野田内閣13年度以内大飯原発再稼働は浜岡原発停止と二重基準となる地震・津波を想定外とした判断

2012-04-10 09:57:39 | Weblog

 原子力安全・保安院が関西電力提出の大飯原発3号機・4号機再稼働に向けた安全対策に関する工程表を妥当と判断、4月9日(2012年)開催の関係閣僚会議に報告。

 4月9日夜の4回目の関係閣僚会議は保安院報告の関西電力提出安全対策工程表を政府の新たな安全基準におおむね適合していると安全性を確認。

 安全性確認の次のステップは野田政権による再稼働に向けたゴーサインと思いきや、議論継続の宣言と相なった。

 《安全基準におおむね適合と判断》NHK NEWS WEB/2012年4月9日 22時38分)

 枝野詭弁家「原子力安全・保安院が求めている内容に沿っており、安全対策を時期も併せて具体的に明らかにし、事業者みずから取り組む姿勢が明確になっていると確認した。大飯原発の3号機と4号機については、安全基準に照らしておおむね適合していると判断した。

 ただし、重要なことなので見落としがないかどうか、さらに議論を行う」

 関西電力の姿勢を一方では評価し、その一方で再稼働に慎重な態度を見せている。

 保安院が工程表の妥当性を認め、関係閣僚会議がおおむね適合と安全性を確認する二重のチェックを行いながらである。

 安全性を無視した電力確保のための再稼働ありきの政治判断だとか、安全対策の不足を指摘する声を否定・払拭するカモフラージュとしての慎重姿勢、改めての「納得できるか(どうかの)精査」の疑い、詭弁の可能性は捨て難い。

 このことは記事が伝える次の発言が証明してくれる。

 枝野詭弁家「関西電力では、原発の運転再開がなければ、20%程度の電力不足となる見通しとなっている。さらに発電能力の積み上げができないか、その結果を待って原発の運転再開の必要性を判断したい」

 20%程度の電力不足を十分に補う発電能力の積み上げが解決可能なら、産業界に身を置く経団連会長が再稼働ない場合の電力不足を言い、電力の安定供給を言って原発再稼働を求めたりしないだろう。

 枝野詭弁家が言っていることは名は体を表すの詭弁を言っているに過ぎないということである。

 政府に求められていることは電力不足が生じたとしても、あくまでもそのことを除外した安全性の確認に基本的姿勢を置くことであろう。

 だが、枝野は電力不足をも安全性確認の基準に加えている。

 さらに次の記事を読むと、地震・津波を想定外とした保安院の関西電力提出安全対策工程表の妥当性認知であり、野田政権の安全性確認としか受け取ることができない。

 《関電の工程表 “妥当性”報告へ》NHK NEWS WEB/2012年4月9日 18時57分)

 保安院が関西電力提出の工程表を妥当だと認めたことを伝える記事である。

 森山善範原子力安全・保安院原子力災害対策監(4月9日夕記者会見)「すでに緊急安全対策やストレステストの1次評価で評価を終えている対策を確認する作業には時間はかからず対応できる。

 (事故対応拠点となる免震事務棟の3年後運用等、未整備対策について)より一層の安全を高めることは大切だが、緊急安全対策やストレステストの1次評価を踏まえた対策をしていれば福島第一原発事故のような地震や津波が来ても事故を防ぐ一定の対策ができていると理解している」

 現時点での対策で福島第一原発事故クラスの地震・津波が襲っても大丈夫だと太鼓判を押している。

 記事は次に未整備の対策を取り上げている。安全対策91項目中、37項目は未整備だとしている。

 既に触れた「免震事務棟」について。

 1年前倒しして3年後2015年度運用。

 ▽会議室の人員容量は最大で50人程度。十分なスペースがあるとは言えないとの指摘。
 ▽深刻な事故発生の場合、原子炉に近い場所にあり、放射線の影響を受けずに長期間に及ぶ事故
  対応が可能かどうか疑問視する指摘。

 「緊急時に格納容器の圧力を下げるベント設備」について。の未設置

 ▽外部への放射性物質放出抑制フィルター装着のベント設備は3年後の20105年度設置。

 「防波堤」について。

 ▽かさ上げは来年度末(2013年度末)までに完了。

 完了54項目の主なところ。

 ▽外部電源を維持するための送電線鉄塔の耐震性向上。
 ▽原子炉を冷やす冷却水の供給ラインに速やかに海水を注入するための専用の接続口設置。
 ▽非常時の通信手段として衛星電話等の配備。

 記事解説。〈しかし、今の時点で実施されていない対策の中には、深刻な事故が起きた場合に被害の拡大を食い止めるための重要な対策が多く含まれていて、こうした対策が行われていない中で原発の運転を再開する安全性を確保したと言えるのか、政府や電力会社には合理的な説明が求められています。〉――

 勝田忠広明大准教授「事故のときに指令を出す一番重要な免震棟が先延ばしにされているうえ、フィルターが付いたベントの設備も、福島第一原発の事故で教訓になったが先延ばしされている。本当に事故が起きたときに、福島の事故から学んだ対策が取れるのか疑問を覚える。

 免震棟などの設備を最低限確保し、その技術を使いこなせる訓練を終えて、そのうえで防災対策をどうするかを決めてから『大丈夫』となったら運転再開を判断で、政府が指示を出してから関西電力が工程表を出すまであまりにも短すぎて不安だ。政治家が集まって急に短期間で判断した印象で、論理的に不透明な状態で判断を下すのはよくない」

 要するに防波堤の嵩上げが完了する2013年度末以内に地震が発生し、津波が襲来した場合、福島第1原発事故の二の舞の危険性は否定できないということである。

 このことを裏返すと、嵩上げ完了以前の再稼働ゴーサインは地震・津波を想定外とした判断ということになる。

 大飯原発のある若狭湾には歴史的に大きな津波被害はないが定説となっていたが、次の記事がその定説を覆す内容となっている。

 《“原発銀座”若狭湾に大津波の恐れ、関大教授が指摘》YOMIURI ONLINE/2011年7月27日)

 2011年7月26日開催の内閣府原子力委員会の会合での河田恵昭・関西大教授の指摘。

 ▽1586年の天正大地震で若狭湾沿岸が津波に襲われ多数の死者が出た。
 ▽100~150年周期で発生する南海地震では、津波が山口県の日本海沿岸に到達することがある。

 河田恵昭・関西大教授、「最悪のシナリオを考え津波対策に万全を期す必要がある」

 地震・津波を想定外とすることによって、「免震事務棟」2015年度運用を待たずに再稼働を許可することができるということであり、また同じく外部への放射性物質放出抑制フィルター装着ベント設備の20105年度設置を待たずに許可できるということであり、このことは防波堤嵩上げについても言うことができるということである。

 だが、以上の安全対策未整備のままの再稼働許可は仮免許のまま終わった菅仮免許首相の浜岡原発停止要請と二重基準をなすことになる。

 2011年5月6日の記者会見で次のように発言した。

 菅仮免許首相「文部科学省の地震調査研究推進本部の評価によれば、これから30年以内にマグニチュード8程度の想定東海地震が発生する可能性は87%と極めて切迫をしております。こうした浜岡原子力発電所の置かれた特別な状況を考慮するならば、想定される東海地震に十分耐えられるよう、防潮堤の設置など、中長期の対策を確実に実施することが必要です。国民の安全と安心を守るためには、こうした中長期対策が完成するまでの間、現在、定期検査中で停止中の3号機のみならず、運転中のものも含めて、すべての原子炉の運転を停止すべきと私は判断をいたしました。」

 30年以内の87%地震・津波発生の想定に対して直ちに発生する想定の危機管理のもと、即座に原発停止を要請した。いつ起こるか分からないとう危機感からの一大決意に基づいた措置であろう

 当然、大飯原発に対しても1586年の天正大地震クラスの地震・津波がいつ発生するかわからないという同じ基準の危機管理で臨まなければ、ダブルスタンダードを侵すことになる。

 侵した場合、安全性よりも電力確保のための再稼働ありきの政治判断だと見做されても否定はできまい。

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野田首相、消費税増税経済活性化論の無責任な後退

2012-04-09 08:02:58 | Weblog

 4月7日(2012年)午後5時半からのTBS「報道特集」が消費税増税に理解を求める政府の対話集会への野田首相の初めての出席を取り上げていた。場所は兵庫県西宮市。時間は4月7日午後。

 初めての出席であろうと、100回目の出席であろうと、言っていることは普段の発言とたいして変わらない。

 冒頭の挨拶なのだろう。

 野田首相「公平感を維持するにはどうしたらいいか。基幹税で言うと、やっぱり消費税ではないのか・・・・」

 質疑――

 見た目20代後半の若者「本当に増税することで、日本に希望は芽生えるのでしょうかと思って――」

 野田首相将来の不安をなくすということがあれば、消費を喚起して経済を活性化するという、議論もあります。

 そこは、あの、大いにこれから議論していかなければいけないテーマかと思います

 聞いていて、あれっと思った。
 
 「議論もあります」と言い、「大いにこれから議論していかなければいけないテーマ」だと言っている。

 “~という議論がある”という言い方はその議論に対して第三者的立場、あるいは部外者の立場に立っていることを示す物言いであって、自身の意見や主張が主導している議論ではないという意味であろう。

 もしも自身の意見や主張が主導している議論であるなら、「消費を喚起して経済を活性化するという、議論を我々は行なっています」と言ったはずだ。

 自身の意見や主張が主導している議論ではなく、第三者主導の議論ではあるが、消費税増税の経済的効果の一つとして、「大いにこれから議論していかなければいけないテーマ」ではないかとした。

 いわば現在のところ、消費喚起と経済活性化の効用を認める野田首相自身の意見や主張とはなっていないことを示している。

 以上の発言からは消費税増税効果としての経済活性化に対する積極的な確約を感じることはできない。どことなく他人事の扱いとしている印象さえ受ける。

 大体が消費税増税率と増税時期を決めておいてから、「大いにこれから議論していかなければいけないテーマ」だと言うのは無責任に過ぎる。

 消費喚起とその先の経済性化を確約してから、消費税増税を言うのが責任ある態度であろう。

 しかしこの「将来の不安をなくすということがあれば、消費を喚起して経済を活性化するという、議論もあります」は従来の発言と明らかに後退している。

 3月16日(2012年)午前の参院予算委員会集中審議では次のように発言している。

 野田首相「消費税の経済への影響でありますが、勿論、影響がないようにするためのポリシィミックスというか、いろいろな政策は講じなければいけません。

 そのことは与野党協議の中でじっくりと議論させていただきたいというふうに思いますが、一方で、あの、先程我が党の議員との遣り取りにもありましたけれども、将来に対する不安をなくしていくことによって消費や経済を活性化という要素もあるんで、その辺は経済への影響は総合的に勘案しなければいけないというふうに思います」

 ここでの「要素もある」は自らの主張に立った効果的な側面性への指摘であるはずである。

 「消費税増税の経済への影響は消費や経済を活性化という効果的な側面性を有しています」の、自らの主張に基づいた確約であろう。

 自身の主張としたその確約が、「消費を喚起して経済を活性化するという、議論もあります」と、自身の主張から外して、第三者の「議論」へと格下げる後退を見せた。

 消費喚起と経済活性化の確約に自信を喪失したのだろうか。

 だとしても、これまで確約してきたことの後退の無責任にしても問わなければならない。

 8月29日(2011年)民主党両院議員総会民主党代表選での演説。

 野田候補「私は大好きな言葉。相田みつをさんの言葉に、『どじょうが金魚のまねをしても、しょうがねえじゃん』という言葉があります。ルックスはこのとおりです。私が仮に総理になっても、支持率はすぐ上がらないと思います。だから、解散はしません。(笑いが起こる)

 どじょうはどじょうの持ち味があります。金魚の真似をしてもいけません。赤いベベをした金魚にはなれません。(一段と声を挙げて)どじょうですが、泥臭く国民のために汗をかいて働いて、政治を前進させる。円高、デフレ、財政改革、様々な課題があります。重たい困難です。重たい困難でありますが。私はそれを背負(しょ)って立ち、この国の政治を全身全霊で傾けて、前進させる覚悟であります。

 どじょうかもしれません、(声を振り絞る具合に)どじょうの政治をトコトンやり抜いていきたいと思います。みなさんのお力の結集を、私、野田佳彦に賜りますように、政治生命を賭けて、命をかけて、みな様にお願いを申し上げます。有難うございました」(一礼)

 “愚直及び誠実”宣言である。無責任とは相反する価値観である。だが、現実の政治では無責任を演じている。

 野田首相就任演説。2011年9月2日。

 野田首相「(内閣の)キャッチフレーズ、スローガン、これは私あえて言いません。自分も選挙やってると自分の勝手なスローガンやるんです。浸透するとは思いません。歴代の内閣もいろんな事をキャッチフレーズ作りました。そのままそうだったかというと、決してそうじゃないですよね。あえてそういうことは言いません。ましてドジョウだナマズだという話はしません。これは我々が黙々と仕事をした中で、泥くさく仕事をした中で、政治を前進させた中で、国民の皆さんがどういう評価をするか、そこから出てくる言葉が本物だと思いますので、これはむしろ国民の皆様にいずれ名付けていただくような内閣という位置付けにしたいと思います」――

 「我々が黙々と仕事をした中で、泥くさく仕事をした中で、政治を前進させた中で、国民の皆さんがどういう評価をするか、そこから出てくる言葉が本物だと思います」

 この発言も“愚直及び誠実”宣言となっている。あらゆる無責任を拒絶して、“愚直及び誠実”を成り立ち可能とすることができる。

 どうも有言不実行の無責任を演じているようだ。

 当然、具体的な全体像を描き切れていないことを指摘するまでもなく、信用できない「社会保障と税の一体改革」ということになる。

2012年3月24日――《野田首相の人口減少社会を基盤とした国のカタチの是非 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》 

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管仮免が東京を救ったとする最大評価は東電全面撤退はあり得ない自明の理の否定によって成り立つ

2012-04-08 13:24:51 | Weblog

 2012年4月3日付の「WEBRONZA」――《菅首相は本当に東京を救ったのか【第3弾】》に次のような記述がある。

 〈原発事故対応が混乱したのは菅首相の過剰介入のせいだ、という論調がマスコミに溢れたとき、WEBRONZAは「東京を救ったのは菅首相の判断ではないのか」(竹内敬二)という論考を載せ、多くのアクセスを集めた。

 議論のきっかけは、福島原発事故独立検証委員会(民間事故調)が発表した報告書である。これには官邸(菅首相)の現場介入について「(3月)15日の撤退拒否と対策統合本部設置及び…略…については、一定の効果があったものと評価される」という一文がある。だが、その民間事故調の判断に対しても異論はありうる。果たして菅首相の言動は、混乱を止めたのか、加速したのか。〉――

 それに対して何人かの識者が意見を述べているが、冒頭部分の記載に続いて「続きを読む」をクリックすると、走りの箇所は読めるが、再度「続きを読む」となって、それをクリックすると、有料の会員登録。貧乏人の私はそこまで。

 同じく「続きを読む」の先は読むことはできないが、朝日新聞編集委員だとかの小此木潔が、《福島原発「悪魔のシナリオ」回避で菅直人氏の役割を検証・再評価すべきだ》WEBRONZA/2012年04月03日)で、題名からして肯定的に把えている。

 いわば数少ないはずの管の味方だというわけである。

 冒頭、次のように主張している。

 〈福島第一原発事故に際して菅直人・前首相の過剰なまでの「現場介入」や官邸におけるリーダーシップのありようが問題にされてきた。私も正直なところ、菅氏の思考や行動にはどこか「受け狙い」や細部へのこだわりで全体を見失う傾向があるとの印象を抱き続けてきた。

 しかしながら、もし菅氏が原発事故の処理にあたって、東京電力・清水正孝社長(当時)の「撤退」あるいは「退避」の申し入れに激怒して東電本社に乗り込むなど大きな圧力をかけたことが刺激や力となって東電が現場でのギリギリの努力を継続・強化させた結果、首都圏の人びとを含む「三千万人」が避難するような事態を回避するのに役立ったとしたら、菅氏の役割はもっときちんと検証・再評価されるべきではないだろうか。〉

 そして東電側から、東電側は否定しているが、撤退の申し入れがあり、対して菅仮免許が清水東電社長を首相官邸に呼びつけて、菅自身から撤退はあり得ないことを伝えたこと、さらに東電本店に乗り込んで撤退を思いとどまらせたこと等の経緯に触れた上で、東電側の全面撤退否定のリリースを掲載し、〈どちらかがウソを言っているのか。それとも、〉となっていて、「…‥続きを読む」となっている。

 但し、菅仮免許の役割を検証・再評価すべきの立場からの「どちらがウソ」なのだから、どちらに肩入れしているか考えずとも分かる。

 無料文章中に記述の、朝日新聞連載「プロメテウスの罠」の中の「官邸の5日間」を基に引用した各発言と東電のリリースを参考のため掲載しておく。

 3月14日深夜の海江田氏が記憶する清水社長の電話。

 清水東電社長「(福島)第1原発の作業員を第2原発に退避させたい。なんとかなりませんか」

 小此木編集委員は、〈2号機の燃料棒が全部露出して圧力容器が「空だき」状態になったあとのことだ。〉と解説している。

 枝野官房長官(吉田第1原発所長に)「まだやれますね」

 吉田所長「やります。頑張ります」

 枝野は電話を切っていから、呟く。

 枝野「本店のほうは何を撤退だなんて言ってんだ。現場と意思疎通ができていないじゃないか」

 私自身は詭弁家枝野を頭から信用していない。大体が、「まだやれますね」と言うこと自体が間違っている。防護服を何重にも纏ってでも、終息に向けてやり通さなければなりませんと言うべきだったろう。放射能漏出を制御が全く効かない状態に悪化させ、そのまま放置するわけにはいかないことは誰の目にも明らかだからだ。

 東京どころか、日本中の国民が海外へ逃避しなければならなくなる。

 枝野ら、関係閣僚(菅仮免許に報告)「東京電力が原発事故現場から撤退したいと言っています」

 菅仮免許「撤退したらどうなるか分かってんのか。そんなのあり得ないだろ」

 常にこんな乱暴な口使いをしていたのだろうか。品位あるリーダーなら、「撤退したら、どうなるか分かっているのだろうか。そんなのあり得ないはずだ」等の言葉遣いをしたはずだ。

 清水社長を15日午前4時17分、官邸に呼ぶ。

 菅仮免許「撤退などありえませんから」

 菅仮免の発言に対して、清水社長がどう答えたのか、肝心の反応が抜けている。

 そして東電に乗り込んだシーン。 

 菅仮免許「皆さんは当事者です。命をかけてください。撤退はありえない。撤退したら、東電は必ずつぶれる」

 撤退があるとしたなら、原子炉自体が爆発等の最悪の状況に至った場面である。それを放置して撤退する。東電が潰れるとか潰れないとかいった問題ではない。高濃度の放射能拡散が日本全国覆う最悪ケースが現実のものとなり得る恐れさえ生じる。東電の倒産を超えて日本全国の企業の倒産のみならず、全国民の生命・財産に直接的に関わってくる。

 それを視野狭く、東電だけを問題としている。

 東電リリース「東京電力が福島第一原子力発電所から全員を退避させようとしていたのではないかと、メディアで広く報道されていますが、そのような事実はありません。

 昨年3月15日6時30分頃、社長が『最低限の人員を除き、退避すること』と指示を出し、発電所長が『必要な人員は班長が指名すること』を指示し、作業に直接関わりのない協力企業作業員及び当社社員(約650名)が一時的に安全な場所へ移動を開始し、復旧作業は残った人員(約70名)で継続することとしたものです。

 東京電力が官邸に申し上げた主旨は『プラントが厳しい状況であるため、作業に直接関係のない社員を一時的に退避させることについて、いずれ必要となるため検討したい』というものです。3月15日4時30分頃に社長の清水が官邸に呼ばれ、菅総理から撤退するつもりかと問われましたが、清水は撤退を考えていない旨回答しており、菅総理もその主旨で4月18日、4月25日、5月2日の参議院予算委員会で答弁されています。

 清水も4月13日の記者会見において『全面撤退を考えていたということは事実ではない』と申し上げています」――

 東電の全面撤退申し入れが事実だとしたら、原子炉自体が爆発等の事態に至らない限り全面撤退があり得ないことを自明の理としなければならないのだから、なぜ菅仮免は清水社長を首相官邸に呼びつけたとき、一国のリーダーとして、原子力災害対策本部長として、撤退問題に決着をつけるリーダーとしての能力を発揮することができなかったのだろうか。

 決着をつけることができずに、1時間後、東電本店に乗り込んでいる。

 この矛盾は閣僚に対して告げた「撤退したらどうなるか分かってんのか。そんなのあり得ないだろ」云々の発言とも矛盾していて、双方の矛盾は相互対象をなしているはずだ。

 また、原子力災害が発生した場合に原子力災害現地対策本部が設置される各原発近くの緊急事態応急対策拠点施設(オフサイトセンター)を中継地点として首相官邸、原子力事業者施設(福島原発事故の場合は東電本店)と原発現場がテレビ会議システムでつながっていて、情報共有できる体制となっていた上に、菅仮免は2010年10月20日と21日の2日間、首相を政府原子力災害対策本部会議本部長とした、静岡県の中部電力浜岡原発緊急事態想定の原子力災害対策特別措置法に基づいた「平成22年度原子力総合防災訓練」を実施し、テレビ会議システムを訓練で使用している。

 福島原発のオフサイトセンターの活動は地震と放射能の影響で3月12日3時20分から3月15日の3日間に限られた。

 東電が全面撤退を申し出たとする動きを時系列で見てみる。

 2011年3月15日午前3時頃――菅、海江田経産相から、東電が全面撤退の意向を示していることを伝えられる。
 2011年3月15日午前4時過ぎ――菅、清水東電社長を官邸に呼ぶ。
 2011年3月15日午前5時半過ぎ――東京・内幸町の東電本店に乗り込み、「撤退なんてあり得ない!」と怒鳴ったとされる。

 少なくとも3月15日午前5時半過ぎに東京・内幸町の東電本店に乗り込まずとも、テレビ会議システムを通じて東電本店と情報共有を図ることができたはずだ。

 例えテレビ会議システムの立ち上げに時間を要したためにオフサイトセンターとの間でテレビ会議システムが機能しなかったとしても、3月11日午後4時36分、首相官邸に東電福島第1原発事故対策本部を設置した段階で、数時間で済むテレビ会議システムの東電本店と首相官邸間を直接結ぶ設置を思いついて情報共有を図っていたなら、東電の全面撤退の申し入れが具体的にどのようなものか確認できたはずだし、それに対しての説得もより有効に処理できたはずだ。

 最悪、3月11日午後7時03分の第1回原子力災害対策本部を首相官邸に設置した段階でテレビ会議システムを東電本店との間に機能できるように準備を完了していたなら、わざわざ清水社長を首相官邸に呼びつける必要もなかったし、東電本店に乗り込む必要も生じなかったはずだ。

 やるべきことをやらずに、やっていたなら必要としない行動をわざわざ必要にしてつくり出している。

 何れにしても誰が首相であっても、あるいは首相でなくても全面撤退があり得ないことは自明の理であって、にも関わらず、小此木氏の菅仮免許に対する検証・再評価の根拠は東電の撤退を思いとどまらせた結果、〈首都圏の人びとを含む「三千万人」が避難するような事態を回避するのに役立った〉とする点に置いて、結果的に誰もが自明の理としていなければならないことを当事者たる東電が自明の理としていなかったこととしている。

 もし東電の現場の人間が何が何でも全面撤退すると言い出したなら、原発に知識を持つ有志を集めて自衛隊の支援のもと、原子炉の抑制に立ち向かうチームを立ち上げ、実行に移す役目を担わなければならないし、その備えは頭の中に入れていて、自明の理を埋め合わせ、維持しなければならなかったはずだ。

 もし有志が集まらなければ、吉田福島第一原発所長を始めとした東電の現場作業員を軍隊に於ける敵前逃亡、あるいは戦闘放棄と同様に看做して逮捕、自衛隊員が銃を突きつけて強制的に作業に当たらせるしか方法はなかったろう。

 全面撤退とはそれ程にも緊急事態であり、それ故にこそ、あり得ないことを自明の理としなければならない。

 いわば無人とする選択肢はゼロだということである。誰かが代わらなければならないし、誰かに代えなければならなかった。

 菅仮免許はこの認識を当たり前のこととしていなければならなかったのだから、やはり清水社長を首相官邸に呼びつけとき、全面撤退申し出が事実なら、その時点で思いとどまることを納得させ、全面撤退はあり得ないことを自明の理と認識させなければならなかった。

 小此木氏の上記記事は菅仮免許の「撤退などありえませんから」の発言に対する清水社長の返答が記載されていなかったが、《菅前首相インタビュー要旨》時事ドットコム/2011/09/17-19:58)は触れている。

 記者「東電は『撤退したい』と言ってきたのか」

 菅前首相「経産相のところに清水正孝社長(当時)が言ってきたと聞いている。経産相が3月15日の午前3時ごろに「東電が現場から撤退したいという話があります』と伝えに来たので、『とんでもない話だ』と思ったから社長を官邸に呼んで、直接聞いた。

 社長は否定も肯定もしなかった。これでは心配だと思って、政府と東電の統合対策本部をつくり、情報が最も集中し、生の状況が最も早く分かる東電本店に(本部を)置き、経産相、細野豪志首相補佐官(当時)に常駐してもらうことにした。それ以降は情報が非常にスムーズに流れるようになったと思う」

 全面撤退があり得ないことは自明の理でありながら、撤退撤回要請に対して、「社長は否定も肯定もしなかった」反応しか得ることができなかった。

 あるいは「否定も肯定もしなかった」ままの状態で許した。

 この指導力のなさは一国の首相であることとまさに逆説をなしている。

 果たして東電は全面撤退があり得ないことを自明の理としていなかったのだろうか。

 一つ不思議なことがある。3月21日(2011年)午後、東日本大震災緊急災害対策本部と原子力災害対策本部合同会議での菅仮免発言である。《首相“危機脱する光明が見える”》NHK/2011年3月21日 17時42分)

 菅仮免許「関係者の命がけの努力で、少しずつ状況は前進している。まだ危機的状況を脱したというところまではいっていないが、脱する光明が見えてきた。

 なんとしても、これ以上の被害を出さないよう、最後の最後まで歯を食いしばってでも、対応を緩めないで頑張っていきたい。関係者の皆さんには大きな力を貸していただきたい

 未曽有の地震災害を越えたときに、より元気で安心できる日本になっていたという夢を持てる復興計画をしっかりと考えていきたい」

 危機的状況を「脱する光明が見えてきた」と言い、そのことの証明として、「なんとしても、これ以上の被害を出さないよう」にと、「これ以上の被害」が出ない予測を立てることができる段階にまできたことを伝えている。

 だからこそ、「より元気で安心できる日本になっていたという夢を持てる復興計画をしっかりと考えていきたい」と、復興への思いを馳せる発言へとつながったのだろう。

 3月21日の時点で危機的状況を「脱する光明が見えてきた」と発言していたにも関わらず、この発言の翌日の3月22日、菅仮免は近藤原子力委員会委員長に最悪事態想定のシナリオ作成を要請し、3日後の3月25日に報告を受けた。

 この矛盾はどう説明したらいいのだろうか。万が一の最悪の事態を想定する危機管理、いわば頭の体操として要請したのだろうか。

 だとしても、3月21日の時点での原子炉自体の現実は着実に危機からの脱出に向かって進んでいた。

 実力のない人間が自身の評価を高めるためによくやることだが、事態を実際よりも最悪方向に大きく見せかけることでその解決に払った自身の大したことのない働きもを実際より大きく見せかけようとする作為を意図していたとするなら、東電側が全面撤退があり得ないことを自明の理としていなかったとしていることも納得がいくし、首相官邸での撤退撤回要請に清水社長が、そういった態度を取ることはあり得ないにも関わらず、「否定も肯定もしなかった」態度を取ったとしていることも納得がいく。

 また、3月21日の時点で危機的状況を「脱する光明が見えてきた」と発言していたにも関わらず、翌3月22日に「最悪シナリオ」の作成を要請したことも納得がいく。

 あり得るはずもないし、許すこともできないことが自明の理である東電の全面撤退をあり得たことと仮定して、これだけの最悪の事態となると被害を拡大想定し、その拡大想定に比例させてその解決に挑戦した自身の働きをも大きく見せかけ、評価を高める。

 このことは次のインタビュウー発言に見ることができる。《菅前首相インタビュー要旨》時事ドットコム/2011/09/17-19:58)

 記者「3月16日に『東日本がつぶれる』と発言したと伝えられた。」

 菅仮免「そんなことは言っていない。最悪のことから考え、シミュレーションはした。(東電が)撤退して六つの原子炉と七つの核燃料プールがそのまま放置されたら放射能が放出され、200キロも300キロも広がる。いろいろなことをいろいろな人に調べさせた。全て十分だったとは思わない。正解もない。初めから避難区域を500キロにすれば、5000万人くらいが逃げなければならない。高齢者の施設、病院もあり、それも含めて考えれば、当時の判断として適切だと思う

 全てはあり得ないを自明の理としなければならない東電全面撤退をあり得た自明の理として、それを阻止したことを自己評価としている。

 そしてこの一点の評価を以って、「当時の判断として適切だと思う」と、大勢を占めている他の不評価の数々を無視して、すべての不評価に替えようとしている。

 このような胡散臭い作為からしても、東電の全面撤退はあり得たを自明の理とすることは肯定し難いが、小此木氏のように肯定する識者が存在するということであろう。

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野田内閣の小泉訪朝要請は外交オンチ、断って正解の小泉元首相

2012-04-07 11:03:27 | Weblog

 昨年12月(2011年)の北朝鮮は金正日死去を受け、政府、与党内で弔問を名目とした小泉純一郎元首相による訪朝が2回に亘り模索されていたという。《総書記弔問で小泉氏訪朝を模索  政府、関係改善狙うも不発》岩手日報/2012年03月31日)

 この事実は3月31日(2012年)に判明した。

 〈核問題をめぐる米朝協議の進展をにらみ、日朝関係の改善を図る狙いだったが、小泉氏側が断ったことなどでいずれも不発に終わった。複数の政府関係者が明らかにした。 〉と記事は書いている。

 そして批判解説。〈北朝鮮と有力なパイプがなく、既に引退した小泉氏に頼らざるを得ない野田政権の姿が浮き彫りになった形だ。〉

 いくら北朝鮮と有力なパイプがなくても、小泉訪朝要請は外交オンチそのものであろう。日本政府が「拉致解決なくして日朝国交正常化なし」の態度を採っている以上、日朝の関係改善は拉致解決を前提としなければならない。だが、もはや北朝鮮は拉致を余程のことがない限り外交カードとしないだろうからである。

 その理由の一つは5人の帰国以降、既に拉致首謀者が金正日だと判明していることにある。北朝鮮にとって下手な解決は金正日の生存時の名誉と正義と権力の正統性を傷つけ、そのことが金正恩の権力の父子継承の正統性と父親から受け継いだ正義と名誉をも傷つけることになる。

 そうである以上、拉致の未解決は逃れることはできない持病のように固定化され、日朝関係改善の障害として今後共立ちはだかることになる。

 唯一の僅かな可能性は金正日の名誉と正義を寸毫足りとも傷つけない形での拉致解決の保証である。

 金正日が日本人拉致被害者5人の帰国で済ませて、日本側が5人以外に帰国を求めた拉致被害者を死亡、あるいは存在そのものを否定して拉致問題の幕引きを謀ろうとしたのは、5人以外を帰国させた場合、金正日が拉致首謀者だと拉致被害者自身の口から露見し、首謀者であることの確証を与える恐れがあったからだろうし、その息子金正恩は拉致解決の棚晒しによって父親の名誉を守り、権力父子継承の正統性と正義を守らなければならない。

 金正日の名誉と正義を寸毫足りとも傷つけない5人以外の拉致被害者の帰国であるなら、金正日にしても、金正日亡き後の金正恩にしても北朝鮮経済回復の元手とすべく、拉致を戦争補償と経済援助の外交カードとしないはずはない。

 いわば日本側がそのような帰国を絶対的な形で保証しない限り、譬えて言うなら、帰国を果たした拉致被害者が北朝鮮で知り得た権力層に関わる情報に関して死人に口なしの状態で口を生涯に亘って閉ざすことの保証が実現しない限り、「拉致は解決済み」の態度を崩すことはないだろう。

 但しこの絶対的な保証は拉致被害者が人間である以上、いつどこでふと漏らして、それが口伝えに広まる危険性は否定できないし、あるいは何かのキッカケで誰が押し止どめようと、それが日本政府の人間であっても、生きている人間でありながら、死人に口なし状態で口を閉ざしていなければならない抑圧の苦痛に耐え切れなくなって、その禁を破って喋り出すか分からない危うさを常に裏合わせとしなければならない。

 このことは既に前例がある。以下「Wikipedia」を参考。

 1983年11月1日、交易を終えて北朝鮮の港を出航した日本の冷凍貨物船「第十八富士山丸」の船内に密航のために潜んでいた朝鮮人民軍兵士を発見。この兵士を「密航者を連れてきた船は、密航者を元の国に送り届ける義務がある」との法律に従って北朝鮮に送り届けるべきところを日本政府の指示で日本に戻ると当局に身柄を引き渡した。

 第十八富士山丸が1983年11月11日に北朝鮮に再入港すると、乗組員5人が抑留され、うち船長と機関長が北朝鮮当局によって密航の幇助及び継続的なスパイ行為の容疑で拘留。

 約7年後の1990年、金丸信を中心とした日本国会議員による訪朝団の交渉の結果、船長と機関長は釈放され、訪朝団と共に日本への帰国を果たす。

 二人が北朝鮮での経験を初めて口にしたのは1990年の帰国2年後の1992年金丸信失脚と、さらにその3年後の阪神・淡路大震災(1995年1月)被害遭遇をキッカケとしたもので、北朝鮮での過酷な拷問紛いの取調べ、自白強要、脅迫、泣き落とし工作等を暴露。

 『北朝鮮抑留 - 第十八富士山丸事件の真相』(西村秀樹著)には、〈2名は『日朝の友好を乱さぬように』とする政治的事由から彼の地における体験については公言せず沈黙を守るように宣誓させられた。〉と書いてあるという。

 その宣誓があったから、帰国後5年以降の証言となったのだろう。

 だが、同時に宣誓を破ったことになる。

 北朝鮮側からしたら、このことが死人に口なし状態の極めて危うい前例となっていないと断言はできまい。

 拉致問題は解決済みの態度が北朝鮮経済回復の原動力の大きな一つとし得る日本からの戦争補償と経済援助を犠牲にしていることを考えると、帰国が金正日と金正恩の正義と、さらに権力父子継承の正統性を守るための絶対的保証を危うくする要因となっているとしか理由づけることはできない。

 残酷な言い方になるが、生存拉致被害者を日本に帰国させる余地は北朝鮮にはないということである。

 以上のことを考えずに野田内閣が小泉元首相に訪朝を要請したことは外交オンチとしか言いようがない。

 小泉元首相が断った実際の理由は分からないが、そもそもからして5人の拉致被害者日本帰国の問題解決を図ったのは小泉元首相ではなく、金正日であることを小泉首相は認識しているからではないだろうか。

 日本では2002年9月に小泉首相(当時)が北朝鮮に乗り込んでいって、金正日と直接交渉し、拉致を認めさせ、5人の帰国を果たしたと受け止められている印象の物語となっているが、実際は金正日の側から前以てお膳立てされていた乗り込みであって、たまたまその時の日本の首相が小泉純一郎であり、絶好のチャンスに恵まれたに過ぎない。

 このことは2008年9月17日、当ブログ記事――《次期日本国総理大臣麻生の外交センスなき拉致対応 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に2002年10月12日付『朝日』夕刊《北朝鮮 「人を探して帰国も可能」「補償、方式はこだわらず」 昨年1月には柔軟姿勢》に基づいて書いた。

 小泉首相が平壌に乗り込む2002年9月17日を20ヶ月遡る2001年1月、シンガポールのホテルで中川秀直前官房長官(当時)と北朝鮮の姜錫柱・第一外務次官との「秘密接触」が行われている。

 中川秀直「拉致問題は避けて通ることのできない政治問題。交渉に入る前に(一定の回答が)示されるべきだ。(被害者の)安否確認や帰国して家族と面会することは可能か」

 姜錫柱(行方不明者という表現で)「即、動きを見せることができ、人を探して帰すこともできるだろう」

 それまで拉致の事実を認めてこなかった北朝鮮側はこの時点で表現は違えても、拉致を認めていたのであり、小泉・金正日会談の場で金正日が初めて認めたのではなかった。単に追認したに過ぎない。

 ブログ記事にこう書いた。

 〈「『行方不明者』という表現ながらも」拉致認知と、それに続く拉致被害者の帰国のレールは敷かれていたのである。中川秀直前官房長官・姜錫柱第一外務次官の「秘密接触」前後、及び以降、日朝首脳会談開催の実現に向けて、外交当局者同士の幾度かの「秘密接触」や事前交渉を重ねて、話し合われる内容・お互いが求める成果を煮詰めていき、一応の到達点である2002年9月17日の小泉・金正日首脳会談に持っていったということだろう。

 いわば首脳会談はお膳立てができていた決定事項を主役が登場して最終確認し合ったに過ぎない。決定事項には前以て準備しておいた成果も当然含まれていて、成果は最後に登場した主役が最終確認という儀式を経ることで主役自身の手に自動的に帰する。「秘密接触」や事前交渉を譬えてみれば、表に現れない舞台稽古であり、首脳会談こそが、観客を集めて開演された舞台そのものと言える。何も小泉首相自身が、よく言われるように自らの創造的意図によって形作るべくして形作った歴史的瞬間でも、歴史に対する貴重な一歩というわけでもない。〉・・・・・

 小泉首相は金正日が拉致被害者5人帰国の次のプロセスとして「日朝平壌宣言」で2002年10月中に交渉を再開することとした日朝国交正常化を果たして日本からの戦争補償と経済援助の獲得を目論んでいたことを当然、認識していたはずだ。

 そのために金正日側がお膳立てした5人の帰国だと。

 いわがお膳立てのカードは北朝鮮側が握っているということであるが、確証を与えてはいないものの、拉致首謀者は金正日であることが周知の事実となっている手前、拉致被害者の帰国によってそのことの確証を与えない絶対保証がない限り、北朝鮮側からお膳立ての動きを見せることができなくなってしまった。

 当然、そのお膳立てなくして、いくら小泉元首相でものこのこ出かけて、「拉致解決なくして国交正常化なし」とばかりに正常化の絶対前提として拉致解決を突きつけたとしても、解決がキム親子の権力の正統性、正義、名誉を傷つけかねない諸刃の危険性を抱えている以上、おいそれとは乗ってこまい。

 このことまで気づいていて断ったかどうか分からないが、どちらであっても、北朝鮮側のお膳立ては必要事項としたはずだし、そのお膳立てがない以上、断って正解だと言える。

 断らずにお膳立てがないまま出かけたなら、2002年と2004年訪朝で得た名声を却って失わせることになったに違いない。

 拉致解決は金正日と金正恩親子の権力の正統性と正義と名誉を絶対的に守る方法の創造以外にあるまい。/font>

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「原子力安全神話」に立った菅政府のSPEEDI観とテレビ会議システムに見る危機管理対応欠如

2012-04-06 09:27:27 | Weblog

 福島原発事故政府対応のお粗末さを伝える二つの記事が政府自身が如何に「原発安全神話」に侵されていたか、それ故の危機管理能力麻痺を教えている。

 最初の記事。《福島原発事故:SPEEDI訓練に甘いデータ使用》
毎日jp/2012年4月4日 2時30分)

 記事には書いていないが、先ず2010年10月20日と21日の2日間、菅政府は菅首相(当時)を政府原子力災害対策本部会議本部長とした、静岡県の中部電力浜岡原発緊急事態想定の原子力災害対策特別措置法に基づいた「平成22年度原子力総合防災訓練」を実施している。

 このことを押さえておかなければならない。

 過去実施の原発事故想定政府原子力総合防災訓練が訓練当日の風速を用いずに年間平均風速に近い弱風を予測値として「緊急時迅速放射能影響予測システム(SPEEDI)」を作動させていたと記事は書いている。

 当然、菅直人を政府原子力災害対策本部会議本部長とした「平成22年度原子力総合防災訓練」時にも同じことが行われていたことになる。

 風速が弱ければ、このことに応じて放射性物質の拡散範囲が狭まり、この予測拡散範囲に応じて住民避難範囲が決定してくる。

 〈放射性物質の放出量や気象条件が甘い設定の結果、住民避難が必要な範囲は政府が定める「防災対策重点地域」(EPZ)の10キロ圏内にとどまり、広域防災に生かされなかった。〉は当然の結果であろう。

 さらに記事は指摘している。〈福島第1原発事故では避難対象範囲が原発から30キロ圏外に及んだ。政府は10キロ圏外の被害を「想定外」としてきたが、避難範囲が10キロ圏内にとどまることを前提に訓練の条件を設定した疑いを指摘する声も出ている。〉

 このことは一見、訓練の手抜きに見えるが、政府が10キロ圏外の被害を「想定外」としてきたということは10キロ圏内の被害しか想定内としていなかったということで、このことからも分かるように何よりも過酷な原発事故は起こらないという想定(=危機管理)を前提としていなければできない対応である。

 いついかなる時でも重大な事故が起こるかもしれないという危機を想定していたなら、その時々の風速・風向を予測値として、放射性物質の放出量をより多い段階へと幾通りかに変えて計算、どの方向にどの程度、どのような状況で拡散していくかシュミレーションしていたはずだ。

 いわば過酷な原発事故を想定外とした「原発安全神話」に立った原子力総合防災訓練を毎年行なってきた。

 どのような気象予測値を用いたかというと、〈文部科学省が昨年11月に公開した訓練用のSPEEDI予測図形などによると、過去10回の訓練は事故発生時に吹く風を毎秒0.7~4.6メートルに設定。いずれも最寄りの気象観測点の年間平均風速(1.5~4.9メートル)に近い値で、気象用語で「軽風」や「軟風」などに当たる弱い風だった。〉

 さらに放射性物質予測放出量に関しては、〈放射性物質の想定放出量(放射性ヨウ素で換算)も、福島第1原発事故直後が推定量毎時3万2000兆ベクレルだったのに対し、訓練では同454億~2300兆ベクレルと桁外れに少なかった。〉

 記事の次の指摘も、「原発安全神話」に立っていることを証明している。

 〈08年10月に同(福島第1)原発3号機であった訓練では、同年の年間平均風速1.5メートルを下回る北風0.7メートルで計算。「避難区域」は原発2キロ圏▽「屋内退避区域」は南5キロ圏にとどまった。〉

 一般的な危機管理の概念から言ったなら、より最悪な事故想定、あるいはより大きな事故想定を少なくても念頭に置いて訓練を実施するだろうし、実施しなければならないだろうから、上記訓練の「北風0.7メートル」と避難区域「原発2キロ圏」、屋内退避区域「南5キロ圏」も一般的な危機管理の概念に立って想定した危機発出状況に該当させていなければならないはずだ。

 いわばせいぜいこの程度を最悪と想定した。

 だとすると、風速・風向と放射性物質放出量に基づいた避難及び屋内退避範囲の低い設定値に対応した、一般的な危機管理概念からの過酷事故想定と比較した場合軽微となる危機発出状況は、やはり「原発安全神話」の意識に侵されていなければ不可能な想定ということになる。

 例え原発事故が起きたとしても、この程度の危機管理で収まる、この程度以上の危機発出状況は想定外としていたということである。

 「原発安全神話」意識なくしてできない危機管理対応であろう。

 もし「北風0.7メートル」、避難区域「原発2キロ圏」、屋内退避区域「南5キロ圏」の訓練が一般的な危機管理の概念に該当させない設定だとしても、該当させないこと自体が「原発安全神話」に立っていたことを証明することになる。

 対して、〈政府主催ではなく、佐賀、長崎両県が原発事故後の昨年11月、九州電力玄海原発(佐賀県玄海町)で実施した訓練では、当日の風速12.5メートルで拡散を予測。避難の可能性がある区域は30キロ圏外まで広がった。〉

 要するに福島原発過酷事故を受けて「原発安全神話」から解き放たれた状況での訓練だったから、より現実に即した訓練を実施した、一般的な危機管理の概念に立って想定したということなのだろう。

 記事は政府主催の原子力総合防災訓練について解説している。

 2000年以降、原子力災害対策特別措置法に基づき、新潟県中越地震が起きた04年を除いて毎年1回、各原子力施設の持ち回りで実施。SPEEDIは全訓練で事故影響の予測に利用された。

 要するに菅首相(当時)を政府原子力災害対策本部会議本部長とした2010年度原子力総合防災訓練でもSPEEDIは事故影響の予測に利用された。

 当然、菅仮免は説明を受けたはずだ。説明を受けた上で避難範囲・避難方向を決定する必要不可欠且つ重要なツールだと認識していなければならなかった。

 だが、実際はSPEEDIの公表が遅れたばかりか、その情報が官邸に伝わっていなかった。情報共有するに至らなかった。

 昨年の8月27日(2011年)、東京都千代田区の日本プレスセンターで行われた民主党代表選共同記者会見。

 質問者「今のホットスポットにも絡むんですけど、文部科学省が持ったスピーディっていう放射線の飛散の状況についての発表が遅れましたですよねぇ、対応の遅れ、あるいは、被災地の方の対応の不信感ということの一つに情報開示の遅れというのがあると思うんですが、この点については担当大臣として海江田さん、どうですか」

 海江田経産相「私は今回、この福島の事故の対応で、自分自身に色々と反省することもございます。その中の、やはり一番大きな問題が先ずスピーディの存在を私自身、知らなかったんです。

 これは正直申し上げまして、で、まあ、そのとき官邸にいた他の方にもお尋ねをいたしましたが、実はスピーディの存在そのものをみんな知らなかったということでありまして、これはやっぱり大変大きな問題であります

 菅仮免を政府原子力災害対策本部会議本部長とした2010年度原子力総合防災訓練時の経産相は大畠章宏で、大畠が訓練に参加している。

 だとしても、原子力発電防災に関しての情報の引継ぎが効果的に行われていなかった危機管理の不手際を問題としなければならない。

 6月3日(2011年)の参院予算委員会。

 森雅子自民党議員「(SPEEDIの予測を)なぜ住民に知らせなかったのか。知らせていれば避難できた。子供を含めて内部被曝しているのではないか」

 菅仮免「情報が正確に伝わらなかったことに責任を感じている。責任者として大変申し訳ない。予測図は私や官房長官には伝達されなかった」(MSN産経

 海江田経産相(当時)が「実はスピーディの存在そのものをみんな知らなかった」と言っているように、その存在自体を知らなかったから、少なくとも菅仮免は福島原発事故発災当時、その存在を知らない状態にあったから、その情報が伝達されなかったことに何とも思わずに見過ごしていたということであろう。

 この危機管理意識の希薄性は何と表現したらいいのだろうか。

 防災訓練が何の役にも立たなかった。学習して応用するだけの危機管理能力を保持していなかった。

 防災訓練自体が一般的な危機管理の概念に則っていない、「原発安全神話」に立った訓練であったばかりか、このことに等価値で影響することとなった実際の原発事故に際しての学習効果であり、「原発安全神話」に支配された危機対応が精一杯の状況だったということであろう。

 防災訓練で用いるSPEEDIの予測値いついて。

 文科省原子力安全課「国と自治体との調整会議で気象条件を決め、風速は代表的な数値を使っている」

 SPEEDIの計算に1時間必要とするということだから、少なくとも訓練時の風速・風向とより厳しくした放射性物資放出量を用いたシュミレーションでなければ、例え訓練であっても、危機管理の用をなさないはずだ。

 記事批判。〈年間平均風速を用いているわけでもなく、条件設定の根拠は明確でない。〉

 元原子力安全委員会専門委員で、原発防災訓練にもかかわった吉井博明・東京経済大教授(災害情報学)の談話。

 吉井博明・東京経済大教授「『より厳しい条件で訓練すべきだ』と委員が指摘しても変わらなかった。避難区域が10キロ圏を超えることはないという前提で全部が動いていた。

 各自治体が最悪の事態を想定してSPEEDIを用いた図上演習をし、防災計画や避難訓練に反映させるべきだ」

 「避難区域が10キロ圏を超えることはないという前提」を一般的な危機管理の既定概念としていたなら、いわばそのような考えを凝り固まらせていたとしたなら、それが最悪の想定ということになって、如何ともし難く「原発安全神話」にどっぷりと浸っていたことになる。

 防災訓練が何の役にも立たなかった危機管理能力欠如のもう一つの例。この危機管理欠如はやはり「原発安全神話」に侵されていたからこその欠如であろう。

 《官邸のテレビ会議未接続 保安院などと、福島原発事故時》河北新報/2012年04月04日水曜日)

 原子力災害時に首相官邸や経済産業省原子力安全・保安院、現地のオフサイトセンター、自治体などを国の専用回線で結ぶ首相官邸のテレビ会議システムが昨年3月の東電福島第1原発事故発生当時、接続されていなかったという。

 〈官邸でシステムの機材が置いてあるのは、事故対応に当たる地下の危機管理センターではなく、4階の会議室。普段は接続せず、訓練の時だけ一時的につないでいた。システムは1999年に起きた東海村臨界事故を受けて整備し、回線の維持費は年間計5億~6億円。福島事故で防災システムを活用しなかった事例がまた一つ表面化した。〉――

 菅仮免を政府原子力災害対策本部会議本部長として浜岡原発3号機放射性物質外部放出事故を想定した2010年度原子力総合防災訓練でも首相官邸(政府対策本部)は静岡県浜岡原子力防災センター(オフサイトセンター)、静岡県庁、他関係自治体とテレビ会議システムを通じて情報共有を行い、オフサイトセンターは現地浜岡原発とテレビ会議システムを介して同じく情報共有を行なっている。

 首相官邸HPにはテレビ会議システム使用の写真が載っている。 
 
 同じ内容を扱った、《官邸テレビ会議未接続 原発事故時「思いつかず」》MSN産経/2012.4.4 08:01)には次のような記載がある。

 〈システム機材は、事故対応に当たる官邸地下の危機管理センターではなく4階の会議室に置いてあり、接続作業は原子力安全基盤機構と内閣官房が担当。〉

 原子力安全基盤機構担当者「オフサイトセンターの支援などに追われ、思いつかなかった。官邸や保安院から要請もなかった」

 内閣官房「保安院の職員が官邸に詰めて電話やファクスで連絡を取っていた。必要なかったか余裕がなかったか、使わなかった理由は分からない」

 防災訓練を生かさず、何も学習せずの状態に危機管理がとどまっていた。何と程度の低い危機管理意識だったのか。それが管政府全体に及んでいた。

 この危機管理欠如、危機管理意識の希薄性も、「原発安全神話」に端を発した、そのことに対応して機能させたお粗末さであり、不手際ということであろう。

 福島第一原発のオフサイトセンターは発電所から約5kmの場所に設置されているという。

 東電のHPによると、東電から行われた3月11日16時45分の原災法第15条報告によって、約2時間後の同日19時03分に内閣総理大臣から原子力緊急事態宣言が発令、官邸に原子力災害対策本部が、現地の緊急対策拠点であるオフサイトセンターに原子力災害現地対策本部(原子力災害合同対策協議会)がそれぞれ設置された。

 同HPに、〈オフサイトセンターは当初開設されなかったため、全面的な人員派遣は見合わせていたが、12日3時20分に活動が開始されたとの情報を受け、当日中には合計28名(14日は最大で38名)が同所での活動を実施した。〉との記述があるから、地震の影響で直ちに開設というところまでいかなかったことが分かる。

 だが、〈その後、原子力災害の進展に伴い、オフサイトセンター周辺の放射線量の上昇や食料不足などに伴い、継続的な活動が困難との判断がなされ、15日に現地対策本部は福島県庁に移動した。〉との記述によって、オフサイトセンターの活動は3月12日3時20分から3月15日の3日間だったことが分かる。

 その3日間の間、〈 オフサイトセンターの当社派遣要員は、当社の使用ブースに設置され、地震等による被害を受けず機能が維持されていた当社所有の保安回線を介するテレビ会議システムや保安電話等を活用して、発電所及び本店の対策本部との間でリアルタイムの情報共有を図ることが出来た。〉・・・・・

 いわば東電所有のオフサイトセンター設置テレビ会議システムを活用して、現地福島第1原発と本店の対策本部との間にリアルタイムの情報共有を行なっていた。

 オフサイトセンターでの活動が困難となって撤退することになった以降も、東電は本店と現地福島第1原発との間でテレビ会議システムを用いて現地の情報を共有することができていた。

 菅仮免は3月15日早朝、東電本社に乗り込み、本店に政府・東電統合対策本部を設置、そこに海江田と細野を政府代表として詰めさせ、現地発電所からテレビ会議システムを通して伝達される情報を二人を介して首相官邸に伝えさせた。

 内閣府に設置の「東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会」(政府事故調)は次のように中間報告を行なっている。

 〈東京電力本店においては事故発生直後から社内のテレビ会議システムを用いて福島第一原発の最新情報を得ており、このシステムは、12日未明までには、保安院職員が派遣されていた現地対策本部(オフサイトセンター)でも使用できるようになり、プラント情報等が共有されていた。

 しかしながら、経済産業省緊急時対応センター(ERC)にいたメンバーには、東京電力本店やオフサイトセンターが、社内のテレビ会議システムを通じて福島第一原発の情報をリアルタイムで得ていることを把握していた者はほとんどおらず、情報収集のために、同社のテレビ会議システムをERC に持ち込むといった発想を持つ者もいなかった。また、迅速な情報収集のために、保安院職員を東京電力本店へ派遣することもしなかった。〉

 政府事故調は経済産業省の発想の貧弱さ、危機管理の程度の低さを批判しているが、元々首相官邸とオフサイトセンターはテレビ会議システムでつながっていたのであり、オフサイトセンターが使用不可能となった段階で、東電のテレビ会議システムを首相官邸に持ち込むといった発想を持つべきであり、それが的確な危機管理対応というものであろう。

 だが、そういった発想を菅仮免以下、誰も持たなかった。

 テレビ会議システムの設置にどのくらいの日数を必要とするのかインターネットを調べてみたら、「goo」の検索サイト記載のNTTコムの電話会議サービスには次のような謳い文句が載っている。

 「導入まで2時間で利用可能! 業界最安値水準のお得な料金」

 オフサイトセンターが機能していた3月12日3時20分から3月15日までオフサイトセンターを中継地点として首相官邸と東電本店、福島第1原子力発電所とテレビ会議システムを通じて情報共有をし、3月15日オフサイトセンター閉鎖後は直ちに首相官邸と東電本店を結ぶテレビ会議システムを設置、情報共有を果たしていたなら、何も菅仮免は3月15日早朝に東電本店に怒鳴り込んでいって、東電本店に政府・東電統合対策本部をわざわざ設置しなくてもよかったのではないだろうか。

 清水東電社長が申し出たという全面撤退を思いとどまらせるために怒鳴り込み、乗り込んだとされているが、乗り込む前の同じ3月15日未明に清水社長を首相官邸に呼びつけて撤退問題を話し合っているのである。

 一国のリーダーであり、原子力災害対策本部長でありながら、その場で説得できずにあとから乗り込んだというのは自身を目立たさせるためのパフォーマンスではなかったのではないかと思えて仕方が無い。

 大体がその場で説得できなかったということは危機管理無能力の証明としかならない。

 何れにしても二つの記事が伝える原発事故発生時の政府対応は「原発安全神話」を触媒として危機管理が化学劣化をきたしていたことを情け容赦もなく暴露して余りある。

 参考までに――

 2012年3月4日記事――《菅仮免と東電とのテレビ会議システムの活用の如何ともし難い差から福島原発菅視察の必要性を考える - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》

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将来世代のポケットならぬ低所得層のポケットにまで手を突っ込んで税金を増やす野田消費税

2012-04-05 10:19:04 | Weblog

 野田首相は機会あるごとに「将来の世代のポケットに手を突っ込んで」負担を押しつけるのでは持続性ある社会保障制度は確立できないと言っている。

 昨日4月4日の参院予算委員会でも繰返していた。オームの繰返しだから、他の発言から例を引いてみる。

 2012年2月17日野田首相ビデオメッセージ/「社会保障と税の一体改革について」

 野田首相「働き盛りの保険料を中心に考える時代はもう無理です。将来の世代のポケットに手を突っ込んでお金を借りるというやり方も取るべきではありません。ということは、いまを生きる世代が広く薄く負担を分かち合う消費税を導入して、社会保障を支える安定財源にしなければいけない。これが待ったなしの状況であります」

 2012年3月24日、日本アカデメイア主催「野田総理との第1回交流会」野田総理スピーチ

 野田首相「『社会保障と税の一体改革』は、もうここにいらっしゃる皆様はご案内の通りで、釈迦に説法のようにあれこれいうつもりはありませんけれども、待ったなしの状況であります。特に社会保障においては、人口がピラミット型の構造から逆ピラミッドへと急変する中でどうやって持続可能性を担保していくか。

 これは早く手をつけなければなりません。給付においても、負担においても公平性が必要です。支える側が一人、支えられる側が一人という肩車の社会に移行をしている時に、支える側を何のケアもしない社会保障では持続可能ではありません。これまでは給付は高齢者中心、負担は現役世代中心でした。だけども子育て支援等、現役世代にも恩恵を感じてもらえる社会保障へと転換をしていかなければならないわけであります。そして負担の方も、現役世代中心で保険料や所得税だけに頼っていくならば、これも持続可能性は担保出来ません。むしろ現役世代だけではなくて、将来の世代のポケットに手を突っ込んで、赤字国債という形で借金でまかなっているのが現状です

 2012年3月30日 6:00、野田首相記者会見

 野田首相「特に、この改革を推し進める際に一番大事な観点は、人口構成が大きく変わり、かつてはピラミッド型だったものが逆ピラミッド型へ急速な勢いで変わってきている状況に対応できるかどうかであります。その持続可能性の最大のやっぱりテーマというのは、給付においても負担においても、より公平なものにしていくことだと思います。

 給付は高齢者中心、負担は現役世代中心という構造では、これは持続可能性を担保することはできません。給付の面においては高齢者中心だったものから、人生前半の社会保障に光を当て、支える側においても社会保障の恩恵を感じられるようにすることが一番大事です。その柱となるものが子ども・子育て新システム。消費税を引き上げた暁には、すべてを社会保障に充てるということにしておりますけれども、その中でも社会保障の充実の部分の中で、この子ども・子育て新システムに7,000億円充てていこうとしています。こうした改革を早くやっていかなければいけないと思っています。

 給付の面だけではなくて、負担の面における公平性ということも必要であります。これまでは現役世代中心の負担、その根幹は保険料であったり所得税であったり、それでは足りなくて、将来の世代のポケットに手を突っ込んで赤字国債を発行しながら今の社会保障を支えているという、そのいびつな構図が続いてまいりました。それを変えていくためには何らかの基幹税を充てなければなりません」

 そこで野田首相は将来世代のポケットのみならず、現役世代のポケットにも等しく手を突っ込んで公平な税金とする、それが消費税だと不退転の決意で猪突猛進することになった。

 だが、3月21日総務省発表の労働力調査は役員を除く雇用者数は5111万人に対して正規社員3355万人、非正規社員1755万人となっていて、正規社員2人に対して非正規社員は約1人を超えている。

 当然、将来世代のポケットに等しく手を突っ込んだとしても、正規社員と非正規社員の間に最初に目していた「負担の面における公平性」は当てにもならない公平性となり、不公平が生じることになる。

 一見公平な税負担に見える消費税が低所得層程消費に於ける逆進性を抱えているということだけではなく、所得の面からも負担の逆進性を抱えていることになる。

 いくら社会保障制度の明日の安心と言っても、日々進行していく今日の暮らしに相当な窮屈を強いられるだろう。

 このことは以下のブログに書いてきた。

 20012年3月29日記事――《世論に逆らうのも政治であり、信念がそれを支えるが、説明責任という対価を条件とする - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》
 
 〈消費税増税によって最も生活の皺寄せを受ける、それゆえに最も切実な問題となって跳ね返ることになる低所得層にこそ、先ず安心を与えるべき逆進性対策が疎かにされている。〉・・・・・

 2012年4月2日記事――《カネ持ちボンボン岡田克也には気づかない貧乏人の安物買いの銭失いと消費税の関係 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》

 毎日新聞の3月31日~4月1日世論調査。

 〈「軽減税率の導入」――79%(以上)

 「軽減税率の導入」79%が証明している、明日の安心よりも今日の安心であり、その日暮らしの追われている所得非余裕層の少なく存在であろう。

 政府が導入の方針としている逆進性対策としての給付付き税額控除ははっきりとした内容、はっきりとした金額が決まっているわけではなく、対して軽減税率の導入は生活必需品の消費をどんなときでも安心できるものに保証することになるからだろう。〉等々――

 勿論政府は非正規労働者の所得向上に努力しているが、企業の利害と真っ向から相対立するために未だ発展途上の後進性にあり、企業の国際競争力に直接的に関係していくアジアやアフリカの国々の低賃金労働力との兼ね合いを考えると、かつてのような右肩上がりは期待できない。 

 せめて消費に於ける逆進性の緩和に思い切った対策を打たないと、消費税増税は公平な負担を言いながら、低所得層のポケットに手を突っ込んだぶったくりになりかねない。

 だが、野田内閣は消費税を上げることにばかり目がいって、一体改革と言いながら、あるいは持続性の確保と言いながら、逆進性対策も社会保障制度の全体像も確定させてはいない。
 
 このことを次の記事が明快に解説している。《【解説 消費税増税】低所得者対策簡素な給付→控除の2段構え》SankeiBiz/2012.4.4 23:04)

 記事は、所得に関係なく一律にかかる消費税は低所得者ほど負担感が重くなる「逆進性」が問題視されているが、増税関連法案では現金給付などの低所得者対策が明記されたものの、具体的な制度設計は積み残されたと書いている。

 具体的な制度設計を積み残したということは低所得者対策に熱意を持って取り組んでいなかったということであろう。その方面に対する熱意よりも、消費税を増税して国の税収を増やすことにばかり熱意を持っていたから、その分、自ずと低所得者対策が疎かになった。

 このことは以前ブログにも取り上げたことだが、2月17日(2012年)閣議決定の「社会保障・税一体改革大綱」の一文が証明している。

 〈消費税(国・地方)の税率構造については、食料品等に対し軽減税率を適用した場合、高額所得者ほど負担軽減額が大きくなること、課税ベースが大きく侵食されること、事業者の負担が増すこと等を踏まえ、今回の改革においては単一税率を維持することとする〉云々。

 一番大きな理由となっているのが、「課税ベースが大きく侵食される」ということであり、だから、軽減税率の導入はダメだと言っているのである。

 〈高額所得者ほど負担軽減額が大きくなること〉も課税ベースの侵食に向かうから、同じことを言っていることになるが、全体の層で把えた場合、課税ベースの侵食の一部分であって、全体の中に低所得層も加えているということである。

 いわば低所得者対策よりも税収の確保のみに目がいっていた。

 野田内閣のこの姿勢こそ、〈将来世代のポケットならぬ低所得層のポケットにまで手を突っ込んで税金を増やす野田消費税〉であることの証明であろう。

 上記「SankeiBiz」記事は次のように解説している。

 〈法案の対策は2段構え。まず、平成26年4月に消費税率を5%から8%に上げた時点で、一定以下の年収の人を対象に現金を配る「簡素な給付措置」を導入する。その後、27年1月以降には所得に応じて納税額の一部を戻したり、現金を給付したりする「給付付き税額控除」に切り替える。

 ただ、税額控除の実施は国民一人一人に番号を割り振り、所得や納税、社会保障給付の情報を一元管理する「共通番号制度」の本格稼働が前提になる。給与所得だけでなく、社会保障給付や株式配当なども含めた所得を正確に把握する必要があるためだ。

 給付措置、税額控除のいずれも規模や財源、給付対象などは固まっていない。安易な現金給付は「バラマキ」との批判を招き、増税効果をそぐ可能性もある。

 一方、欧州などは、日本の消費税に当たる付加価値税の低所得者対策として軽減税率を採用している。例えば、英国は標準税率20%に対し食料品や医薬品、新聞などの税率がゼロ。日本に比べて高い税率を国民が受け入れている大きな理由だ。軽減税率の導入を求める声は民主党内でも根強いが、政府は対象品目の線引きが複雑になり、税収も大幅に落ちるとして慎重な姿勢を崩していない。〉――

 これで全て参考引用。

 軽減税率の導入見送りの理由の最初に〈対象品目の線引きが複雑〉になることを持ってきて、その後に税収の大幅なダウンを持ってきているが、低所得者対策が後回しになっていて、税収の確保に重点を置いていることから見ても、〈対象品目の線引きが複雑〉は単なる口実に過ぎないはずだ。

 イギリスだけではなく、イギリス以外の欧州各国もアメリカの各州も行なっている低所得層対策、逆進性対策でもあるからだ。

 この点からも、「将来世代のポケットならぬ低所得層のポケットにまで手を突っ込んで税金を増やす野田消費税」だと言える。

 税金の取り立てに関してはシロアリどころか、ハイエナとも言える貪欲さである。

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フジテレビ「ホンマでっか in 沖縄」で披露した武田邦彦の対明石家さんま教育論

2012-04-04 09:30:05 | Weblog

 3月28日フジテレビ放送「ホンマでっか in 沖縄」。環境評論家で中部大学総合工学研究所教授だとかいう武田邦彦(67歳)が司会の明石家さんまを評して興味ある教育論を展開した。

 私は大のバラエティーファンで、テレビのバラエティー番組を録画しておいては暇を見つけて何回かに分けて視聴、視聴終了と同時に消去の繰返しを習慣としていたが、その場面をあとで文字化する予定でいたものの、習慣が勝ったのか、歳のせいで認知症の領域に足を踏み込みつつあるのか、文字化せずに番組終了と同時に消去してしまって、後になってから気づいた。

 幸いインターネット上にその動画を見つけることができて、文字に起こしたが、声が聞き取りにくい動画で、一部不明の箇所が出てしまった。

 出演者全員で沖縄の特産料理に舌鼓を打ちつつ、ゲストの各学者が蘊蓄を傾けるシーンである。 

 武田邦彦「私がビックリしたのはね、さんまさん、記憶がいいんですよ。それをね、2年ぐらい前に言ってもね、忘れているのかなって思って言うと、ビッと覚えててね。

 こういうのはね、多分ね、高校の頃、勉強していなかった子じゃないかと思う」

 明石家さんま「そのとおり」

 お見事と言わんばかりに間髪入れずに即座に断定。

 武田邦彦「(さも当たったとばかりに)ね。

 大体ね、高校の頃ね、成績の悪い人というのは、物凄く・・・・」
 
 明石家さんま「すみません。勉強してませんでしたけど、そんなに悪くなかった。勉強しないでできた子って表現変えていただけませんか。申し訳ないけど。物凄いアホみたいに扱ってるけど――」

 ブラックマヨネーズ小杉竜一「そういう人はどうなるんですか」

 武田邦彦「そういう人はね、非常にね、二つ特徴がある。

 一つは記憶力が空いているもんだからね、記憶がビーッと入っていく。そういうのが一つだけど、もう一つはね、アインシュタインが典型的なんだけど、物事をつくるのがうまくなるんですよ。

 年取って記憶がいいっていうのは、そうすると、意外なものが、例えばアインシュタインの場合だと、光と電気とか光電効果といのはアインシュタインだけど、そうすると、そういうふうに一見違うように見えるもの、バーッとくっつける」

 児玉 光雄(鹿屋体育大学教授、スポーツ心理評論家)「アインシュタイン並みの頭脳を持ってるの?」
 
 武田邦彦「そりゃあ分かりませんけども」

 明石家さんま「持ってるでいいじゃないですか。・・・・(聞き取れない)、分かってるんですから」

 「そうじゃないのはみんな分かってるんですから」とでも言ったのかもしれない。

 要するに、「持っている」と言っても、ウソにはならない。最初からギャクだと受け止めるからということなのだろうか。

 武田邦彦は高校の頃成績の悪い人はなぜ記憶力がいいのか、具体的な理由を説明しなかった。単に勉強しない子は記憶が空いているから、「記憶がビーッと入っていく」では脈絡ある理由とはならない。そのような人間を多く見てきて、そういった傾向にあることに気づいた印象からの発言なのかもしれない。

 だとすると、印象的統計学とでも名づけることができる。

 印象にとどまっているから、原因追求にまで進まないのかもしれない。

 レギュラーゲストである教育評論家の尾木ママがその場に居合わせたが、教育論が展開しているにも関わらず、発言に割って入ることはなかった。

 日本の教育は暗記教育だから、教師が言ったこと、板書したこと、あるいは教科書に書いてあることをそのままのなぞって記憶する(=暗記する)慣習を植えつけられることになる。

 忠実になぞって記憶する(=暗記する)情報量・知識量が多い程、成績の優秀な子どもになれる。例外もあるが、その最高の成果が東大入学・東大卒業ということに象徴することができる。

 学校入学前から、親からああしなさい、こうしなさいと言われて、言われた通りを忠実に行動する暗記式行動様式を習慣とし、学校入学後も全学校を通してその習慣に上塗りの上に上塗りされる形でインプリントされて積み重ねていく結果、脳にしても身体にしても、暗記式の反射性を身につけることになる。

 脳や身体がそういった型を備えてしまうから、暗記式以外の反射性は無縁とすることになる。

 一度か二度ブログに書いたが、暗記教育を話す時使い勝手がいいから、何度でも使うことになるが、2010年7月11日(日曜日)フジテレビ放送の「新報道2001」で建築家で東大名誉教授の安藤忠雄が言っている。

 須田アナ「安藤さんところに優秀な新人が入ってきたそうですが、如何ですか、期待度は?」

 安藤「優秀な、学校だと言うだけでは。優秀な学校だと言われている学校だけれども、先ずは自分から一歩踏み込むことはしないから、言われたことはやる。だけどそれ以上のことはやらない」

 優秀な学校とは東大や京大を指すのだろう。

 「言われたことはやる」とはまさに暗記式反射性・暗記式行動様式を言うはずである。その逆の上からの指示を受けずに「自分から一歩踏み込む」とは自身発の思考及び行動であるから、暗記式反射性にはない主体的思考様式であり、行動様式であろう。

 暗記教育にどっぷりと浸かり、暗記式思考様式・暗記式行動様式に脳から身体全身まで侵されてしまっているから、自身発の発想を持ち得ないことになり、「1+1は2です」と教えられたとおりに「1+1は2です」と答を導き出すように言われたことしかできないことになる。

 武田が言うように勉強しない子は「記憶力が開いているもんだからね、記憶がビーッと入っていく」からではなく、脳や身体が暗記式の記憶に絡め取られていないから、自由な発想に基づいた、あるいは自身の希望に基づいた独自の記憶の活用を展開することができるようになるということであろう。

 明石家さんまがその典型的な一例というわけである。

 その頭の良さから、明石家さんまの大ファンです。

 また、武田は「一見違うように見えるもの、バーッとくっつける」と言っているが、これも暗記式反射性に絡め取られていないことを条件としていなけれならない。

 条件としていた場合、記憶している知識・情報に縛られてしまい、自由の効かない、限られた発想しかできないことになるが、条件としていない場合、自由が効いて、自ずと記憶(覚えている事柄・情報)の発展性を手に入れることができる。

 暗記教育とは教師が教えた通りを自身の考えを加えずにそのまま暗記して自身の知識・情報とするから暗記教育であって、教師が教えた知識・情報のうちから二つか、それ以上の部分をくっつけて自身に独自の情報・知識へと発展させる、あるいは教師が教えた知識・情報をテレビや新聞が報道した知識・情報とくっつけたり重ね合わせたりして、やはり自身の知識・情報とした場合、生徒自身が自身の考えを付け加える教育・考える教育ということになって、本来的に生徒の側に思考の機会を与えない、そのようなプロセスを仕組みとしていない暗記教育とは言えなくなる。

 結果として暗記教育の世界では生来的に聡明な子が学校の勉強に不熱心だった場合、そのことが幸いして暗記式反射性に毒されずに済み、自由な記憶・自由な発想を自らに対する恩恵とする可能性は高くなると言えるはずである。

 逆にいくら聡明な子どもでも、学校の勉強にあまりに熱心だと、暗記式反射性を知らず知らずのうちに自らのものとしてしまい、自由な記憶・自由な発想を閉ざしてしまう危険性を抱えるということになる。

 この指摘が間違っていないなら、記憶している知識・情報のうちから自らの知識・情報を加えて、あるいは自らの思考・判断を加えて新たに独自な知識・情報へと発展させる自由な記憶・自由な発想は暗記教育から自由であることを第一条件としなければならない。

 武田邦彦にしても、建築家安藤忠雄と同様に直接的な言葉は駆使しなかったが、日本の教育は暗記教育だと言ったことになる。

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人間としての尊厳を自覚的に維持可能とする人生終末の安楽死制度導入を通した社会保障給付費抑制

2012-04-03 10:26:55 | Weblog

 民主党の社会保障制度改革は少子高齢化、国民の健康状況、貧困生活状況等々の現状追認の上に構築されている。

 このことは野田首相の記者会見等の発言が証明している。

 野田首相年頭記者会見(2012年1月4日)

 野田首相「昭和36年に日本の社会保障制度の根幹はできました。国民皆年金、国民皆保険。しかし、その後急速な少子高齢化によって、かなり今は様々なひずみが出てきているだろうと思っていますし、毎年1兆円以上の自然増が膨らんでくる。あるいは基礎年金の国庫負担を捻出をする、2分の1を実現するためにも、自公政権以降、かなり苦心惨憺をしてきているという状況でありますが、もうこれ以上先送りできない状況だと思います。

 従来の社会保障のレベルを維持することも難しい状況でありますが、これからますます少子化が進んでいく中で、支える側、支えられる側だけではなくて、支える側の社会保障も必要です。すなわち若者の雇用や子育て支援といった、こうした全世代対応型の社会保障にしていかないと、日本の社会保障の持続可能性を担保することは私は困難だと思っています。この問題は、私はどの政権でももはや先送りのできないテーマになっていると思います」

 「毎年1兆円以上の自然増」を前提として社会保障制度の改革を訴えているということは、「自然増」を現状追認した社会保障制度の構築ということであろう。

 勿論、少子化対策、高齢化対策、年々増加していく生活保護受給者対策、介護や医療向けの健康管理対策等々、様々に手を打っているだろうが、決定的な打開策、原因療法は見い出せないものとして、それらに費やされる「自然増」を認め、その対処療法に消費税増税を安定財源とした社会保障制度を以って対処するということであるはずである。

 社会保障制度を持続可能なものにしなければならないが、その前に「毎年1兆円以上の自然増」を可能な限り抑制して、年々の社会保障給付費を減らすところから、新たな社会保障制度を確立しますとは決して言っていない。

 第180回国会に於ける野田首相施政方針演説(2012年1月24日)

 野田首相「過去の政権は、予算編成のたびに苦しみ、様々な工夫を凝らして何とかしのいできました。しかし、世界最速の超高齢化が進み、社会保障費の自然増だけで毎年一兆円規模となる状況にある中で、毎年繰り返してきた対症療法は、もう限界です。

もちろん、一体改革は、単に財源と給付のつじつまを合わせるために行うものではありません。『社会保障を持続可能で安心できるものにしてほしい』いう国民の切なる願いを叶(かな)えるためのものです」

 野田首相は「毎年繰り返してきた対症療法は、もう限界です」と言っているが、「毎年1兆円以上の自然増」を現状追認した社会保障制度改革こそ、原因を断つものでない以上、対処療法であるはずで、勘違いも甚だしい。

 野田首相ビデオメッセージ/「社会保障と税の一体改革について」 (2012年2月17日)

 野田首相「人類が経験をしたことのない超高齢化が進んでいますので、医療や介護の負担増、今の制度を維持しているだけでも自然と増えていくためにかかるお金が約1兆円です。その1兆円というのは1万円札を平積みすると高さ1万メートルです。エベレストよりも高い高さになります。それぐらい、毎年の自然増で社会保障費が膨らんでいるという状況でございます」

 常に「毎年1兆円以上の自然増」を現状追認した発言となっている。

 平成23年度に取り纏め、平成23(2011)年10月28日公表の平成21年度(2009年度)の社会保障給付費は99兆8000億円となっている。「毎年1兆円以上の自然増」ということなら、2010年度で100兆円を優に超えていることになる。

 内訳は――

 年金 51兆7246億円、
 医療 30兆8447億円、
 福祉その他 17兆2814億円

 いわば100兆円を超える社会保障給付費に対して「毎年1兆円以上の自然増」ということである。

 社会保障制度の持続可能性もいいが、その持続可能性を維持するために消費税を追加的に増税していく現状追認・対処療法的政策では将来の生活の安心を得る前に今日の生活の安心を失う国民や中小企業が多く出てくるはずだ。

 国は税金を使って、その手当もしなければならない。

 現状追認・対処療法ではない、医療関係の社会保障給付費の元を改善していく原因療法の一助として、喫煙本数・喫煙回数、飲酒量・飲酒回数、日々の運動量や運動回数等の記入から、健康診断、病気治療のすべてを記録する、生まれてから死ぬまでの国民一人ひとりの一生の“健康履歴”の導入を次のブログで提案した。

 2010年11月21日記事――《社会保障費圧縮のための全国民対象の健康歴導入を- 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》

 2011年11月2日記事――《年金問題を含めた社会保障給付費圧縮は根本的な原因療法に目を向けるとき - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》

 2011年11月25月記事――《民主党の「医療扶助」制度見直し検討から、再度“健康履歴”を監視役とする健康管理の自己責任を考える - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》

 健康履歴によって証明されることになる不摂生や不注意からの病気治療や介護は通常の窓口負担より重くする健康管理に対する自己責任制の導入によって、すべての人間ではないにしても、多くが自身の健康管理に自覚を持つことになり、その延長線上に国の給付の抑制を狙いとした。

 今回は安楽死制度の導入である。多分、当時行なっていたメーリングリストの記事だと思うが、2004年10月12日に埼玉県皆野町の駐車場停車のワゴン車から発見された男女7人の集団自殺体に基づいて安楽死制度について書いた。

 再度ここに掲載してから、社会保障制度との関係で安楽死制度を把えてみる。

 集団自殺──死の選択について(Hiroyuki.Teshirogi/2004年10月30日 9:06)

 埼玉県北部の町の駐車場で集団自殺した7人は、東京都の34歳の女性がインターネットの自殺サイトに、「男女問わずグループで実行したい。前に失敗したので、今度は確実に」と書き込んで志願者を募集したのに応じて、全国から集まった7人だと言う。

 内訳は、東京都の34歳女性、さいたま市の33歳の女性、所沢市の20の歳男性、川崎市の26歳の男性、東大阪市の20歳の男性、青森県の20歳の男性、佐賀市の20歳女性。主催者と、いたま市の33歳の女性を除いて、他は全員20代で、26歳が1人、他の4人は20歳である。まだ若い命をあたら散らしてしまったと見るか、本人が選んだことだからと見るべきか。

 ネットで自殺志願者を募集した東京都の34歳の女性は「前に失敗した」自殺未遂歴がある。この件以外にも、ネットで知り合った人間同士が自殺する事件が何度か起きている。

 仲間を募るとは、道連れを欲するということだろう。一人では自殺に踏ん切れないことの裏返しであろうが、そのような自殺予備軍と言うか、潜在的自殺願望者と言うか、全国で相当数いるのではないだろうか。呼び掛けに、遠くは佐賀、青森から駆けつけている。ネットの力でもあるが、その距離を億劫ともしない駆け付けから判断すると、目的達成に向けたエネルギーは相当なものがある。

 そのエネルギーを、例えば有名タレントの追っかけに振り向けたらどうかと言っても、自殺したい人間が自殺に限定したエネルギー放出だからこそ、自己行為を濃縮させることができたのだろう。逆もまた真なり。韓国美男俳優を追っかける日本女性に、そのエネルギーをもっと社会的に有意義なことに振り向けたらどうかと注意したとしても、彼女たちは有名人の追っかけだから、あれだけ熱狂できるのであって、あの熱狂は如何なる社会性とも無縁で、他に振り向けようがない性格のものであろう。

 自殺に成功した7人はお互いに生まれてからこの方、一度も会ったことのない見知らぬ他人同士という形で自殺というそれだけの目的で、袖振り合う。自己紹介し合うのだろうか。決行の段階に至ったなら、多分、黙々と車の窓に目張りし、屋根から車全体にすっぽりとシ-トをかぶせ、車内に用意してあった練炭に火をつける。そして、息を引き取る瞬間をそれぞれが待つ。そのときが来るまで、自分が死にたい理由、この世に生きていたくない理由をお互いに告白しあうのだろうか。それとも、みな一様に無言でそのときを待つのだろうか。自分独りではなく仲間がいることに心強さを感じながら。

 死ぬということは、この世から死の領域へ飛び越えるという感覚になるのだろうか、それとも、死の中に入っていくという感覚になるのだろうか。自殺の形式によって違うのかもしれない。首吊りとか列車に飛び込むとかの自殺は、飛び越えるという感覚になるのではないだろうか。そんな気がする。服毒、入水、ガス吸引などの自殺は、一定の時間待たなければならないから、中に入っていくという感覚になる気がする。

 自殺を悪とする、あるいは弱い人間がすることと考える人間がいるが、必ずしもそのように一括りにしてもいいものだろうか。一つの考えを絶対として、その考えに人間を従わせようとするのは独裁である。この世に期待できずに、あの世に期待する自殺。あるいは、この世で生きていくだけの体力も気力も使い果たした、すべて終りにしようと決意する自殺、あるいは兄弟や他人に迷惑をかけることも含めて寝た切り状態となることを醜悪と受止める感覚(食事から排泄、入浴、着衣・脱衣、すべての必要を自分で満たすことを善・美とする感覚)があって、身体の自由が利くうちに寝たきりとなることを阻止しようという自殺は、決して悪でも、意志が弱いからでもない。

 ただ生きているのではこの世に生きる資格はない。この世に生きるからには、ただ生きているのではないという自覚を誰もが持つべきではないいか。そのような自覚を持てと、学校で教えるべきだと思う。自分がただ生きているのか、そうではないのか、ときどき振り返れと。自省心を養うキッカケとなるだろう。

 自殺志願者を募るサイトがあるかと思うと、自殺予防サイトがある。ネット上で会話を続けるうちに自殺を思いとどまった者もいるというが、その深刻度が自分も他人も判別不能なのだから、予防サイトが直ちに有効だとは断言できない。自殺したい気持をサイトに書くのは最近の傾向だろうが、誰彼なしに死にたい、死にたいと言いながら、一向に自殺しない人間というものが昔からいた。逆に、死にたいという言葉一つ誰にも話さずに、ある日突然自殺してしまう人間もいる。人の心を窺うのは難しい。相手が話してくれたからといって、理解できるわけではない。

 自分が何をしたいのか、何をしようとしているのか、どう生きようとしているのか、たいした生き方はしていないから、あまり偉そうには言えないが、学校は知識の暗記ばかりにエネルギーを注がないで、ときには自覚することを教えるべきではないだろうか。
 
 7人が集団自殺したのは11日の夕方以降らしいが、同じ日の朝7時過ぎに広島県尾道市の県立運動公園のジャイアントスロープなる70メートルの大型滑り台を持参したプラスチック製のそりで7歳の娘を膝に抱えて滑り降りた母親が、勢い余って制御用の平坦部分とその先の逆反りとなった斜面の10メートルを滑り続けて、そのまま高さ60センチの転落用マットをジャンプして、4メートル下の通路に叩きつけられ、病院に運ばれたが、母親は死亡、7歳の娘は重態だという事故が新聞・テレビで報じられた。

 2人がジャイアントスロープを滑ったのは午前9時から午後5時までと決められている時間外の朝早くであったばかりか、公園の管理小屋がまだ開いていない時間であっただけではなく、雨が上がったばかりで、スロープは滑りやすくなっていたという。

 テレビで映していたが、スロープのすぐ脇に、「雨上がりは滑りやすいから、滑るのは禁止します」と注意書きした看板が立ててあった。スロープは人工芝を張って造られている。人工芝だけではなく、普通の草も濡れていると、滑りやすくなる。平坦な場所にある濡れ落ち葉でも、どうかすると靴が滑って、転倒しかかることがある。例え看板に気がつかなかったとしても、そういった知識がなかったのだろうか。

 母親、あるいは父親が、ときには夫婦で、夏の暑い日に窓を閉め切って駐車した車に幼い子供を閉じ込めたまま、長時間パチンコに没頭して、熱射病で死なせてしまう事件が毎年何件か起きる。例え新聞・テレビでそういった事件を目にしなかったとしても、暑い日に窓を長時間閉め切った車のドアを開けたとき、内部が蒸し風呂状態に暑くなっていて、ハンドルが熱くてすぐには握れないといったことを経験しているはずである。そういった経験を生かすことができない親に子供は虐待を受けて死ぬ子供のように自己の意志からではない死を選択させられる。

 雨上がりに滑った母親は、知識がなくて、あるいは知識を生かすことができなくて、滑る過ちを犯したのだろうか。だとしたら、知識のある人間から見たら、まさしく自殺行為そのものでしかない、母親の愚かしさが招いた事故ということになる。だが、知識があって滑り降りたとしたら・・・・・雨上がり、時間外という状況を考え併せると、それを利用したと考えることもできる。

 どちらであっても、考えられないような無謀なことをして死を招いてしまうことを自殺行為と言うなら、自らの事故が原因で自分の子供を含めた他人に自己の意志からではない死を選択させることを、他殺行為と言えるのではないだろうか。どちらも、愚かさを誘引としている。

 厭世自殺・生活苦自殺・病気自殺・リストラ自殺・失恋自殺、そして虐待死などの事故死、殺人等々、自己選択死や他者選択死。その両者でもない、いわゆる天寿を全うする老衰死や病気からの病死が絶えることのない水の流れのように日々大量に発生する。

 80歳,90歳まで長生きするのが善であるかのような考えが世の中には存在するが、年代に応じて主体的に選び取っていく生き方ではなく、環境が命じるままに受身に生きていった末の長生きなら、さして意味があるようには思えない。何も趣味を持たず、テレビを見る以外時間をつぶす方法を知らない長生きしている老人がゴマンといる。

 漫然とテレビを見ているだけだから、オレオレ詐欺をいくら報道しても、車の中に長時間放置しておいた子供を熱射病で死なせてしまう親と同様に、見聞を知識とすることができず、騙されて大金を振り込んでしまう老人が跡を絶たない。性別から言うと、男よりも圧倒的に女の方が騙される確率が高いという調査結果が出ている。在宅率が高いからということもあるだろうが、主体的局面は男、あるいは夫に任せて、自分は従の位置にいる女性特有の受動性が災いして、自発的思考性に欠けるということもあるだろう。

 国は介護制度や医療制度、年金制度をいろいろといじくりまわすが、それらの制度を通して、自殺とは異なる、他人の手による自己意志からの選択死──安楽死を制度として取り上げる時期に来ているのではないだろうか。但し、末期患者の生死の選択に特定した安楽死ではない。意思表示可能なすべての国民を対象とした安楽死制度である。

 例えば、自殺という形の死をなくすことができないなら、若くして死にたい人間に、その意志が固ければ、国が制度として安楽死を施す。意志確認の作業過程で、思いとどまる人間もいれば、翻意しない人間もいるだろう。国は本人の最終意志に忠実に従う。

 尤も、意志確認の過程で自殺の決意が鈍ることを恐れて、国の安楽死制度に頼らずに自殺するものもいるだろうから、自殺にも対応した安楽死制度ができたからといって、自殺が完全になくなることはないだろうが。

 但し、そのような安楽死制度を確立させることによって、肉体的衰えから主体的に生を掴み取っていくことが困難となり、安楽死を選ぼうという人間も出てくるはずである。車椅子や手押し車に頼ってまで長生きしたくないと考える人間や、寝たきり状態にとなって人の世話になるということはしたくないという人間である。

 そして、何よりも、自己の死を安楽死という形で選択できるとすることによって、多くの人間が自分に関する死の選択を考えるようになるだろう。どういう死を選ぶか、あるいは選ばないか。選ぶ前に、自動車事故死や殺人の被害者となる可能性まで考える人間も出てくるだろう。自己選択死・他者選択死を含めて、死の形を考えるということは、自分はどう生きるべきかを考えることであり、それは同時に、何をすべきか、何をしたいか、生に対する自己の意志を確認する作業(主体的生の選択)でもあるはずである。

 安楽死制度は決して、マイナスの方向性だけを持っているわけではない。


 このような安楽死制度は自殺のススメとなる危険性を一側面ともし得るが、“自覚的生”のキッカケとならないだろうか。

 いわば安楽死制度が存在することによって、“自覚的生”の先に意志的、あるいは無意志的な死の選択の一つとして意志的な安楽死制度を見据えることとなって、そのことが逆に尊厳ある生とは何かを自身に照射することになるはずだ。

 時と場合によって安楽死制度を人生の終末に置く、このような自覚性は常に生命の尊厳を認識させ、このことが健康管理や健康維持に役立ち、結果として国の社会保障給付費の抑制に繋がっていくということはないだろか。

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カネ持ちボンボン岡田克也には気づかない貧乏人の安物買いの銭失いと消費税の関係

2012-04-02 09:57:58 | Weblog

 昨4月1日(2012年)のNHK「日曜討論」は、「どうなる“消費税政局” 政治の責任を問う」と題して、各党の責任者と議論を展開していた。与党からはカネ持ちボンボンの岡田副総理。消費税が国民にかなり理解されていると都合のいい主張を展開していたが、その点と、冒頭、NHKが3月17日に「岡田副総理が大連立打診 自民断る」と題して伝えた“報道事実”をボンボン岡田が否定した点を取り上げてみる。

 司会者「国民の知りたい点を率直に聞きたい。消費税増税案の閣議決定と国会提出に反対して副大臣や政務官が辞表を提出した。民主党内はこれから纏まってやっていけるのだろうか」

 ボンボン岡田「その前に一言。まあ、NHKの報道でですね、私が、あー、自民党の有力者に大連立を申し出て、断られたと、いう報道があります。

 それは全く事実に反するもので、えー、まあ、私はきちんと訂正すべきだと、いうふうに思っております。NHKに対する国民の信頼は厚いものです。ま、事実に基づいた報道をお願いしたいというふうに思います」

 司会者「あのー、それは、あの、お聞きしましたが、私の、取材現場の、この、と、かなり信頼できる情報に基づいて書いてある、というふうに言っておりますからね、まあ、かなり見解が違ってるんじゃないかと――」

 ボンボン岡田「当初は二入しかいません。その一方である私が、はっきりと否定しているわけです(自分からニ、三回頷く)」

 司会者「ハイ、ハイ」

 この遣り取りのみでこの話題は打ち切られる。

 なぜ司会者は、「本人が否定しても、事実ということもあります」と切り返すことができなかったのだろうか。このことは現実にいくらでも転がっている事実である。

 ボンボン岡田はちょっと聞き取りにくかったが、確かに「当初は二入しかいません」と言っている。件の記事は、〈自民党の谷垣総裁に近い党幹部と会談して大連立を打診し、この党幹部が「野田政権の延命につながるだけだ」として、断っていたことが分かりました。〉と伝えている。党幹部と会談したことは事実ということになる。

 だが、会談の目的とどのような議論を行ったのかの内容に関しては岡田ボンボンは何も言わない。会談の目的はそのときの政治状況に於ける会談の必要性から自ずと判断できることだから、その必要性から外れることを言うことはできない。

 要するに目的も内容も話さずにいる、秘密にしている、会談相手もその実名を明かさないということは、いくら本人が否定しても、その否定を絶対とすることはできないことになる。

 先ずは現在の政治状況に於ける必要性に則った会談目的と会談相手、会談内容を明かしてから、否定すべきだが、そういった手続きを一切踏まずに否定のみをしている。信用できるはずはない。

 否定が事実ではなく、非事実の典型的例は「核兵器を持たず、作らず、持ち込まさず」の非核三原則であろう。非核三原則を謳い、歴代内閣は米軍の日本への核持ち込みを否定していながら、実際は持ち込んでいた。

 その否定の否定――事実解明に携わったのはボンボン岡田である。

 政権交代時の鳩山内閣の外相となったボンボン岡田はその年の11月末を目途に核密約調査を外務省に命令。2010年3月9日、日米密約問題に関する報告書の発表会見で政府として初めて核密約の存在を認めた。

 岡田 「これほど長期間にわたって、冷戦後も国会や国民に密約の存在が明らかにされなかったことは極めて遺憾だといわざるを得ない」

 自民党歴代内閣の密約存在否定に対する否定である。

 否定の暴露に自ら関わりながら、「その一方である私が、はっきりと否定しているわけです」といくら言ったとしても、否定が必ずしも事実とは限らないことを学習し、常識とすることができなかったらしい。

 1972年の沖縄返還時の米軍撤退問題で米政府が支払うとされていた土地の原状回復補償費400万ドルの日本政府肩代わりが早くから疑われていながら、歴代政府はその密約も否定し続けた。「そんなもんはありゃせん」と。

 だが、外務省調査チームが2010年3月5日の報告書で否定の否定を行い、密約の存在を認めた。《いわゆる「密約」問題に関する調査報告書》(平成22 年3 月5 日/外務省調査チーム)には次のような記載がある。  

(4)1972年の沖縄返還時の原状回復補償費の肩代わりに関する「密約」

この「密約」問題は、沖縄返還交渉の最終局面において、沖縄返還協定において米国政府が自発的に支払うべきこととなっている土地の原状回復補償費400万ドルを日本側が肩代わりすることを内容とする非公表の文書が作成されたのではないかというものである。〉

〈一方、この原状回復補償費の400 万ドルの支払の問題に関し、米側の強い要請に基づき、外務大臣からの書簡の発出について日米間で交渉が行われたものの、最終的に大臣の判断により、日本側としてこのような文書を作成しないとの結論に至ったことを示すメモが今回発見された。

なお、この400 万ドルについて、米国が沖縄返還に伴い日本側から受け取る3億2000万ドルの中から手当てしようとしており、日本側もそのことを承知していたことは、この間の日米間のやり取りの中からうかがえる。〉

 否定は真正な否定に必ずしも当たらず、とさえ言うことができる。当然、「本人が言っていることだから」も「本人が否定していることだから」も頭から信用することはできないことを常識化しなければならないはずだ。

 ボンボン岡田の否定を果たしてどれ程の人間が事実と解釈しただろうか。

 司会者はパネルに記載したNHKの3月の世論調査を持ち出して、消費税増税案に世論がどう受け止めているか先ず示してから、反対が賛成を上回っていることを尋ねる。

 「政府の“消費税引き上げ”方針」

 賛成27%
 反対36%
 どちらとも言えない35%

 司会者「これはまだまだ政府の方針が国民に理解されていいないという面がありますが」

 ボンボン岡田「まあ、聞き方にもよりますね。消費税賛成か反対か聞いたら、殆どの人はやっぱりできれば避けたいと、いう意味で反対というふうに書かれる方もたくさんいらっしゃると思います。

 しかし、消費税引き上げしないことで、例えば社会保障が持続可能性でなくなる。あるいは経済的に、イー、やがて大きな危機が来るかもしれない。

 そのことも併せて聞いてみれば、私はやはり、これは止むを得ないと、いう声がもっと多いと、いうふうに思います。

 まあ、あの、昨日もそうなんですが、ずっと週末各地区回って、対話集会開かさせていただいていますが、勿論強固に反対意見もときには出ますが、あの、まあ、いろんな条件について、えー、ご質問がありますけれども、何が何でも反対という声は、実はそう多くないんですね」

 世論の受け止めの議論はこれで終わる。

 岡田の発言を聞いていいて、やはりこの男はカネ持ちのボンボン息子だなあ、という印象を強くした。低所得層のことを何も理解していない。

 最後に、対話集会では「何が何でも反対という声は、実はそう多くないんですね」と言っているが、対話集会を開くということになれば、集会の目的に添って地元の民主党議員が支持者に対して動員をかけることが慣習化している。集まる人間があまりに少ないとみっともないし、民主党の評判にもかかってくる。

 このようにするのは増税反対人間ばかりが集まっても困るからである。マスコミが賛否の状況をそのまま報道した場合、不都合が生じる。

 勿論、動員からではなく、自らの意思で参加する有権者も存在するだろうが、反対意見が大勢を占めたからといって、政府が消費税増税法案を引っ込めるわけではない。既に増税に向けた政府方針は既定路線となっていて、方針自体は誰も覆すことはできない。増税か否かの運命を決めるのは国会を通過するかどうかであって、対話集会ではない。

 消費税増税反対の国民の誰が好き好んで対話集会に出かけるだろうか。反対派がもし積極的に出かけるとしたら、賛成派ばかりが占めると、誰もが増税を歓迎しているかのように報道される不都合を回避したい欲求からと考えることができる。

 対話集会がこういった状況下にあることは周知の事実であろう。この周知の事実からすると、集会が消費税増税に対する世間一般の賛否を必ずしも忠実に反映しているわけではないと言えるはずだ。

 岡田ボンボンはこの対話集会での「何が何でも反対という声は、実はそう多くないんですね」と、さしたる根拠もない“事実”を頼りの一つとして、「まあ、聞き方にもよりますね。消費税賛成か反対か聞いたら、殆どの人はやっぱりできれば避けたいと、いう意味で反対というふうに書かれる方もたくさんいらっしゃると思います」と、世論調査の額面通りの受け止めを否定している。

 原理主義者であるこの男のご都合主義の側面が象徴的に現れた場面であろう。

 カネ持ちのボンボン息子の顔が特に現れたのが次の発言である。

 「消費税引き上げしないことで、例えば社会保障が持続可能性でなくなる。あるいは経済的に、イー、やがて大きな危機が来るかもしれない。

 そのことも併せて聞いてみれば、私はやはり、これは止むを得ないと、いう声がもっと多いと、いうふうに思います」

 例え社会保障制度が持続可能性を失って将来の生活に不安を抱える可能性、政府財政をこのまま放置しておいて経済的な大危機が見舞った場合の国民サービスの低下による生活不安の可能性が共に否定できないことが予想できたとしても、だからと言って、増税は止むを得ないと殆どの国民が考えるわけではない。

 いわば止むを得ないとすることができない多くの国民も存在する。

 岡田はカネ持ちのボンボン息子だから、このように受け止める視点を全く持っていない。

 「安物買いの銭失い」という諺がある。ここに書き記すまでもなく、安い値段が一般的に必然とする粗悪品を買い求めて、粗悪品ゆえに長持ちしないことから、再び買い求めざるを得なくなり、カネを捨てたような結果となることを言い、安物買いを戒めている。

 だが、安物買いを戒めとすることができる人間は日々の暮らしに余裕のある人間に限られる。それなりの品質の高価な物を買い求めて長持ちさせ、いい買い物だった、払ったカネは取り戻すことができたと満足を味わうことができる特権は彼らにこそある。

 その日暮らしに負われてカネに余裕のない低所得層の人間は再び安物買いでその場を凌がなければならない。そして再び「銭失い」の失敗を経験する。

 カネに余裕が無いから、その繰返しを強いられる。

 誰が好き好んで安物買いの銭失いを演ずるだろうか。安物買いを強いられるのはカネがないからで、カネがないことが安物買いを否応もなしに強いる。

 だから、安物買いの銭失いはカネがあってもドケチといった例は除いて、「貧乏人の安物買いの銭失い」と言い替えることができる。

 貧乏人だから、その日その日の生活を考えることが精一杯のその日暮らしを強いられることになって、将来を考えることができなくなる。あるいは将来の生活を考えても意味がないことになる。

 消費税も同じである。国の財政や少子高齢化が進行していく社会保障制度を考えると、増税が必要と分かっていても、あるいは将来の生活の不安が解消されると保証されたとしても、その日暮らしに追われている低所得層にとっては、日々の暮らしだけしか考えることができず、明日の安心よりも今日の生活ということになって、日々の生活を圧迫することになる増税に忌避反応を示すことになる。

 デフレ下で物価が下がり、消費税増税分を製品価格に転化できない中小企業も同じであろう。今日倒産したなら、明日の安心も国の財政健全化も意味を失う。

 結果、将来の安心を犠牲にして、増税に反対することになる。

 要するに社会保障制度の持続性や国の財政健全化の必要性を併せて問う世論調査であったなら、増税は止むを得ないという声がもっと多くなると岡田ボンボンが言っていることは岡田ボンボンと同じ所得余裕層に限った話だということである。

 岡田ボンボンの発言を裏返すと、岡田ボンボンはカネに余裕のある者の視点で消費税増税を論じていることになる。
 
 明日のことよりも今日のことという生活の余裕のない国民が多く存在することに向ける目を見い出すことができない。

 以上言ってきたことを証明する記事がある。《本社世論調査:消費増税、反対依然6割》毎日jp/2012年4月2日 3時12分)

「内閣支持率」

 「支持する」 ――28%(前回調査28%)
 「支持しない」――48%(前回調査45%)

「消費税増税法案に賛成か」

 「賛成」――37%
 「反対」――60%

「小沢氏の採決反対姿勢」

 「支持」 ――30%
 「不支持」――65%

 私自身は大賛成である。
 
「話し合い解散」

 「賛成」――36%
 「反対」――53%

「逆進性対策」

 「軽減税率の導入」――79%(以上)

 「軽減税率の導入」79%が証明している、明日の安心よりも今日の安心であり、その日暮らしの追われている所得非余裕層の少なく存在であろう。

 政府が導入の方針としている逆進性対策としての給付付き税額控除ははっきりと内容、はっきりとした金額が決まっているわけではなく、対して軽減税率の導入は生活必需品の消費をどんなときでも安心できるものに保証することになるからだろう。

 ここからも、カネ持ちには縁のない、勿論カネ持ちのボンボン息子である岡田にも縁のない、日々の暮らしの余裕のなさからの生活防衛意識を窺うことができる。

 哀しきかな貧乏人。我もその一人なり。

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橋下大阪市長と維新市議団のリスト捏造の釈明に見る牽強付会、強弁、詭弁の類いの驕り

2012-04-01 11:23:19 | Weblog

 大阪市交通局の労働組合が昨年11月の大阪市長選で前市長応援目的で職員に知人紹介カードを配布、それをリストにした文書を30代、非組合員の男性非常勤職員が労働組合が政治活動をしていた証拠として内部告発すべく「大阪維新の会」に提出。

 さしずめ防衛省沖縄防衛局が宜野湾市長選に関して職員の親族対象に有権者リストを作成した選挙活動の大阪市長選版といったところだろう。

 杉村幸太郎大阪維新の会市議「交通局と組合が組織ぐるみで市長選に関与していたことを裏付けるものだ」(毎日jp

 大阪市交通局「でっち上げだ」

 そして告発合戦へと発展。交通局は無印公文書偽造等の容疑で容疑者を特定せずに大阪地検に告発、維新市議団も同3月14日、地方公務員法(守秘義務)違反容疑などで同地検に告発。(以上、毎日jp

 維新の会の告発は橋下徹新大阪市長の職員の勤務時間内の政治活動に対する激しい拒絶反応を受けたものだろう。橋下市長は庁舎内に居を構えた組合事務所の退去を求め、市役所と組合の関係を適正化する条例案を今年2月に提出するとしたが、結末はどうなったのか、インターネットを調べても分からなかった。

 橋下市長「中堅や若手の職員が、組合が人事に介入していると感じている。組合ににらまれると冷遇されるという不安感を抱かせる組織はだめ。市役所と組合の関係をルール化する」(毎日jp

 だが、この労組悪者視は一方的に過ぎる。組合の人事介入に対して上層部が毅然とした態度で跳ねつけることができずに言いなりになることの方がより問題であり、上層部をも悪者視しなければならないはずだ。

 少なくともここでの発言に於いて橋下市長にはこの視点が欠けている。

 この内部告発として維新の会に提供したリスト文書が市交通局の調査によって実は件(くだん)の非常勤職員が捏造したもであることが発覚。その調査結果を3月26日に発表した。非常勤職員も捏造であることを認めた。

 「交通局と組合が組織ぐるみで市長選に関与していたことを裏付けるものだ」と息巻いた杉村幸太郎大阪維新の会市議は格好のつかないこととなった。

 格好をつけるために橋下市長始め、市議団全体で開き直ることとなったのだろう。

 《職員リスト捏造:維新の会市議、労組に確認せず公表》毎日jp/2012年3月30日 15時9分)

 記事題名にあるように、杉村維新の会市議はリストの存在を労組に確認せずに公表にした。

 要するに真偽の確認を怠った。もし確認に対して労組が事実であることを偽ってニセモノとした疑いがあるなら、事実でないとしたリストとして公表すべきだったろう。

 公表を事前に了承していた維新の会市議団幹部の発言。

 維新の会市議団幹部「裏付けに追われていたら議員活動などできない」

 だからと言って、事実の確認も取らずに事実として公表することは、特に政治家である以上、許される行為ではないはずだ。

 開き直り以外の何ものでもない発言である。
 
 〈市議団は30日、記者会見を開き、交通局と労組が組織ぐるみで市長選に関与していたと断定的に指摘したことへの反省の意を示した。〉

 その上で――

 市議団「真偽が確定しなければ質疑できないなら、市民の真実を知る権利の障害になりうる」

 言っていることが意味不明そのものである。

 「真偽」を確定させる(=質す)ための質疑はできる。「真偽」を確定させる(=質す)とは、その結果は「真」の場合もあるし、「偽」の場合もある。

 「真偽」いずれかに確定することが(=質すことが)、いわばいずれかの答を見い出すことが「市民の真実を知る権利」に応える作業であろう。

 勿論、「真偽」いずれかの答を見い出すことができない場合もあが、「真偽」を確定しないまま(=質さないまま)「真」と看做して質疑した場合、相手の否定を頭から信用せずに否定する平行線を辿ることになって「市民の真実を知る権利」に応える作業とは決してならない。

 要するに「市民の真実を知る権利の障害になりうる」は牽強付会、強弁そのもので、詭弁の域を出ない。

 根拠がないにも関わらず、牽強付会、強弁、詭弁の類いを振りまわす。そこに驕りの気持がなければ不可能な所為と言える。

 「真偽」を確定させる(=質す)ためではなく、その手続きを省いて「真」と一方的に断定して、公表し、質疑に及んだ。

 記事は書いている。〈杉村市議によると、元職員は初めて会った昨年11月以後、労組の違法選挙ビラなど次々に告発し、労組追及の情報提供者として信頼していたという。リストのデータが渡ったのは公表9日前の1月28日。市議団の坂井良和団長(66)=5期目=は「一連の流れの中で一つだけ偽物が混じっていたら、気付くのは至難の業」とかばう。

 会派内のチェックも機能しなかった。議会で取り上げることは美延映夫(みのべ・てるお)幹事長(50)=3期目=がゴーサインを出し、他の市議団幹部は知らされていなかった。会派内は「偽物では」と懸念する意見も強かったといい、坂井団長は「疑問を持っていた。相談してくれていれば」と不備を認める。

 捏造発覚前、労組が、維新の対応を批判すると、市議団は機関誌「維新ジャーナル」に「組合は、リストは誰が何の目的で加工したのかを明らかにすべきだ」との抗議文を掲載した。市議団のホームページでは今もこの抗議文を載せ続けている。〉・・・・・

 坂井良和市議団団長の「一連の流れの中で一つだけ偽物が混じっていたら、気付くのは至難の業」だとの擁護論も牽強付会、強弁、詭弁の類いそのものであろう。

 「真偽」を確定させる(=質す)手続きを省いておいて、「一つだけ偽物が混じっていたら」もクソもないからである。「真偽」を確定させる(=質す)手続きを経た上で、「真」と断定できた場合に於いてのみ、初めて「一つだけ偽物が混じっていたら、気付くのは至難の業」だと言う資格を得る。

 橋下市長も牽強付会、強弁、詭弁の類いの擁護論を展開している。《橋下市長「市民をお騒がせした」…捏造問題陳謝》YOMIURI ONLINE/2012年3月31日09時07分)

 3月30日の記者会見。

 橋下市長「市民をお騒がせしたことをおわびしたい。

  (労組への謝罪について)杉村議員は元職員からじっくり話を聞き、不自然なところがなかった。議会活動(の自由)は最大限保障しないと議会は機能しない」

 「議会活動(の自由)」を言っているが、これぞ自由のハキ違えの見本そのものであろう。自由だからと言って、何でも許されるわけではない。自由にも守らなければならない規律が存在する。無制限の自由など存在しない。
 
 「議会活動(の自由)」が「最大限保障」されているとする規定を絶対だと振りかざすのはいいが、「真偽」の確定から(=質すことから)入らずに「真」と決めてかかって、その思い込みの上に議会活動を行った。「最大限保障」されるべき「議会活動(の自由)」に入る言動とは言えない。

 入る言動だとしたなら、2006年の民主党の偽メール事件も、「議会活動(の自由)は最大限保障しないと議会は機能しない」からとの同じ理由で許されることになる。

 橋下市長の「議会活動(の自由)」論にしても、牽強付会、強弁、詭弁の類いに入れなければならない。

 橋下市長の牽強付会、強弁、詭弁の類いと言い、市議団の牽強付会、強弁、詭弁の類いと言い、共に同列の意志発揮となっている。

 なぜ両者共、このような状況に立ち至ったのだろうか。

 牽強付会、強弁、詭弁の類いは自己を絶対善の立場、あるいは絶対正の立場に置くことによって生じる。このことは断るまでもないことであろう。

 自身が正しいか間違っているのかの客観的な自省心を持ち得て、自らの個々の言動に応じて検証する気持が働いていたなら、牽強付会、強弁、詭弁の類いは生じない。

 だが、そういった気持の働きもなく牽強付会、強弁、詭弁の類いに走るのは自己を絶対善、もしくは絶対正とする驕りがあるからに他ならない。

 自分は常に正しい、常に善だとする驕りが、そうでなかった場合、牽強付会、強弁、詭弁の類いを用いて自己の絶対善・絶対正を守ろうとする。自己の絶対善・絶対正を繕うべく謀る。

 自己を絶対善、絶対生とするあまり、なかなか驕りから逃れることはできない。

 その驕りたるや、昨年11月の大阪市長選で平松邦夫前市長522641票に対して橋下市長750813票のその差20万票の大差をつけた圧勝と朝日新聞社の2月(2012年)世論調査で大阪府民の支持率が70%、不支持14%の高い支持率=民意が支えている自己絶対善であり、自己絶対正の驕りであろう。

 11月27日投開票日夜の記者会見。

 橋下徹氏「民意が我々の主張を選んだ」(スポニチ)

 「民意」が選択した「我々の主張」とはしていても、選択の結果として、「民意」と「我々の主張」を共に絶対善・絶対正に位置づけて、相互対応させている。いわば両者を共に絶対善・絶対正の同じレベルに置いている。

 「民意」を絶対善・絶対正とすることで「我々の主張」を絶対善・絶対正とし、「我々の主張」を絶対善・絶対正とすることで、「民意」を絶対善・絶対正とする相互対応である。

 75万票の民意、20万票の大差を根拠にした自己絶対善・自己絶対正であろうが、民意の中には県知事時代に残した結果(=成果)に対する票ばかりではなく、期待に対する票も多く存在し、期待外れに終われば離れていく玉石混交の民意でありながら、「我々の主張」を絶対善・絶対正とするあまり、民意をも一緒くたに絶対善・絶対正と価値づけている驕りを否応もなしにそこに存在させているからこその相互対応であろう。
 
 「民意」と「我々の主張」を共に絶対善・絶対正と価値づけて相互対応させているからこそ、大学教授や評論家を公の場で「バカ学者」とか、マスコミに対して「バカマスコミ」と罵ることができる。

 インタネット上にあった橋下氏のツイッター。

 橋下市長「バカ文春やバカ新潮も自分たちもチェックを受ける権力者だと言うことを自覚しろ。僕は報道機関じゃないし、行政機関を使ったと思われるとしゃくなので、このバカ文春やバカ新潮の社員の行状について、ツイッターで情報収集したいと思います。どんどん世間に公表していきます」

 記事の形で主張した情報に反論や批判を加えるというのは理解できるが、ツイッターを通して収集した「社員の行状」に関わる情報をすべて「真偽」を確定せずに(質しもせずに)真と看做して「チェック」し、反論や批判を加えるというのだろうか。

 だとしたら、やはり自己を絶対善・絶対正を前提に置いた驕りの言動ということになる。

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