人間としての尊厳を自覚的に維持可能とする人生終末の安楽死制度導入を通した社会保障給付費抑制

2012-04-03 10:26:55 | Weblog

 民主党の社会保障制度改革は少子高齢化、国民の健康状況、貧困生活状況等々の現状追認の上に構築されている。

 このことは野田首相の記者会見等の発言が証明している。

 野田首相年頭記者会見(2012年1月4日)

 野田首相「昭和36年に日本の社会保障制度の根幹はできました。国民皆年金、国民皆保険。しかし、その後急速な少子高齢化によって、かなり今は様々なひずみが出てきているだろうと思っていますし、毎年1兆円以上の自然増が膨らんでくる。あるいは基礎年金の国庫負担を捻出をする、2分の1を実現するためにも、自公政権以降、かなり苦心惨憺をしてきているという状況でありますが、もうこれ以上先送りできない状況だと思います。

 従来の社会保障のレベルを維持することも難しい状況でありますが、これからますます少子化が進んでいく中で、支える側、支えられる側だけではなくて、支える側の社会保障も必要です。すなわち若者の雇用や子育て支援といった、こうした全世代対応型の社会保障にしていかないと、日本の社会保障の持続可能性を担保することは私は困難だと思っています。この問題は、私はどの政権でももはや先送りのできないテーマになっていると思います」

 「毎年1兆円以上の自然増」を前提として社会保障制度の改革を訴えているということは、「自然増」を現状追認した社会保障制度の構築ということであろう。

 勿論、少子化対策、高齢化対策、年々増加していく生活保護受給者対策、介護や医療向けの健康管理対策等々、様々に手を打っているだろうが、決定的な打開策、原因療法は見い出せないものとして、それらに費やされる「自然増」を認め、その対処療法に消費税増税を安定財源とした社会保障制度を以って対処するということであるはずである。

 社会保障制度を持続可能なものにしなければならないが、その前に「毎年1兆円以上の自然増」を可能な限り抑制して、年々の社会保障給付費を減らすところから、新たな社会保障制度を確立しますとは決して言っていない。

 第180回国会に於ける野田首相施政方針演説(2012年1月24日)

 野田首相「過去の政権は、予算編成のたびに苦しみ、様々な工夫を凝らして何とかしのいできました。しかし、世界最速の超高齢化が進み、社会保障費の自然増だけで毎年一兆円規模となる状況にある中で、毎年繰り返してきた対症療法は、もう限界です。

もちろん、一体改革は、単に財源と給付のつじつまを合わせるために行うものではありません。『社会保障を持続可能で安心できるものにしてほしい』いう国民の切なる願いを叶(かな)えるためのものです」

 野田首相は「毎年繰り返してきた対症療法は、もう限界です」と言っているが、「毎年1兆円以上の自然増」を現状追認した社会保障制度改革こそ、原因を断つものでない以上、対処療法であるはずで、勘違いも甚だしい。

 野田首相ビデオメッセージ/「社会保障と税の一体改革について」 (2012年2月17日)

 野田首相「人類が経験をしたことのない超高齢化が進んでいますので、医療や介護の負担増、今の制度を維持しているだけでも自然と増えていくためにかかるお金が約1兆円です。その1兆円というのは1万円札を平積みすると高さ1万メートルです。エベレストよりも高い高さになります。それぐらい、毎年の自然増で社会保障費が膨らんでいるという状況でございます」

 常に「毎年1兆円以上の自然増」を現状追認した発言となっている。

 平成23年度に取り纏め、平成23(2011)年10月28日公表の平成21年度(2009年度)の社会保障給付費は99兆8000億円となっている。「毎年1兆円以上の自然増」ということなら、2010年度で100兆円を優に超えていることになる。

 内訳は――

 年金 51兆7246億円、
 医療 30兆8447億円、
 福祉その他 17兆2814億円

 いわば100兆円を超える社会保障給付費に対して「毎年1兆円以上の自然増」ということである。

 社会保障制度の持続可能性もいいが、その持続可能性を維持するために消費税を追加的に増税していく現状追認・対処療法的政策では将来の生活の安心を得る前に今日の生活の安心を失う国民や中小企業が多く出てくるはずだ。

 国は税金を使って、その手当もしなければならない。

 現状追認・対処療法ではない、医療関係の社会保障給付費の元を改善していく原因療法の一助として、喫煙本数・喫煙回数、飲酒量・飲酒回数、日々の運動量や運動回数等の記入から、健康診断、病気治療のすべてを記録する、生まれてから死ぬまでの国民一人ひとりの一生の“健康履歴”の導入を次のブログで提案した。

 2010年11月21日記事――《社会保障費圧縮のための全国民対象の健康歴導入を- 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》

 2011年11月2日記事――《年金問題を含めた社会保障給付費圧縮は根本的な原因療法に目を向けるとき - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》

 2011年11月25月記事――《民主党の「医療扶助」制度見直し検討から、再度“健康履歴”を監視役とする健康管理の自己責任を考える - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》

 健康履歴によって証明されることになる不摂生や不注意からの病気治療や介護は通常の窓口負担より重くする健康管理に対する自己責任制の導入によって、すべての人間ではないにしても、多くが自身の健康管理に自覚を持つことになり、その延長線上に国の給付の抑制を狙いとした。

 今回は安楽死制度の導入である。多分、当時行なっていたメーリングリストの記事だと思うが、2004年10月12日に埼玉県皆野町の駐車場停車のワゴン車から発見された男女7人の集団自殺体に基づいて安楽死制度について書いた。

 再度ここに掲載してから、社会保障制度との関係で安楽死制度を把えてみる。

 集団自殺──死の選択について(Hiroyuki.Teshirogi/2004年10月30日 9:06)

 埼玉県北部の町の駐車場で集団自殺した7人は、東京都の34歳の女性がインターネットの自殺サイトに、「男女問わずグループで実行したい。前に失敗したので、今度は確実に」と書き込んで志願者を募集したのに応じて、全国から集まった7人だと言う。

 内訳は、東京都の34歳女性、さいたま市の33歳の女性、所沢市の20の歳男性、川崎市の26歳の男性、東大阪市の20歳の男性、青森県の20歳の男性、佐賀市の20歳女性。主催者と、いたま市の33歳の女性を除いて、他は全員20代で、26歳が1人、他の4人は20歳である。まだ若い命をあたら散らしてしまったと見るか、本人が選んだことだからと見るべきか。

 ネットで自殺志願者を募集した東京都の34歳の女性は「前に失敗した」自殺未遂歴がある。この件以外にも、ネットで知り合った人間同士が自殺する事件が何度か起きている。

 仲間を募るとは、道連れを欲するということだろう。一人では自殺に踏ん切れないことの裏返しであろうが、そのような自殺予備軍と言うか、潜在的自殺願望者と言うか、全国で相当数いるのではないだろうか。呼び掛けに、遠くは佐賀、青森から駆けつけている。ネットの力でもあるが、その距離を億劫ともしない駆け付けから判断すると、目的達成に向けたエネルギーは相当なものがある。

 そのエネルギーを、例えば有名タレントの追っかけに振り向けたらどうかと言っても、自殺したい人間が自殺に限定したエネルギー放出だからこそ、自己行為を濃縮させることができたのだろう。逆もまた真なり。韓国美男俳優を追っかける日本女性に、そのエネルギーをもっと社会的に有意義なことに振り向けたらどうかと注意したとしても、彼女たちは有名人の追っかけだから、あれだけ熱狂できるのであって、あの熱狂は如何なる社会性とも無縁で、他に振り向けようがない性格のものであろう。

 自殺に成功した7人はお互いに生まれてからこの方、一度も会ったことのない見知らぬ他人同士という形で自殺というそれだけの目的で、袖振り合う。自己紹介し合うのだろうか。決行の段階に至ったなら、多分、黙々と車の窓に目張りし、屋根から車全体にすっぽりとシ-トをかぶせ、車内に用意してあった練炭に火をつける。そして、息を引き取る瞬間をそれぞれが待つ。そのときが来るまで、自分が死にたい理由、この世に生きていたくない理由をお互いに告白しあうのだろうか。それとも、みな一様に無言でそのときを待つのだろうか。自分独りではなく仲間がいることに心強さを感じながら。

 死ぬということは、この世から死の領域へ飛び越えるという感覚になるのだろうか、それとも、死の中に入っていくという感覚になるのだろうか。自殺の形式によって違うのかもしれない。首吊りとか列車に飛び込むとかの自殺は、飛び越えるという感覚になるのではないだろうか。そんな気がする。服毒、入水、ガス吸引などの自殺は、一定の時間待たなければならないから、中に入っていくという感覚になる気がする。

 自殺を悪とする、あるいは弱い人間がすることと考える人間がいるが、必ずしもそのように一括りにしてもいいものだろうか。一つの考えを絶対として、その考えに人間を従わせようとするのは独裁である。この世に期待できずに、あの世に期待する自殺。あるいは、この世で生きていくだけの体力も気力も使い果たした、すべて終りにしようと決意する自殺、あるいは兄弟や他人に迷惑をかけることも含めて寝た切り状態となることを醜悪と受止める感覚(食事から排泄、入浴、着衣・脱衣、すべての必要を自分で満たすことを善・美とする感覚)があって、身体の自由が利くうちに寝たきりとなることを阻止しようという自殺は、決して悪でも、意志が弱いからでもない。

 ただ生きているのではこの世に生きる資格はない。この世に生きるからには、ただ生きているのではないという自覚を誰もが持つべきではないいか。そのような自覚を持てと、学校で教えるべきだと思う。自分がただ生きているのか、そうではないのか、ときどき振り返れと。自省心を養うキッカケとなるだろう。

 自殺志願者を募るサイトがあるかと思うと、自殺予防サイトがある。ネット上で会話を続けるうちに自殺を思いとどまった者もいるというが、その深刻度が自分も他人も判別不能なのだから、予防サイトが直ちに有効だとは断言できない。自殺したい気持をサイトに書くのは最近の傾向だろうが、誰彼なしに死にたい、死にたいと言いながら、一向に自殺しない人間というものが昔からいた。逆に、死にたいという言葉一つ誰にも話さずに、ある日突然自殺してしまう人間もいる。人の心を窺うのは難しい。相手が話してくれたからといって、理解できるわけではない。

 自分が何をしたいのか、何をしようとしているのか、どう生きようとしているのか、たいした生き方はしていないから、あまり偉そうには言えないが、学校は知識の暗記ばかりにエネルギーを注がないで、ときには自覚することを教えるべきではないだろうか。
 
 7人が集団自殺したのは11日の夕方以降らしいが、同じ日の朝7時過ぎに広島県尾道市の県立運動公園のジャイアントスロープなる70メートルの大型滑り台を持参したプラスチック製のそりで7歳の娘を膝に抱えて滑り降りた母親が、勢い余って制御用の平坦部分とその先の逆反りとなった斜面の10メートルを滑り続けて、そのまま高さ60センチの転落用マットをジャンプして、4メートル下の通路に叩きつけられ、病院に運ばれたが、母親は死亡、7歳の娘は重態だという事故が新聞・テレビで報じられた。

 2人がジャイアントスロープを滑ったのは午前9時から午後5時までと決められている時間外の朝早くであったばかりか、公園の管理小屋がまだ開いていない時間であっただけではなく、雨が上がったばかりで、スロープは滑りやすくなっていたという。

 テレビで映していたが、スロープのすぐ脇に、「雨上がりは滑りやすいから、滑るのは禁止します」と注意書きした看板が立ててあった。スロープは人工芝を張って造られている。人工芝だけではなく、普通の草も濡れていると、滑りやすくなる。平坦な場所にある濡れ落ち葉でも、どうかすると靴が滑って、転倒しかかることがある。例え看板に気がつかなかったとしても、そういった知識がなかったのだろうか。

 母親、あるいは父親が、ときには夫婦で、夏の暑い日に窓を閉め切って駐車した車に幼い子供を閉じ込めたまま、長時間パチンコに没頭して、熱射病で死なせてしまう事件が毎年何件か起きる。例え新聞・テレビでそういった事件を目にしなかったとしても、暑い日に窓を長時間閉め切った車のドアを開けたとき、内部が蒸し風呂状態に暑くなっていて、ハンドルが熱くてすぐには握れないといったことを経験しているはずである。そういった経験を生かすことができない親に子供は虐待を受けて死ぬ子供のように自己の意志からではない死を選択させられる。

 雨上がりに滑った母親は、知識がなくて、あるいは知識を生かすことができなくて、滑る過ちを犯したのだろうか。だとしたら、知識のある人間から見たら、まさしく自殺行為そのものでしかない、母親の愚かしさが招いた事故ということになる。だが、知識があって滑り降りたとしたら・・・・・雨上がり、時間外という状況を考え併せると、それを利用したと考えることもできる。

 どちらであっても、考えられないような無謀なことをして死を招いてしまうことを自殺行為と言うなら、自らの事故が原因で自分の子供を含めた他人に自己の意志からではない死を選択させることを、他殺行為と言えるのではないだろうか。どちらも、愚かさを誘引としている。

 厭世自殺・生活苦自殺・病気自殺・リストラ自殺・失恋自殺、そして虐待死などの事故死、殺人等々、自己選択死や他者選択死。その両者でもない、いわゆる天寿を全うする老衰死や病気からの病死が絶えることのない水の流れのように日々大量に発生する。

 80歳,90歳まで長生きするのが善であるかのような考えが世の中には存在するが、年代に応じて主体的に選び取っていく生き方ではなく、環境が命じるままに受身に生きていった末の長生きなら、さして意味があるようには思えない。何も趣味を持たず、テレビを見る以外時間をつぶす方法を知らない長生きしている老人がゴマンといる。

 漫然とテレビを見ているだけだから、オレオレ詐欺をいくら報道しても、車の中に長時間放置しておいた子供を熱射病で死なせてしまう親と同様に、見聞を知識とすることができず、騙されて大金を振り込んでしまう老人が跡を絶たない。性別から言うと、男よりも圧倒的に女の方が騙される確率が高いという調査結果が出ている。在宅率が高いからということもあるだろうが、主体的局面は男、あるいは夫に任せて、自分は従の位置にいる女性特有の受動性が災いして、自発的思考性に欠けるということもあるだろう。

 国は介護制度や医療制度、年金制度をいろいろといじくりまわすが、それらの制度を通して、自殺とは異なる、他人の手による自己意志からの選択死──安楽死を制度として取り上げる時期に来ているのではないだろうか。但し、末期患者の生死の選択に特定した安楽死ではない。意思表示可能なすべての国民を対象とした安楽死制度である。

 例えば、自殺という形の死をなくすことができないなら、若くして死にたい人間に、その意志が固ければ、国が制度として安楽死を施す。意志確認の作業過程で、思いとどまる人間もいれば、翻意しない人間もいるだろう。国は本人の最終意志に忠実に従う。

 尤も、意志確認の過程で自殺の決意が鈍ることを恐れて、国の安楽死制度に頼らずに自殺するものもいるだろうから、自殺にも対応した安楽死制度ができたからといって、自殺が完全になくなることはないだろうが。

 但し、そのような安楽死制度を確立させることによって、肉体的衰えから主体的に生を掴み取っていくことが困難となり、安楽死を選ぼうという人間も出てくるはずである。車椅子や手押し車に頼ってまで長生きしたくないと考える人間や、寝たきり状態にとなって人の世話になるということはしたくないという人間である。

 そして、何よりも、自己の死を安楽死という形で選択できるとすることによって、多くの人間が自分に関する死の選択を考えるようになるだろう。どういう死を選ぶか、あるいは選ばないか。選ぶ前に、自動車事故死や殺人の被害者となる可能性まで考える人間も出てくるだろう。自己選択死・他者選択死を含めて、死の形を考えるということは、自分はどう生きるべきかを考えることであり、それは同時に、何をすべきか、何をしたいか、生に対する自己の意志を確認する作業(主体的生の選択)でもあるはずである。

 安楽死制度は決して、マイナスの方向性だけを持っているわけではない。


 このような安楽死制度は自殺のススメとなる危険性を一側面ともし得るが、“自覚的生”のキッカケとならないだろうか。

 いわば安楽死制度が存在することによって、“自覚的生”の先に意志的、あるいは無意志的な死の選択の一つとして意志的な安楽死制度を見据えることとなって、そのことが逆に尊厳ある生とは何かを自身に照射することになるはずだ。

 時と場合によって安楽死制度を人生の終末に置く、このような自覚性は常に生命の尊厳を認識させ、このことが健康管理や健康維持に役立ち、結果として国の社会保障給付費の抑制に繋がっていくということはないだろか。


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