
四天王寺の西の鳥居入って中央伽藍を撮影。
わかりにくいかもしれませんが、五重塔側に白い幟が見えます。
なんて書いてるのかな〜

東側に回ると、番匠堂がありました。

南無阿弥陀佛の幟は番匠器あれこれだった。
番匠とは、大工さんのことで、聖徳太子が大工の始祖として祀られています。
毎年11月22日午前10時より「番匠堂曲尺太子 奉賛法要」が厳修されます。

西暦578年、聖徳太子の命を受けて3人の工匠が百済より招かれ、日本最初の官寺となる四天王寺の建立を命じられた。
3名のうちのひとりが世界最古の会社・金剛組創業者である金剛重光。
四天王寺完成後、他の2名が大和と山城にそれぞれ配置されたのに対し、金剛重光は「これからも四天王寺をお守りせよ」と命じられそのまま四天王寺に残り、以降、金剛家の当主は代々、四天王寺を護る大工の称号「正大工職」という役目を与えられている。
こうして、大工・建築技術の向上、工事の無事安全を願う建築に携わる人たちの間で聖徳太子がお祀りされるようになりました。
1436年続いた秘訣は“多神教”と“普遍性”
金剛組取締役社長 刀根健一氏によれば
「国内で1000年以上続く長寿企業の共通点は大きく2つあるという。
ひとつは、神社や寺の奉納に携わる仕事であること。
聖徳太子が沐浴されていたと言い伝えられている六角堂北面の池に花を供えていたことが始まりの池坊華道会、
京佛具の本流を受け継いで千年余りの年月を刻む田中伊雅佛具店、
今宮神社脇の休み処である一文字和助など、
「神仏に仕える」という精神が先にあるため、「儲けすぎない」「手を抜かない」という心構えが根強く残っている。
また、日本は多神教国であったため、共存共栄により信仰心が高まり、穏やかな国民性・民度の高さにつながったという。
もうひとつは、昔から変わらないことを、ずっとやり続ける普遍性だ。
1000年企業の稼業である、華道、仏壇、和菓子、温泉などは、時が経ても変わらない、昔ながらの手法を守り続けている。
金剛組が行う社寺建築の様式も、和洋・大仏様・禅宗様・折衷様の4パターンで、その時々の時代背景により変化してきているが、軒の反りや曲線、彫刻などの伝統美は変わっていない。
「イノベーションを行わないことには、企業は生き残れない」とさかんに言われる一方で、世界でも類を見ない1000年企業の多くが、確かな手法を伝統的に守り続けていることを思うと、なんとも感慨深いものだ。」
★11/14追記
この番匠器で書かれた文字を見たときにすぐに思いだしました。

なぜか気になる紋様 蘇利古
2016-09-25 に以下のように記しました。
四天王寺の蘇利古(そりこ)は、聖徳太子の命日(旧暦2月22日)に合わせて行われる聖霊会の舞楽法要において、最初に行われる舞楽。
「垂仁天皇のときに百済からの帰化人で須々許理(すすこり)という人が、この舞を伝えたという。
右方平舞(へいぶ)装束の諸肩袒(もろかたぬぎ)の姿で、長方形の布に人面の抽象図をかいたといわれる「雑面」(ぞうめん)を顔につけているのが特徴。
手に持っている棒を「白楚」(ずばえ・ずわい)という。
この舞が五人で舞われるのは四天王寺独特のもの。
4月22日(※旧暦2月22日の聖徳太子の命日)四天王寺で行われる「聖霊会」雅楽法要でこの「蘇利古」が舞われる。
蘇利古は四天王寺の聖霊会舞楽法要の最初の舞楽として欠くことができない。
この舞が舞台で舞われている間に、堂内では宮殿(くうでん)に安置されている聖徳太子の御影の帳(とばり)を上げる「御上帳」(みじょうちょう)の儀式と御水を捧げる「御上水」(みちょうず)の秘儀が行われる。
一説には太子のお目覚めを慰めるための供養舞であるとも伝える。
聖霊会の儀式進行上、省くことのできない、天王寺独特の舞楽の一つである。」
なんでこの紋様が、唐突に昨夜私にもたらされたんだろう。
何のメッセージなのか見当もつかないけど、どなたかわかる方おられるかもと、早々に記録残します。
何か関係あるのかもしれない。
その後さらに検索を重ねたら、
須々許理は、垂仁天皇のときに百済からの帰化人ではなくて、応神天皇の時代の話でした。
和邇吉師は文首(フミノオビト)等の祖。
また手人(テヒト)韓鍛(カラカヌチ)名は卓素(タクソ)、
また呉服(クレハトリ)の西素(サイソ)二人を貢上り、
また秦造(ハタノミヤツコ)の祖、漢直(アヤノアタヒ)の祖、
また酒を醸むことを知れる人、名は仁番(ニホ)亦の名は須須許理(ススコリ)等参渡り来つ。
「多神教が穏やかな国民性をつちかった」という点も納得できます。亡くなった母は、何にでも神様がいると信じて、いろんなものを大事にしていました。
また会社には社訓なり信条信念がありますよね。でそれは経験(失敗経験をはたで見ていたとしても感じれば得られる)して生まれトップがそう実感しないと文化として継承されないはず。素敵な会社ですね。トネさんと読んでいいのか?分かりませんが名字もとても好きな一族っぽく感じちゃいました。一族継承でなくてもその気質はおそらくいいトップがしっかりした組織であれば同じような素質を持つ人がちゃんと後継できるんではないかな?と。
今子供のテスト勉強で聖徳太子の時代やっていたんですけど、和があり、個人の努力を評価していた時代から素材へのレベルアップをしてそして律令制になり組織への視点にうつりますね。その中に律があり、きちんとした目があったら聖徳太子の精神は続いていただろうなあと。惜しい時代です。また難波宮から大津宮へ移動し、その後に藤原宮までの間に教科書に宮がない空白の古代があるんですよね?びっくりしました。ここも関係してきそうな予感です。あと租庸調の流れでも調は各地の特産物や絹を納めたようだとかあるので宮はそうした物産のお披露目の地であったいうような説明もあったんです。写真の木簡等でも各地から来てますね。とすると長屋王の邸宅が怪しいですよね、木簡出てきてますし、平城京の南。
そして海の付く寺昔からあり外して宮開発されたと思うと、鬼門とも考えられる立地です。ミニの五重塔もあったはずで、造りがどうだったか?精巧だったんだっけ?それとも簡素な物だったけ?(建築前の模型と考えても気になりますね)
聖徳太子の周りにいらっしゃる民族は、日本の根源でもあると評価したいですよね。心が素敵。
腹八分、必要最低限(職人の賃金やコスト)の把握もしっかり出来ていたからこそそれが出来るはず。どんぶり勘定だととにかく得られるだけ儲けないといけないはずなので。
そういう意味でも材料調達、道具の消耗、人の体力維持の時間、そして技術の向上(今でいう開発費)の全てに関わりそれをバランス良く多めにしなくても妥当な金額や時間と労力を把握出来ていた方々がいたのは金剛組さんからも理解できますね。
奈良時代の次に神社仏閣の治しで鎌倉は結構ずさんというか手抜きというか削る今年もあったようで当時の復元になっていないようだと講演会で聞いた事あります。その時代を乗り越えるためには信念社訓以外にはないでしょう。素晴らしいですね。
仏閣の屋根も中学くらいに修学旅行前に調べた気もするんですけど今は全く知識は飛んでしまってます。ただ、横方向の木が少なくなったとか聞いたんですけど部位の場所が分からないのですけど木造建築の何かが減ってるような時期もあるはず。それをコスト意識や無駄と節約を進める悪魔の囁きに屈しないというのは見習いたいですね。一人では難しい部分もあるのでこういう面は組織の良さとも思えます。最近組織なんて骨抜き状態が多い中、理想の組織も発見出来ましたね。
ありがとうございました。11/22いい日になるといいですね。22日は聖徳太子の関係の場所に行ったりしてました。けど、いい夫婦の日なので稲田姫好きだったんで婿入りスサノオさんの日的に11月22日についてはお二人の場所へ思ってましたけど、スサノオの解釈を変化していかないといけないなあと。百済のイメージはなかったですから。百済は東北だとも思ってたんで栄螺堂の技術はどっちが近いかでもゆっくり探してみたいですね。9975、6419
たまたま、南無阿弥陀仏の字体とか検索してて見つけたページでした。
六角堂の池坊華道会も、今宮神社門前の一文字和助もこのブログで記事にしたことあります。
わぁ~そうだったんだと意を強くした限りです。
私も、何にでも神様がいると信じています。
その不思議な文様に心惹かれたのでした。
>なんでこの紋様が、唐突に昨夜私にもたらされたんだろう。
何のメッセージなのか見当もつかないけど、どなたかわかる方おられるかもと、早々に記録残します。
http://blog.goo.ne.jp/goo3820/e/2fee7c97997262881cb5c40c238abe68
あれから一年が過ぎて、
「蘇利古は四天王寺の聖霊会舞楽法要の最初の舞楽として欠くことができない。… 一説には太子のお目覚めを慰めるための供養舞であるとも伝える。
聖霊会の儀式進行上、省くことのできない、天王寺独特の舞楽の一つである。」
この意味ちょっとはわかりなさいよと投げかけられたメッセージだったのかも。
本当いつもヒント貰ってるのに遅いんですよね、気付くのが。布垂らす巫覡が今とっても気になってます。男性舞いだと興味深いんですけどね。
聖徳太子の慰霊なのですね。妹子じゃないのかなあ?妹子の息子かあ。毛人だっけなあ?
11/22の日昨日どっか行ったっけ?聖徳太子にも稲田姫にも会いに行けず、現世のしがらみのお仕事してたんでした。うっかりもったいない1日過ごしていたみたいです。
布地の意味も気になりますし、旗としたら八枚で八幡ですね。新嘗祭やっていたか?確認できなかったのですが八幡にはいってきました。
そうそう、お相撲やってるかな?観ないと。9496
広隆寺の太子堂について最後にまとめた記事が
https://blog.goo.ne.jp/goo3820/e/bbab0a3041bf9cab0b2c4d116ea1e1fa
北区にある今宮神社門前のあぶり餅、御所といい広隆寺繋がりでした。
気になって追っかけてましたが、再訪できずあっという間の一年でした。
平安遷都からの結界がいよいよかと思って、昨日京都巡ったのでした。