本家ヤースケ伝

年取ってから困ること、考えること、興味を惹かれること・・の総集編だろうか。

『闘う収蔵庫』=チョムスキー。

2009-03-14 18:31:35 | 世界
チョムスキーと言えば『マニュファクチャリング・コンセント』だが(はあ?)、本は饒舌で難解でおまけに高いけど、この日本語版訳者のあとがきなら只で読めてしかも知的刺激に溢れている?ラッキーッ!ってか→ここ(2006年12月 中野真紀子)なんだけど、以下私の勝手な解釈もランダムに取り混ぜて紹介すると : ↓

①出版社に掲載を拒否されたといういわく付きのジョージ・オーウェル『アニマル・ファーム』の序文であるが、この中で彼は小説本体に於ける「ロシア革命の戯画化」に加えて、ソ連型「全体主義」的手法を取り入れざるを得なくなった「自由主義」の危機を訴えている。

②民主主義が高度に発達した「自由主義社会」に於て、全体主義国家にひけをとらぬような思想統制が果たして行なわれているのかどうか。
 行われているとして(検閲制度も、取り締まる法律もない自由な社会において)具体的にどのようにして思想統制が行なわれるのか。(←この書は欧米とりわけアメリカに於けるモデルの探求が眼目だから日本に直接適用することは出来ない。第一日本の『教科書検定』など検閲そのものだ)
 それを知るため自由市場におけるマスメディアの制度機構を構造的に分析する。
 本書では体制側エリートが率いる誘導市場システムである「プロパガンダ・モデル」を考案し、実際のメディアの反応にあてはめてその有効性を検証する。

③マスメディアは『マス』というくらいなもんで、寡占化の進んだ業界を支配する少数の独占的な巨大企業である。

④資本制社会の寡占的巨大企業のすることは皆同じで、マスメディアも例外ではない。それは可能的最大限に商品を生産し売りまくることである。
 マス・メディアと言えばテレビ的には何よりも『視聴率』であるが、チョムスキーはその向こうにいる膨大な数の視聴者を浮かび上がらせ、放送局が生産するのは各種『番組』であるが、商品とするのは番組ではなくそれを支える視聴者であるとする。売買されるのは『数字』ではなくあくまで『人間』とその動向(一挙手一投足)なのである。

 テレビ局の場合、それぞれの購買力や消費パターンによって細かく階層分けされた視聴者(商品)を買うのは、広告主という大企業である。彼らの選択がメディア企業の業績を決定するため、その意向が番組のラインアップや内容を大きく左右する。視聴者の意見が反映されるのではない。このビジネスモデルにおいて、視聴者は番組の消費者ではあっても買い手ではなく、したがって影響力を行使する余地は広告代理店経由のスポンサーより小さく狭い。
 また日本ではNHKなどはしばしば自民党・霞ヶ関サイドの『国策報道』をする。

 日本の新聞業界では、各新聞社を支えるのは主として大企業からの広告収入であり、系列化された各販売店が読者からの購読収入に依拠していると言っていい。読売の夕刊なんて記事と広告とどっちが多いかわからないくらいで、ここでも自由市場が生み出すのは、購読者の選択が決定権を持つ中立的なシステムなどでは毛頭なく、広告主の選択がメディア企業の浮沈を決める仕組みなのである。 

⑤我々『車夫・馬丁の子』=一般大衆の役割は与えられたものをただただひたすら享受し消費することがメインである。一方金を払える者だけは『言論の自由』を謳歌し、それを遍く駆使して世論形成に多大な影響を与えることが可能だ。

⑥なにがニュースに取り上げられるか(ひいては言説を支配し世論に影響するか)を決定する装置として、公表にふさわしい素材を選別する5段階のフィルターとして: ↓

1. メディア企業の所有と支配の構造から生じる利益志向
2. 収入源を広告にたよることの影響
3. 政府や大企業など、お墨付きの情報源への依存と、権力に奉仕する「専門家」の重用
4. 集中的な攻撃キャンペーンによるメディア統制
5. 国家宗教と化した「反共主義」

⑦ アメリカは南ヴェトナムに傀儡政権を建て、それに抵抗する現地勢力を一掃するため軍事侵略をおこない、南ヴェトナムの農村を攻撃して住民を大量に虐殺した。70年代には侵略対象をラオスやカンボディアにも拡大し、インドシナ全土を爆撃して数百万人の死者を出し、国土を荒廃させ、長期にわたる壊滅的な禍根を遺した。だが「アメリカの侵略」という基本的な事実は、アメリカのメディアの歴史認識においては、今日に至るまで存在していない。彼らの認識では、あくまでもアメリカは「南ヴェトナムを防衛」していたのであり、それに抵抗した南ヴェトナムの大多数の住民たちは「侵略する敵の勢力範囲」に囲われており、南ヴェトナム人ではなかった。

「ヴェトナムを救うためにヴェトナム人を殺す」という「倒錯した論理」はイラン・イラクにも引き継がれている。

⑧あまり暗い話ばかりでも何だから、最後に『双方向性テレビ』が状況を一変させる可能性はあるという指摘を。w
 パッケージ化された編集済みのニュースをとどける従来型のマスメディアが(←そこではどんなに良心的な報道でもメディア総体を擁護・弁明する手段と化する。チョムスキーは「良い報道」と「悪い報道」を峻別する方策などないと言う)大衆を受動的な存在にとどめておこうとするのに対し、『パブリック・アクセス』は大衆に発言力を与えて能動化するもので、それが保障するのはマイノリティや女性など、従来型のマスメディアではおおむね客体化され、代弁されてきた人々が、みずからの声をとどける能力である。常に主流社会の支配的な価値観をとおして解釈され、描かれてきた人々が直接発言すること、異なるものの見かたや価値観を尊重し、議論を活性化させることが、『オルタナティヴ・メディア』の目指すところである。

・・とまあ、そんなことがこの訳者あとがきには書かれているようだ。(はあ?)
 M・フーコーの『言葉と物』でもそうだったけど、一般に人間の翻訳者は仕事が遅過ぎる怨みがある。訳者が時代に付いて行っていないのだからそれを読む我々は更に更に時代に遅れてしまう。
構造主義が指摘したいわゆる『翻訳不能』の問題は深刻で未だ解決を見ないが、何も「他国の言語だから」と緻密な分析と照合を要請されるということではなく、同じ言語を操る者同士でも、個々の語彙の定義付けとなると個人個人でてんでんバラバラなのが我々の日常なのである。

「そうじゃないよ。私はメディアの恣意性の話をしているんだよ」
「なんだ、そうだったのか。俺はまたメディアの恣意性の話をしているのかと思ったよ」
「ばかだなあ♪」
「ぎゃはははは・・」
 と、こうなると落語のくすぐりみたいだ。

 我ら下々の者らがワサワサ・ブウブウ・ワイワイ・ガヤガヤと毎日勝手なことばかりくっちゃべって五月蝿くてかなわないから、「えいっ!」とばかりに神は我々相互に翻訳困難な諸言語をお与えになったのでアル。アーメン。ぁそ。
「チョムスキーの提唱する《生成文法》とは全ての人間の言語に普遍的な特性があるという仮説をもとにした言語学の一派である」ということだが、この挑戦は成功したとは言えない。でもコンピューター言語の生成には多大な影響を与えた。
 
かくなる上はいっそスーパー自動翻訳機の発明が待たれるってか。ぁそ。w

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cf.政府・企業とマスコミ 甘い関係~映画「チョムスキーとメディア」 2007/01/31

cf.立花隆。→公式サイト

cf.松岡正剛

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