死んでしまった愛犬の事ばかり書いていたが、
思い返せば、彼はいきなり死んで私の目の前からいなくなったわけではなかった。
死ぬ一週間前からその兆候はあったのだろうが、それに飼い主である我々が気づかなかったのだろう。
お散歩途中で歩かなくなる、食べなくなる、粗相をする、病院に連れて行く、投薬する、下痢をする…。
慌てた私は犬用おむつとトイレシートを買ってきた。
横たわったままでおしっこと下痢をするので毛が汚れて何度拭いても落ちない。
お風呂場でシャワーを掛けてみたが自力で立てなくなった犬を一人では支えられなくて諦めた。
下痢するたびに拭いて拭いて拭きまくった。
汚れた物はとりあえずトイレに段ボール箱を用意しその中に捨てていった。
自力で立てなくても頭を上げてはバタンと床に打ち付けるので痛くないようにマットや毛布を敷き詰めた。
もう病院に行って薬を打って貰おうとは考えなかった。
このまま静かに生きて行くのだと思っていた。
だけどいつまで?
私の心を読んだかのように、土曜日朝病院に電話して様子を話した後、
さ、病院行こう、と抱き上げ玄関に向かっていた時に最後のうんちをして死んだ。
それだけの時間を掛けて死んでいったのだった。
そこで愛犬の生涯が終わり、あとに残された飼い主は未だ生き続けている。
生きている限り自分に出来ることをして健康でいたい。
幸いなことに仕事では、退職する同僚二人がやっていたことを私に任せてくれるそうだ。
まだまだ頑張らないといけないのだ。
ありがたいことだ。
同僚二人は3月で職場を去る。それは寂しい。
でも残された職員達と力を合わせて新しい年度を作るのだ。
去る者は追わず、ふふと苦笑する、去った者を追う?不可能だ。
去る者は追えない。だから追わない。
だけど、去った者が残したものは大事に使わせて貰う。
それらはほぼ、形のある『物』ではなくて仕事に対する『愛情』だ。
それを私は今ひしひしと感じている。
この数年、毎日当たり前の様に浴びていた『愛情』というものを、
私はこの3月で確実に失う。
しかし、心に刻まれた『愛情』は決して消えはしない。
その『愛情』を抱いて、4月からは頑張ろうと決めたのだ。
それが今の私の生きる原動力になっている。