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《5月23日(金) 鈴木克昌生活の党代表代行・幹事長定例記者会見要旨 》
『集団的自衛権、国民への丁寧な説明なしにことが進むことは断じて許されない』
【質疑要旨】
・5月28日予算委員会集中審議について
・相次ぐ行政のミスについて
・民主党の代表選立候補要件緩和の動きについて
・他党と協議の場を持つことについて
アメリカでは従軍慰安婦や南京虐殺、あるいは東京裁判に対する日本政府や保守派政治家たちの姿勢に対する記憶だけではなく、日米戦争そのものの記憶が未だ続いているようだ。
《米国、日本本土の空襲部隊に 勲章 議会で法案可決》(47NEWS/2014/05/21 10:41 【共同通信】)
第2次大戦中、米軍初の日本本土攻撃となった「ドゥーリトル空襲」に加わった元兵士に対して、下院で既に可決されていた米最高勲章の一つ「議会金メダル」を授与する法案が5月20日、上院でも可決され、オバマ大統領の署名で成立する運びとなると伝えている。
記事。〈ドゥーリトル中佐が指揮した空襲は、旧日本軍による真珠湾攻撃から4カ月後の1942年4月18日に実行。米国では対日戦争の局面転換につながる象徴的な攻撃として認識されている。〉――
つまり、真珠湾攻撃によって日米が開戦した1941年12月8日からたった約4カ月後の1942年4月18日のジミー・ドゥーリトル少佐率いる80名乗員の陸軍機B‐25・16機のドゥーリトル日本本土空襲が日米戦争の勝敗の行方を占うこととなった。
ここで思い出したのが、1941年(昭和16年)9月6日第3次近衛内閣時の御前会議に於いて「帝国は自存自衛を全うする為対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す」と戦争準備に入ることを取り決めた「帝国国策遂行要領」決定前日の9月5日、1937年、38年と陸軍大臣を務めた日中戦争拡大派の杉山元陸軍参謀総長が昭和天皇に呼ばれて皇居を訪問、天皇に日米戦争の予想を聞かれて答えた内容であるが、その前に「ドゥーリトル空襲」についてもう一つ別の記事がどういった解説で報道されているか見てみる。
《ドーリットル隊に最高位勲章=日本初空襲「傑出した勇気」- 米》(時事ドットコム/2014/05/24-07:40)
〈ドーリットル隊による本土空襲は、1941年12月の真珠湾攻撃以来、日本軍に押されていた米軍が、日本に心理的動揺を与えるため立案。ドーリットル中佐率いる16機の陸軍爆撃機B25が1942年4月、太平洋上の空母から発進し、東京などを空襲した。
ドーリットル隊で無事帰投できた機体はなく、日本軍に捕らえられた搭乗員8人のうち、3人が処刑された。一方、衝撃を受けた日本は42年6月、空襲阻止のためミッドウェー作戦を発動して敗北し、戦局は日本不利へと傾いた。〉――
要するに日米開戦1941年12月8日からたった約4カ月後の1942年4月18日には日本の制空権は機能せず、アメリカの爆撃機の侵入を簡単に許し、日本を横断させてしまう程に大日本帝国軍隊は脆弱な軍組織でしかなかった。
そしてこの脆弱性を露わにした事件がドゥーリトル空襲であり、日米決戦のそもそものターニングポイン ト(転換点)となったと両記事共記している。
記事解説の、〈ドーリットル隊で無事帰投できた機体はなく〉 と書いてあることは、「Wikipedia」によると、次のようになっている。
〈ドーリットル機は茨城県から東京上空に侵入し、東京、川崎市、横須賀市、名古屋市、四日市市、神戸市を爆撃〉してから、いわば〈日本列島を横断し、中華民国東部にて乗員はパラシュート脱出した。この結果、15機のB-25が全損となった。8番機はソ連のウラジオストクに不時着、乗員は抑留された。乗員は戦死が1名、行方不明が2名、捕虜となったのが8名で、残る隊員はアメリカへ帰還して熱烈な歓迎を受けた。〉と解説されていて、日本本土で撃墜を受けたわけではない。
では、1941年(昭和16年)9月5日の天皇と杉山元大日本帝国陸軍参謀総長の遣り取りを見てみる。その発言は『小倉庫次侍従日記・昭和天皇戦時下の肉声』(『文藝春秋』/2007年4月特別号)が歴史家半藤一利氏の解説として取り上げている。
昭和天皇「アメリカとの戦闘になったならば、陸軍としては、どのくらいの期限で片づける確信があるのか」
杉山元「南洋方面だけで3ヵ月くらいで片づけるつもりであります」
昭和天皇「杉山は支那事変勃発当時の陸相である。あの時、事変は1ヶ月くらいにて片づくと申したが、4ヵ年の長きにわたってもまだ片づかんではないか」
杉山元「支那は奥地が広いものですから」
昭和天皇「ナニ、支那の奥地が広いというなら、太平洋はもっと広いではないか。如何なる確信があって3ヵ月と申すのか」
杉山元「・・・・・」(半藤一利解説は、〈ただ頭を垂れたままであったという。〉と書いている。)
日本が主導権を決定的に失うこととなったミッドウエー海戦は1942年4月18日のドゥーリトル空襲から約2ヶ月半後の1942年(昭和17年)6月5日から7日にかけてのことである。
「南洋方面だけで3ヵ月くらいで片づけるつもり」が逆に開戦からたった4ヶ月でアメリカの日本本土空襲によって局面転換のキッカケとされ、その約2ヶ月半後に早くも日米いずれが優劣かが露呈することとなった。
盤石の制空権を保持していながら、開戦から4ヶ月でそれが機能しなくなるということはないはずだから、最初からアメリカの攻撃に機能し得る制空権を擁していなかったことになる。いわば日本の軍組織そのものが最初から脆弱な体制にあった。
このことは「Wikipedia」に書いてあるドゥーリトル空襲に対する大本営発表が証明することになる。
〈昭和天皇は杉山元参謀総長からではなく東久邇宮稔彦王防衛総司令官に真相を直接報告せよと勅命。
それに対し、東久邇宮は「敵機は一機も撃墜できませんでした。また今のような体制では国内防衛は不可能です」と答申する。なお、大本営は「敵機9機を撃墜。損害軽微」「わが空地上両航空部隊の反撃を受け、逐次退散中なり」と発表した。
中部軍に至っては、空襲直後に「東京防空隊ノ撃墜セシ機数7」を報告している。しかし当日は晴天であり、墜落した航空機など市民からは 一機も確認されなかった。このため、大本営の発表に対し、『皇軍は空機(9機と空気をかけた駄洒落)を撃墜したのだ』と揶揄するものもいた。そのため陸軍は中国に不時着したB-25の残骸を回収し、4月25日から靖国神社で展示して、国民の疑念を晴らそうとした。
4月26日の朝日新聞は『まさしく大東亜戦下の靖国神社臨時大祭にふさわしい景観』と評している。陸軍報道部は「指揮官はドゥ・リトルだが、実際(被害)はドゥ・ナッシング」と発表した。この空襲のため東京六大学野球の開会式が中止となった。〉――
虚偽情報を国民に流布させて、自らの体面を保たなければならかったことの裏を返すと、大日本帝国軍隊が実態は張子の虎(=脆弱な組織)でしかないことの隠蔽そのものを意味する。
ありもしない戦果を誇ることで、大日本帝国軍隊が盤石であることを知らしめようとした。そして日本で撃墜したわけではない、中国本土に不時着したB-25の残骸を回収して靖国神社に展示するというウソの上にウソを塗り重ねるゴマカシを働かなければならなかった。
杉山元陸軍参謀総長の「南洋方面だけで3ヵ月くらいで片づけるつもりであります」の勝算自体が緻密・具体的な戦略によって3ヵ月というメドを成り立たせていたわけではなかった。だから、昭和天皇に問い詰められて、これこれこういった戦略を用いて戦いに臨む計画から3ヵ月という日数を計算しましたと答えることができずに、言葉を失うこととなった。
このように戦略もなく安請け合いするような人物が陸軍大臣を務め、太平洋戦争開戦時の大日本帝国軍隊の陸軍参謀総長であったということ自体が、大日本帝国軍隊という組織の質を既に証明していることになる。