日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

越後妻有まつだいに咲ける花

2016年08月07日 | 美術
 ふるさとに帰省していたのは、先月の土用の入り19日から大暑の22日までのこと。例年より少し早い帰省で、もうすでに二週間と少しの時がたってしまった。お盆前にお墓掃除とお参りを果たした後は、菱ケ岳のふもとの鉱泉に行ったり、翌日上越高田公園の早朝ハスを見たあとには、老舗の料亭「宇喜世」の舞台つき格子天上が豪華な大広間でランチしたりと、のんびりと過ごしてきたのだった。

 帰路、ほくほく線まつだいの駅前を通りかかって、オランダの建築家グループMVRDV設計の白い巨大なクモの様な「まつだい雪国農耕文化センター」“農舞台”がみえてきたとき、昨年の思い出がフラッシュバックしてきたかのような錯覚にとらわれた。そこで始まったばかりの『花』をテーマとした展覧会「どうしてみんな、花が好き?」をやっぱり見ていこうと思ったのだった。
 駅前に車を止めて、地下道構内を通り抜け、反対側に出てすぐの建物内にあるギャラリーに入ると、蜷川実花のフラワー大写し、森山大道の路端に咲く花々の写真、たしか二回目のトリエンナーレの十日町市街で見た中川幸夫の書「花狂」、階段を利用したインスタレーションと花々の映像の組み合わせなど、百花繚乱といった作品の世界が広がる。

 館内の食堂で早めの昼食をとることにした。床、壁、椅子はすべてペパーミントブルーで統一され、テーブルは鏡面になっていて、農家の窓から見えている日常の里山風景を組み合わせプリントした天井パネルを映し出す。大きく川側にとられたガラス窓からは、カバコフ夫妻の『棚田』が真正面に位置する。農夫をかたどった五つのシーンを表わすオブジェと一連の稲作作業を記した立体詩篇からなるその作品が、本物の里山棚田風景とリンクして望める絶好のロケーションを、期せずして一人占めすることとなった贅沢な時間だ。

 屋上に昇って外に出ると、さすがに厳しく蒸し暑さが増している。大暑の日の陽射しは、真っ白の床に反射してまぶしく目がくらむかのよう。周囲の緑の風景の中に見下ろせば、熱帯植物と見まごうかの赤・緑・黄・青原色の大輪の花オブジェが、2003年以来ずっと送電線鉄柱と鉄道路線に挟まれた小高い丘のうえに咲き続けている。じつは、はじめてこの作品をみたときには、強烈なエネルギーと同時に違和感のようなものを感じた。
 ここに来るたびに、この「花咲ける越後妻有」の迫力、インパクトはなかなか大したものだと思うのは、その上を高圧電力がまたぐと同時に、豪雪地帯に暮らす人々の宿願として、ようやく20世紀の終わりに開業した第三セクターの鉄路がそのすぐ脇を疾走しているからだろうか? はたして作者の草間弥生は、制作にあたってこの歴史と風土にどんな思いを寄せていたのか、それとも作品がここに置かれることでこの地の気候や精霊に誘発されて成長してきたものか、どちらなのだろう?




 草間弥生「花咲ける越後妻有」と「まつだい雪国農耕文化センター」“農舞台”(2003年竣工)


 都会にむけて越後妻有アートトリエンナーレのイメージを決定づけたショットのひとつを模して。
 曲がりくねった雄しべの蒼に白の水玉模様、空の青と白い雲がコラボしてるかのよう。雌しべはどこにある?

「ピロスマニ」を観て、故郷の画家を偲ぶ

2015年12月16日 | 美術
 休日の朝に、NHKEテレ「日曜美術館」で「佐野元春・鳥取への旅 世界的写真家の魅力」(どうやら、これが正式のタイトルらしい)を見た後、小田急線から地下鉄を乗り継いで、都内神保町まで出る。改札の階段を上って交差点に出ると、はす向かいに10階建ての岩波ビルが見える。その一階はみずほ銀行、最上階が岩波ホールで、その日はここでグルジア映画「ピロスマニ」を観ることにしていたのだけれど、午後からの上映開始まであと一時間ほどある。
 昼食のお店を探そうと一度すずらん通りを通りぬけ、横丁に入った老舗喫茶「さぼうる」は定休日、少々がっかりしながら再び交差点に戻り、さらに水道橋方面に歩き出してから戻ってきて、結局すずらん通りの古くからありそうなロシア料理レストランに入る。席についてランチセットを注文すると、すぐにピンク色のスープとサラダが出てきて、メインはグラタンのようなもの。さっぱりとしたデザートがついていた。コーカサス山脈の南になるグルジアはたしか旧ロシア領だから、あらかじめ意識していたわけではないのに、映画を観る前の食事としてはなかなかのものだろう。

 上映開始の時間ちょうどよい頃に十階のホールへ。このホールへ足を踏み入れるのは本当に久しぶりで、前回がいつだったか思い出せないでいたが、ロビーのたたずまいと場内の雰囲気はまったく変わっていないように見受けられる。かつてここで映画を見る体験自体がスノッブな感じが漂っていて、それはいまも同じだろう。当時はそれが嫌味にも感じられたが、逆にぶれないその姿勢がいいなと思える自分がいた。
 かつて一度見たことのあるこの映画そのものは、静謐で淡々とした美しい映像が印象的で心に残っていた。それから約三十年以上たっての再見がはたしてどのようなものが、密かに期待をしていた。はたして、控えめな色彩もそうだし寡黙なセリフにグルジアの町や草原の風景、人々の暮らしの様子、民族音楽とすべてに押しつけがましさがなく、変わらずよかったのである。いわゆる素朴なナイーブ派の系譜に連なるピロスマニの絵画は、この映像とよく調和していて、じつに好ましかった。

 
「ピロスマニ」を観て、故郷出身の画家を偲び、そのひと横尾茂のエピソードについて記したい。

 二週間ほど前の新潟に帰省した際に、たまたま近くの宿泊施設“月影の郷”で開催されていた同郷の画家の回顧絵画展の看板を偶然に目にして、あっと思ってしまった。おそらく相当の苦労しながら好きな絵の道を歩んだその人生が、ピロスマニの姿と重なるような気がしたのだ。いったいこの片田舎出身の画家、横尾茂という人と作品ははどのようなものかひどく興味をそそられて、実家から目と鼻の先にある会場に足を運んだのだった。
 会場の旧小学校体育館に入ると、受付の男の方はどうも故人の親族であるらしい。その先の移動式ボードで区切られたスペースに30数展の絵画が並べられていた。最初は「父」と題された油彩の人物画、なんとも重々しい色彩とタッチ、青木繁を連想した。1970年前後の作品から独特の抽象度の比重が高まってきたらしく、「季の唄」(1974年)は、冬枯れと思われる山の情景を茶褐色をベースに有機的な曲線で描いている。1977年の安井賞受賞後、横尾茂は公的な場所への作品提供の機会に恵まれるようになり、78年にまほろ市民ホール緞帳原画を制作とあるが、これはこの画家が市内小野路在住だったことがあるのだろう。どんな作品なのか、ホールを訪れた機会にぜひ拝見してみたいものと思う。

 さらにこの画家のプロフィールに目を通すといろいろと興味深い。昭和八年に旧安塚村横住に八人兄弟の七番目として生まれ、小学校の先生の影響で描くことが好きになったそうだ。家業の農業を手伝いながら二十歳まで過ごした後に上京し、お茶の水にある文化学院美術科を卒業して辛苦を重ねた末に、五十歳をすぎてから安井賞を受賞したとある。そのことでようやく一般に名が知られ、画業で生計を立てていくことが可能になったらしい。1996年の村役場落成のさいには、「曙」と題された妙高山をモデルにしたのであろうか、黒味を帯びた赤色で力強く山肌を現した500号の大作、2001年の月影小学校閉校にあたっては記念校歌碑(作詞:相馬御風)を制作している。そうか、そうだったのか!
 全体的な絵の作風は、土くれ色を変化させた具象と抽象のあいだのような地味な印象である。雪国なのにあえて白を避けているのは何故か。北国の人間にとって天から降り続く白い雪に対する心情は複雑なものがある。とくにこの画家の少年時代であればなおさらで、ひたすら“忍”の一文字で表わせられる長い季節だと実感されるから。よくもまあ、けっして楽ではなかったであろう日々の暮らしのなか、専門学校である文化学院に進んで、辛苦して画家の道を歩まれたものだ。おそらくそこに雪国から抜け出す唯一の夢を描くことができたからだろう。大正自由教育の流れを汲み、建築家でもあった西村伊作によって創立された文化学院は、いまもお茶の水明治大学の近くに健在※で、都会派の裕福な子息が学ぶイメージがある自由教養主義を標榜する学校に地方の農家出身のせがれが学んだことも、わたしにとってはちょっとした驚きであった。

 最後に安井賞受賞した直後のこの画家が雑誌取材の折に記したという言葉をひいておく。
 「故郷は山間で段々畑のような田んぼばかりの山里である。だから故郷を描くとなると固定した場所を描く気になれず、どうして(も)その風土とそこに住む人達を思う。すべてのものが茶褐色に枯れ果て、暗い空から灰を思わせる雪、止むことを知らぬように降り続ける粉雪の冬を待つ晩秋、それを好んで描く。(中略)少年期をだだっ子のように過ごした山河と人々の中にある種の風貌を感じさせる人間像が私の心の中に深く沈着し、人々の表情が私の画想を豊かにしてくれた。」
 なんだか少しさびしくもほっとした気持ちにもなる不思議な心情、これは昭和の時代を過ごした雪国の同郷の人間であれば、なおいっそう身に染みて感じる言葉だ。大人になって振り返ると、幼少を過ごしたけっして豊かではなかったはずの寒村の故郷をなつかしく慈しみをこめて思い出すのだろう。県境に近い多摩境にある小野路の里もそのような雰囲気が当時はまだ濃厚に残っているところだったからこそ、この画家が終いの棲家に選んだのではないだろうか。このひとは、つつましくもささやかな幸せをつかんだのだろう、なんともいえない気持ちになって、その人生を表わす言葉にしばし戸惑う。

(2015.12.16初校、12.25改定、26再改定)※註:学校経営を巡っていろいろあったようで、つい最近に両国近くに移転した。


蔡國強 「蓬莱山」との対面

2015年08月07日 | 美術
 七月末以来、観測史上最長の八日間連続真夏日が続いている。この暑さは、はたして明日八日の立秋まで続くのだろうか?
 二日まで故郷新潟に帰省していた。正確に言うと帰省した後に、開催したばかりの「越後妻有アートトリエンナーレ 大地の芸術祭」の展開される里山めぐりの旅をして戻ってきたところ。津南町にある里山から信濃川の河岸段丘を挟んで、遠くの丘陵に青空、夏の風景を望む。

 
 ダダン・クリスタント「カクラ・クルクル・アット・ツマリ」のやさしい音色が聴こえる、棚田と段丘、妻有の山並み、そして首都圏への送電線が続く遠景の中で。

 巡った作品の中には、今回の目玉である中国人アーティスト蔡國強の「蓬莱山」と題されたインスタレーションがあり、十日町市の中心街にある現代美術館キナーレにおいてようやく対面することができた。建物の四角い回廊には人工池があり、そこの真ん中に常緑の植栽で表面を繕われたハリボテ山が姿を現していて、山中の数カ所から水蒸気が噴き出していた。その高さは、ざっと建物二階分をこえるくらいか。よく見ると中腹から水の流れもあって、頂上からの噴煙こそないものの、東京ディズニーシーの中央に鎮座するアトラクションが引っ越してきたか、さしずめ日本国内なら世界遺産屋久島を模したかのようにも思える。島の周囲の回廊には、約千体あまりの稲わら細工の船や飛行機、鳥や魚などがつりさげられていて、これは地元のひとたちとの協働として生み出されたものなのだそうだ。
 「蓬莱山」とは、古代中国で東方の海上にあり不老不死の仙人たちが住むという伝説上の地である。その伝説が越後の地方都市の真ん中に出現したわけで、それも現代建築のコンクリートとガラスで囲まれた建築内の海上ならぬ人工池の中央とはなんともおもしろい。亜細亜人でありながらニューヨーク在住、世界をめぐるコスモポリタンたる作者一流のユーモアというべきか、現代社会への痛烈なアイロニーなのか、たぶんその両方を含んでいるのだろう。

 美術館のエントランスには「島」と題された、火薬の発火によって描かれた横長で巨大な水墨画のような迫力あるドローイング。実際の噴火=自然と火薬=人工の爆発作用が重なって見える。
 そこから二階の回廊にあがって、正面反対側に回ってみてびっくり。レストランの窓際テーブルから眺めると、なんと完全円錐形に見えたハリボテ形状は半分にしかすぎず、裏側が包丁で垂直に切られたようになっていて、内側の足場構造=イントレが丸見え状態、まるで作業が中断されたみたいなのだ。これって、資金不足で未完成品?と疑いたくなるくらいでショッキング、唖然とさせられた。あるいは、作者の意図なのだとしたら、現代社会への痛烈なアイロニーがいっそう利いている、と解釈されようか。不老不死の理想郷なんて、もはやこの地上のどこにも存在しない、というメッセージなのかもしれない。

 この対面に先だって、横浜美術館で開催中の蔡國強「帰去来 There and Back Again」展を見てきた。下記の画像は、開催に先立って美術館グランドギャラリー内で公開制作された四枚の海作品「人生四季」のうちの“夏”である。火薬によるドローイング作品だが、初めて赤・青・黄などの色彩を伴って、四季の花があしらわれた風景の中に男女とおもわれるふたりのさまざなな睦み逢いを描いたもので、まさしく人生を移う営みの熱い息づかいが伝わってくるようで、うん、分かりやすくて素直に愛おしい気持ちになる。
 描かれた夏の花は、蓮=ハスと山百合だったろうか。局部周辺の赤いのは、ネムの花としておこうか。夕方に葉が閉じるネム=合歓の木は、花だけは夜もやさしく妖しく咲き続けて文字通り、この夏の季節の春画に相応しい題材だから。ちなみに、春は椿と牡丹、秋は菊とススキ、冬は梅と訳ありげな水仙の香しきニオイが、恥じらいで秘めた想いをあらわしている、である。 もう一度確かめに行かなくては、ね。


 横浜美術館にて、完成したばかりの作品の右側に立つ人物が蔡氏 (2015.6.24 撮影)

ヨコハマトリエンナーレ2014 プレビュー

2014年08月02日 | 美術
 八月、夏真っ盛り。故郷新潟の高田城址公園外堀では、19haに及ぶ広さに蓮花が咲き始めていて、そこに天上世界を見てきた。

 話題?の先取りで七月末日の午後から、翌日開幕の「ヨコハマトリエンナーレ2014」プレビューにみなとみらい&新港地区に出かける。主な会場は、横浜美術館と新港埠頭市営倉庫(新港ピア)の二カ所。人口350万巨大都市ヨコハマでの地元開催がたたって?いまひとつ期待感というか、盛り上がりがたりないような印象がしてしまうのは時代感度のズレか、芸術とあれども経済面予算の関係なきわけはなく、あふれる様々な情報量のなかに乱立もしくは埋没してしまうパラドックスからは免れない。今年開催されるほかの二つの連携するトリエンナーレ、札幌や福岡が正式タイトルを漢字表記にしているのに対して、横浜名の場合はカタカナ表記であり、それは差異を強調するよりもステレオタイプな心象を与える。いっそのこと最初からローマ字表記のままのほうが潔いのに、と思ったりもする。
 それでも、正面入口前まで来ると、全長20メートルくらいはありそうな金属製トレーラーのオブジェで、細部はゴシック建築意匠の金具の集合体からなっているのがわかる。アンモニュメンタルなモニュメントという副題には、やや無理がある。その理由は既製品だからということではなくて、このみなとみらい地区の場所の歴史地域性を反映して制作されたものではないからだろうか?

 美術館エントランスに入ると、プレスや内覧招待客、コアなアート関係者であふれかえっていて、やはりこの美術展がそれなりの大きなイベントであることがようやく実感される。
 そして3F吹き抜けの天井まで届くような、ガラス張りの巨大なケース。「ART BIN」という名称の「芸術作品のゴミ箱」(マイケル・ランンディ:1963年ロンドン生)。このケースに、創作過程で発生した試行品や失敗作を投げ入れるという“芸術行為”のパフォーマンスが衆人の取り巻く中行われるのに運よく遭遇した。最初は、芸術監督の森村泰昌による、千手観音?に扮したかのような巨大なポートレイト幕を拡げてみせたあと、いっきに落下させると軽いどよめきがおこるが、それすら予定調和的に見合ていたのは皮肉だろうか?(翌日の朝日新聞夕刊一面には、このプレパフォーマンスの記事が写真付きで掲載されていたのは、広報的にはまずまずの成果だろうか。まあ、朝日新聞社は主催者の一員でもある)

 このトリエンナーレのテーマは「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」、華氏451とは、自然界で書物媒体である紙が自然発火する温度のことだそうで、SF小説のタイトルから来ている暗示的なもの。それにならって全体構成は物語仕立てで、美術館会場が屋外の序章から始まり第一話から九話まで(だだし九話は作品ではなく、音楽パフォーマンスらしい)、10・11話が新港ピア会場で展開されている。
 新港ピアへは、無料の連絡バスに乗り継いで五分くらい。荷揚げ用の一時保管倉庫だからそっけなく埠頭の先端にたたずんでいる。こちらのロケーションのほうがミナト町らしくていい。入口には、デコレーションをほどこされた巨大な本物の!台湾製トレーラー(わなぎみわ:1967年神戸生まれ)。荷台箱部分が開かれると電飾付の≪夏芙蓉≫が描かれた背景つきの派手な舞台装置に様変わりする。今回はここに金属製の御柱を立てて、ビキニ姿の女性による猥雑なエネルギーが充満した見世物“ポールダンス”が披露されて、ちょっとした興奮をもたらしてくれたのだった。来年は、京都での芸術祭で中上健次原作の演劇作品をこの舞台で上演するというから、覚えておこう!

 会場のラストは海を臨む、「カフェ・オブリビオン(忘却)」である。たしか、アストル・ピアソラのタンゴ曲のなかに“OBLIVION”と題された曲があったのを連想する。屋外には、現代の高層建築ビルとの対比の中に巨大なクレーンが一基、忘却の海に向かって何かをすくい出すかのように佇んでいる。

 
 見上げる真夏の蒼き空と潮風に輝く太陽の光!


「高谷史郎/明るい部屋」 東京都写真美術館(恵比寿ガーデンプレイス)

2014年02月02日 | 美術
 一月最後の日曜日の26日は、「高谷史郎/明るい部屋」展最終日、どうしても見て確かめておきたくなって、東京都写真美術館へ出かける。

 中央林間から田園都市線に乗り、渋谷ではJR山手線乗り換えのためいったん街頭広場に出てみるが都知事選の喧噪は感じられない。ハチ公像に「東京都知事選挙2月9日投票日」のタスキが架けられているのが目に入ったけれど、「いまの気分のようなもの」を象徴しているようだ。原発問題、高齢化、労働の空疎化などの課題を内在させながら、少なくとも表面上TOKYOは平和そのものだ。

 恵比寿に着いた。ガーデンプレイスは、落語のEBISU亭で訪れて以来10年ぶり?くらいか。その際は赤レンガ造りのレストラン、サッポロビアガーデンで食事をしたと思う。その横を通り抜け、さて写真美術館ってどこ?という感じで高層ビルの先を通り過ぎるてようやく入口へたどり着く。初めての美術館は地階を含めた五層構成、展示スペースは三階までで四階は図書室となっている。高谷史郎の個展は地階だったので、階段で会場へ降りてみた。

 地階空間はすっきりとしたL型ホワイトキューブ形で、写真メディア展示にはふさわしい。向かって左側の壁面に、高谷史郎が1987年にヨーロッパで撮影した空の雲の様相のパネル、右側の壁面は美術館蔵のマスターワーク・プリントのパネルのいくつか、中央スペースには展覧会フライヤーに使われたレンズ付光学装置を用いて写真集からのプリントを覗きこむ仕掛けと、全周魚眼レンズを用いて撮影された天空の日の出から日没までの風景を覗きこむ早送り映像など。奥には、大型スクリーンの両面に次々と様々な街角のデジタル風景写真が早送りで映し出され、反対側に別の鑑賞者が立つとその像が影法師のように重なる、映像インスタレーション。さらに奥には、八面の液晶パネルを繋いで横長に映された、ある湖畔らしき風景の日の出から夕暮れまでの様子をいったん分解したうえで再構成してつないだと思われるカラー映像インスタレーション。じっとソファに座って眺めていると20分くらいだろうか、湖畔が次第に明るくなって、葦が生える水面の風景が拡がっているのがわかる。そのうちに雨模様となってきたようで細かい水文様が拡がる、そうしているうちに雨はやみ、明るさが戻ってくる。だんだんと日が落ちて薄墨色に代わってくると水墨画のようでもある。そして夕暮れから暗闇へ、やがて薄明かりの中、また朝の表情が始まる・・・といった映像が繰り返されていく。
 作品の対象が空や雲の表情、自然の風景の移り変わり、街角の様子などすべての場所が特定できない、あるいは移り変わりゆくもので、カラーであってもモノクロームの無菌室のような淡々とした印象である。「明るい部屋」とは、ロラン・バルトの写真論(1980年)のタイトルからの引用だということだけれど、この展示会場の雰囲気をそのままあてはめているかのようだ。高谷史郎は、京都を拠点とする芸術家集団「ダムタイプ」のメンバーで作風は極めてスマートなスタイルを保持している。

 このあと展示室を出て、四階の図書室へ。一月六日に東京ステーションギャラリーで見た、植田正治の写真集があったのでしばらく見入る。鳥取砂丘での人物ポートレイトやヌード写真を眺めていて、この人の感性の不思議さを想う。山陰の風土にありながら、どことなくモダンで都会的な構図、無機的な砂丘の中に人物を配した有機的な表情。被写体のひとり、植田の愛妻は着物を来て、ときに傘を差し砂丘にたたずんでいる。彼の砂丘に配したヌード写真をみていて、ふとこれらのモデルに着物を着せて映してみたら面白いのに、と思った。ヌードは多分に西洋的な価値観が先行しているものだから、その意味で体型的に劣るであろう日本人の裸体を生かすのは、身体の表層を布が覆うなかで見せる表情ではないだろうか?

 美術館を出た後、隣の高層ビルの都内目黒方面から丹沢大山方面を望む最上階の和食店で昼食をいただく。富士山はかすんで見えない。このフロアの山手線内側から都心方面の眺望は、次に機会の楽しみにとっておこう。(1.27書き起こし、2.2書き終わり)

生誕100年 植田正治のつくりかた/東京ステーションギャラリー

2014年01月15日 | 美術
 銀座通りから、高速道路高架をくぐりぬけて京橋通りに入る。途中通り過ぎた明治屋は、建物改修中で保存されて活用されるらしい。八重洲通にぶつかかったところで、左折して東京駅方面にむかう。お昼時、空腹を覚えたので、駅手前で中華料理屋をみつけて昼食をとることにした。ビル街の合間のサラリーマンに愛されているであろう食事処、おいしくてコストパフォーマンス抜群、家人と二人してビールをいただく。
 正面は新調なった東京駅、八重洲側からは初めての対面だ。駅ビルの大丸デパートは、以前より右手の高層ビル、グラントウキョウノースタワーに移って新装オープンしていた。北口通路から丸の内へとに抜ける。1914年開業当時に復元されて、いよいよ今年12月に竣工百年を迎える東京駅舎内の北大ドーム下に入る。明治・大正期の建築家の泰斗、辰野金吾の設計の赤レンガ建築、クリーム色のドーム天井を見あげて、鷲のレリーフや八つの干支の彫刻を眺めていると、見知らぬ女性が近づいてきて声をかけられる。

 「東京駅は初めてですか? (いいえ。)では、何をご覧になっているんですか?」
 「天井の干支の彫刻を探していて・・・」
 「今年の干支はなんでしょう」
 「ええと、午(うま)、ですが・・・」
 「そうです。ところで午は見つかりましたが?」
 「いえ、八角形なので全部で八つしかいないので、いったい残りの四つはどうなっているのかと・・・」

 といった感じで、テレビインタヴュー取材を受けることになってしまい、いったんドームの外に出ると、TBS「朝ズバッ!」取材クルーが待機していてカメラとマイクを向けられることになってしまった!まあ、これも経験かと思うと緊張も解けて答えたつもりが、あとで翌日の放送を見た方によると見事にカットされていたらしい。まあ、答えのセンテンスが長くてそのものズバリのテレビ向けの素材としては不向きと判断されたみたいで、ちょっと楽しみにしていたのに残念!

 それはともかく、今回の目的はここ東京ステーションギャラリーで開催中の写真展「生誕100年 植田正治のつくりかた」をみること、5日が最終日で滑り込みで間に合った。北ドーム脇に入り口がある。ギャラリースペースは駅舎のドーム脇の北端部分が充てられていったん三階に上がってから順に下におりてみる構成となっていた。
 エレベーターで三階に上がる内部の壁面は赤レンガがむき出しの独特な空間だ。はたして作品はどんな感じでこの個性の強い空間と拮抗しているのか、興味の焦点はそこにあったんだ。
 じつは、「植田正治」1913-2000)という写真家は、新聞の文化欄やMAMAKOからの情報で初めて知った。昨年末、わざわざ名古屋からMAMAKOも見にきているはず、そう思うと気持ちが改まったよ。鳥取出身で山陰地方を生涯の拠点としたとあり、砂丘での作品など地方風景を背景に随分とモダンでシュールともいえる印象の作品が並ぶ。構図や人物配置の仕方も独特でいま見てもじつに新鮮で、寺山修司の映像を思わせる。寺山も写真を撮っているが、二人の作品を並べてみてみたいと思った。植田の実験精神とチャレンジを怒れずに新しいスタイルを追求していく姿は、中央とは離れた適度な距離がなせるものだったのかもしれない。

 植田の著作「山陰の風土に生きて」のことばに「山陰の風土に生きて抒情を求め続ける」とある。当時モダンな表現だった写真を山陰という風土を意識しながら取り続けたところに、自称“生涯アマチュア精神”を発揮した写真家植田正治の魅力がある。彼の遺した家族写真も故郷の風景写真も原点は、そのまなざしに貫かれているのだろう。
 


補足1:翌日の6日八時過ぎに、そのTBS番組「朝スバッ!」を見ていたら、辰野金吾が東京駅ドームに残した干支彫刻ついて孫娘の辰野智子(建築家)や 首都大学の東秀紀教授がインタヴューを受けていたが、何故干支を掲げたかそして12のうちの8つを選んだ理由は謎のようだ。さらに続きの映像があって、これが興味深いことに!、同時期に辰野が手掛けた佐賀の武雄温泉楼門の天井四隅に残りの干支の動物が描かれているのだ。その干支は、東西南北方向に“卯、酉、午、子”の四つ。これが、東京駅に残されなかった干支の種類。辰野金吾は佐賀唐津出身だから、東西南北にあたる干支は郷土に置いておきたかったという心情からなのかもしれない。いずれにしても真意はナゾ、ということにしておくといろいろと想像が広がって楽しい。


東京駅北ドームを見上げる。
八角形のドームの下に空中回廊あり、ギャラリー出口とつながっていて上からコンコースをぐるりと見下ろすことができる。そして回廊の窓の上の三つ又の中心に水色の円形アイコンが見えるのが問題の干支像で合計で八つある。

  
天井ドームを見つめていて、八角形の枠に縁どられたクリーム色の天井がある図像と類似であることに気が付いた。
それが、以下の「方位吉凶早見盤」である。東西南北の方向に干支の“卯、酉、午、子”が記されているのが読み取れる。
         
  

補足2:今回から思うところあって、ブログタイトルを「日々礼賛日々是好日」と改題。
    日々で始まる二つの熟語を繋いでみるとおもしろい漢字のならびになるので、これでいこうと思う。