2014年01月15日 | 日記

 三愛ドリームセンターのコーヒーショップを出てから、京橋方面に向かう途中の首都高速高架手前で、ル・テアトル銀座、旧「銀座セゾン劇場」前で思わず立ち止まる。客席800ほどの劇場と映画館「テアトル西友」、中規模ながら高級指向路線で売った「ホテル西洋銀座」の複合建築は、1987年竣工の菊竹清訓と久米設計によるもの。その前身はテアトル銀座というシネラマ方式の映画館だった。学生時代に閉館特別ラスト上映「2001年宇宙の旅」をここのレイトショーで友人たちと一緒に見て、その弧を描いた大画面に投影された宇宙空間シーンにひどく感激し、朝方の銀座通りを歩いた思い出がある。
 旧銀座セゾン劇場は、かつてセゾングループの片隅に所属していた当時、紆余曲折の末に鳴り物入りで開場した劇場であり、こけら落としは大御所ピーター・ブルック「カルメンの悲劇」だった。新装の劇場は、大理石内装のやたらまぶしいホワイエと場内紫色の内装が印象に残っているが、肝心の舞台の印象は格調高く素晴らしかったはずなのに、ほとんど記憶にないのはどうしてだろう?決して退屈したわけではなく、舞台に敷き詰められた土の上で、パントマイムの牛と闘牛士役の優雅な身のこなし姿だけがかすかに思い出せる。
 銀座通りに面して間口はせまく、首都高速沿いに細長く白亜の建物が伸びる。劇場入口には二本の列柱がたち、向かって左側がチケットボックスだった。正面扉を入って右手に劇場ロビーへのエレベーターがあったはずだが、ガラス戸は塞がれて中は望めない。映画館もホテルも建物のすべてが時流のなかで営業を停止してしまって、静かに佇んでいる。廃墟とよぶにはあまりにも整然とした汚れなき姿が不思議な感慨を呼ぶ。今すぐに再開してもおかしくないような“デ・ジャヴ”既視感にとらわれてしばし佇む。

 西武流通グループが、生活総合産業を標榜して「西武セゾングループ」と称したのが1985年のこと。翌々年のこの劇場のオープンの際に、西武がとれて“セゾングループ”となり、同時にアルファベット表記が「SAISON」(仏語で四季の意味)から「SEZON」へと変わったのを覚えている。前者表記だと「サイソン」としばしば誤読されることがままあり、日本ローマ字表記にあわせ後者に変えたらしいのだが、いかにもとってつけた変更であり、違和感をもった記憶がある。グループ総力をあげた施設に、劇場「セゾン」、ホテル「西洋」(これは、グループデベロッパー会社の西洋環境開発からきているのだろう)、映画館「西友」と宣伝要素の強い名称をつけこともしっくりこない。はっきりいって、それまでの消費時代の先端を走ってきた企業らしくない貧乏くささがしていた。まあ、最終的にはトップ堤清二氏の意向が働いたと想像するが、ここのあたりの判断のおかしさから、このグループが経営破たんに向かっていく兆候が読み取れるのではないだろうか。

 ともあれ、こんなタイミングでかつての遺跡に再会するなんて!つわものどもが夢のあと、時の移ろいの儚さ、非情さを思い知られずにはいられない。当初は何度か舞台を見たけれど、いつの間にか興味は薄れ、自然とそこから離れてから久しいままに、ついに劇場としての生命は終わってしまった。


追記:今朝の朝日新聞に、俳優の高橋昌也氏の逝去が載っていた。
 セゾン劇場開場の年1987年から99年まで芸術総監督の呼称で、黒柳徹子主演のコメディ演出にあたったそうだが、その舞台に接することとはないままだった。文学座、劇団雲、演劇集団円と移る中で脇役俳優として活躍とあるが、芸術監督に就いたのは、堤オーナーと三歳違いの同世代で知友でもあったつながりからなのだろう。劇場の方向性の定まらなさとともにいまひとつ話題性と印象が薄かった気がする。昨年11月の堤清二の逝去に続いて、やはりひと時代が回ってしまった感が深い。(2014.01.23 記)


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