安倍晋三の4月15日記者会見は集団的自衛権憲法解釈行使容認を求める余り数々の情報操作・ウソがある

2014-05-16 09:20:30 | 政治




      生活の党PR

       《2014年5月15日総合政策会議 安保法制懇報告書提出を受けて、鈴木代表代行・幹事挨拶要旨》
   

 昨日4月15日夕方6時から、安倍晋三は自身の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇) から政府の憲法解釈では禁じてきた集団的自衛権の行使を容認するよう要請した報告書を受理、記者会見を総理官邸で開いた。

 何度でもブログに書いてきたが、私自身は集団的自衛権行使容認に反対ではない。但し憲法が国家の恣意的権力行使を制約する立憲主義を原理としている以上、憲法は国民のためのものであって、その如何なる規定を変えるのも、国民の手を経なければならないはずだから、一内閣が憲法解釈で変える権利はないはずである。

 いわば一内閣の責任に於いて憲法解釈で変えるのではなく、国民の責任に於いて憲法を変えるか変えないかを通して認める認めないかを決めるべき問題だと考えている。

 だとしても、安倍晋三のこの記者会見には憲法解釈で認めることを国民に納得させようとする余り、数々の巧妙な情報操作――ウソを紛れ込ませている。

 発言は首相官邸HPに拠った。

 安倍晋三は集団的自衛権の憲法解釈行使容認は「私たちの命を守り、私たちの平和な暮らしを守るため」だと言っている。いわば日本の平和と国民の生命・財産を守るためだと。

 安倍晋三「今や海外に住む日本人は150万人、さらに年間1,800万人の日本人が海外に出かけていく時代です。その場所で突然紛争が起こることも考えられます。そこから逃げようとする日本人を、同盟国であり、能力を有する米国が救助、輸送しているとき、日本近海で攻撃があるかもしれない。このような場合でも日本自身が攻撃を受けていなければ、日本人が乗っているこの米国の船を日本の自衛隊は守ることができない、これが憲法の現在の解釈です」――

 安倍晋三「(海外で平和活動やPKO活動する日本人が)突然武装集団に襲われたとしても、この地域やこの国において活動している日本の自衛隊は彼らを救うことができません。一緒に平和構築のために汗を流している、自衛隊とともに汗を流している他国の部隊から救助してもらいたいと連絡を受けても、日本の自衛隊は彼らを見捨てるしかないのです。これが現実なのです。

 皆さんが、あるいは皆さんのお子さんやお孫さんたちがその場所にいるかもしれない。その命を守るべき責任を負っている私や日本政府は、本当に何もできないということでいいのでしょうか。内閣総理大臣である私は、いかなる事態にあっても、国民の命を守る責任があるはずです。そして、人々の幸せを願ってつくられた日本国憲法が、こうした事態にあって国民の命を守る責任を放棄せよと言っているとは私にはどうしても考えられません。

 こうした事態は机上の空論ではありません」――

 海外在住の日本人が突然紛争に巻き込まれること、そのような日本人を救助・輸送している米軍に対する攻撃や攻撃を受けた他国部隊からの自衛隊に対する救援要請等々の「事態は机上の空論ではありません」と、起こらない保証はないという文脈で言っている。
 
 確かに安倍晋三が言うように起こらない保証はない。

 安倍晋三は同じ文脈の発言を後の方で繰返している。

 安倍晋三「日本は戦後70年近く、一貫して平和国家としての道を歩んできました。これからもこの歩みが変わることはありません。しかし、平和国家であると口で唱えるだけで私たちの平和な暮らしを守ることはできません。私たちの平和な暮らしも突然の危機に直面するかもしれない。そんなことはないと誰が言い切れるでしょうか。テロリストが潜む世界の現状に目を向けたとき、そんな保障はどこにもありません。政府は、私たちは、この現実に真正面から向き合うべきだと私は考えます」――

 その通り、何も起こらないと「誰が言い切れる」のか。何の保証もない。

 但し、ここには言わないウソが存在している。言わないことによる情報操作を窺うことができる。

 安倍晋三の発言は突然紛争に巻き込まれた海外在住の日本人を救助・輸送している米軍がテロ集団や米国を敵とする非民主国家の軍部隊に襲われた場合、日本の自衛隊が集団的自衛権行使に基づいて襲撃側に対して攻撃を仕掛け、米軍を救助・援護する事態を想定したものである。

 さらには海外で平和活動やPKO活動する日本人が突然武装集団に襲われた場合、その地域や国で活動していた自衛隊が集団的自衛権行使に基づいて救助に向かい、武装集団に攻撃を仕掛けて救助するという役目を想定した発言でもある。あくまでも国民の生命・財産を守るために。

 いわば自衛隊はテロ集団や敵国部隊と交戦する機会が増える。だが、安倍晋三が言っているように平和な暮らしが突然の危機に直面しない保証がないと同様に、邦人救助や同盟国軍部隊援護を目的としていたとしても、簡単に目的を果たし、全てが成功するという保証もない。交戦する機会の増加に応じて逆に撃退され、退却を余儀なくされるケースが生じない保証もないし、一進一退の膠着状態に陥らない保証もない。

 当然、自衛隊員すべてが無傷(ムキズ)というわけにはいかなくなる。一進一退の膠着状態が単なる交戦から、安倍晋三が掲げている積極的平和主義に反して戦争状態に進まない保証もない。例えば中東やアフリカでテロ集団によって邦人が拉致・誘拐されて人質となった場合、その国が許可するという条件付きだが、移動しながら敵攻撃から身を守る作戦を常套手段としている武装集団を自衛隊はどこまでも追跡して邦人の救助を果たさなければならなくなる。なかなか目的を果たせないからと言って、ここでヤーメたというわけにはいかないだろう。

 それが何カ月もかかる場合、その間に自衛隊の増派という事態も起こり得るし、自衛隊員を交代させながら、戦闘に当たるという事態も生じる。少なくとも生じないという保証はない。

 例えそれが外国の地での戦闘であったとしても、長引く状況に陥った場合、自衛隊員にしても日本国民である以上、日本は戦争状態に入ったことになる。自衛隊員以外の国民は俺達に関係ないこととすることはできない。

 もし戦争状態ではないとするなら、日本が戦前、外国の地である中国国土で日中戦争を仕出かしていたとき、日本は戦争状態にはなかったことになる。

 だが、安倍晋三は集団的自衛権行使によって自衛隊員すべてが無傷というわけにはいかなくなる危険性には触れずに集団的自衛権の憲法解釈行使容認を国民に納得させようとする情報操作・ウソを用いているばかりか、次のような情報操作・ウソを駆使している。

 安倍晋三「(集団的自衛権行使によって)日本が再び戦争をする国になるといった誤解があります。しかし、そんなことは断じてあり得ない。日本国憲法が掲げる平和主義は、これからも守り抜いていきます。このことは明確に申し上げておきたいと思います。むしろ、あらゆる事態に対処できるからこそ、そして、対処できる法整備によってこそ抑止力が高まり、紛争が回避され、我が国が戦争に巻き込まれることがなくなると考えます」

 安倍晋三「私たちの命を守り、私たちの平和な暮らしを守る、そのためにはいかなる事態にも対応できるよう、常日頃から隙のない備えをするとともに、各国と協力を深めていかなければなりません。それによって抑止力が高まり、我が国が戦争に巻き込まれることがなくなると考えます」――

 平和主義の反対語は戦争主義である。民主国家の指導者の誰が戦争主義を掲げるだろうか。誰もが平和主義を掲げながら、時として戦争に巻き込まれる。日本も集団的自衛権を行使するようになれば、同じ状況に立たされることを覚悟しなければならないはずだが、日本は戦争に巻き込まれないと情報操作・ウソを平気で口にしている。

 邦人救助・輸送の米軍部隊がテロ集団や米国を敵とする非民主国家の軍部隊に襲われない保証はないと同様に、あるいは海外で平和活動やPKO活動する日本人が突然武装集団に襲われない保証はないと同様に、米軍のイラク戦争やアフガン戦争が証明しているようにいくら抑止力を高めたとしても、それが部分的衝突や短期間の戦闘で終わる保証とはならないことから考えてみても、日本が戦争に巻き込まれないとは断言できないはずだが、その逆を断言する情報操作・ウソを展開している。

 更に次のような情報操作・ウソを用いている。

 安倍晋三「一つは、個別的か、集団的かを問わず、自衛のための武力の行使は禁じられていない、また、国連の集団安全保障措置への参加といった国際法上、合法な活動には憲法上の制約はないとするものです。しかし、これはこれまでの政府の憲法解釈とは論理的に整合しない。私は憲法がこうした活動の全てを許しているとは考えません。したがって、この考え方、いわゆる芦田修正論は政府として採用できません。自衛隊が武力行使を目的として湾岸戦争やイラク戦争での戦闘に参加するようなことは、これからも決してありません」――

 武力行使を初期的な目的として「湾岸戦争やイラク戦争での戦闘参加」のような類似的なことはないと断言できても、「一緒に平和構築のために汗を流している、自衛隊とともに汗を流している他国の部隊から救助してもらいたいと連絡を受け」て集団的自衛権行使に基づいて救助に向かった場合、当然、救援要請の他国部隊と襲撃側部隊との戦闘に巻き込まれていくのだから(大相撲のように行事が力士の勝負がつくまでハッケヨイ残った、ハッケヨイ残ったと軍配を振っていれば済むというわけではないのだから)、救援を目的に武力行使することになって、「湾岸戦争やイラク戦争での戦闘参加」との類似行為を結果としないと断言できないはずだが、にも関わらず、「これからも決してありません」と断言する情報操作・ウソである。

 石破茂自民党幹事長は4月5日(2014年)、テレビ東京の番組で集団的自衛権の行使によって自衛隊員が死傷する可能性について問われて次のように発言している。

 石破茂「政治家が覚悟しなきゃいけない。内閣が吹っ飛ぶからやめとこうというのは政治が取るべき態度ではない。自衛官は危険を顧みないとの誓いをしている。危険だからやめようということがあってはならない。そうならないよう(政治の側は)ベストを尽くす」(asahi.com)――

 石破茂が言っていることを安倍晋三も言わなければならなかったはずだが、このような事態が起こり得る危険性を隠す情報操作・ウソを巧妙・狡猾にも駆使している。

 かつてイラクで日本の自衛隊がPKO活動していた当時、もし集団的自衛権行使が認められていたとしたら、米軍部隊が武装集団に襲われて窮地に陥った場合、救援部隊として最も近い距離に自衛隊が位置していたなら、自衛隊に救援要請を出すだろう。わざわざ自衛隊よりも遠い距離に所在している他の米軍部隊に救援要請を出すことはあるまい。

 集団的自衛権行使が容認されたなら、今後こういったことを想定しなければならない。

 最も大きな情報操作・ウソは集団的自衛権憲法解釈行使容認を求めるために「私たちの命を守り、私たちの平和な暮らしを守るため」に必要だと言っている、あるいは「命を守るべき責任を負っている私や日本政府は、本当に何もできないということでいいの」かと言っている、その言葉そのものである。

 いわば集団的自衛権行使容認によって国民の生命・財産を守ることができると保障している。

 では、集団的自衛権行使が容認されていたなら、2013年1月16日発生のアルジェリア邦人人質事件でテロ集団に殺害された邦人10人の生命を救うことができただろうか。ノーである。

 世界一の軍事力を持ち、世界の警察を任じるアメリカ政府にしても救うことはできなかった。手出しすることすらできなかった。アルジェリア政府がテロとは交渉せずの姿勢に立ち、他国政府の支援を断って、軍事優先の解決策に出たからなのは誰もが承知している。

 アルジェリア邦人人質事件と類似のテロ事件が起きない保証はない。既に起きているし、これからも起きるだろう。

 既に起きている最近の事件として、4月14日に武装集団に276人の女子生徒が学生寮から拉致された事件を誰もが挙げるはずだ。旧宗主国のイギリスやアメリカ、フランス、中国の救出チームが現地に既に到着していて、捜索を開始しているということだが、武装集団側が女子生徒解放の条件に拘束中の仲間の釈放を求めているのに対してジョナサン大統領はかつてのアルジェリア政府と同様に武装勢力と交換交渉はしないという姿勢を取っているという。女子生徒たちは政府が交渉に応じる場合と違って、非常に危険な状況に曝されていることになる。もし武装勢力と救出チームが銃撃戦となった場合、さらに危険な状況に見舞われることになる。

 結末はどのように展開するか分からないが、安倍晋三は海外にいる日本人が可能性として否定できない武装集団に襲われるケースを言い、国民の「命を守るべき責任を負っている私や日本政府は、本当に何もできないということでいいのでしょうか」という表現で集団的自衛権行使容認を求めると同時に反意的に容認された場合、すべてがさも救出可能だとするような幻想を与える、さながら“集団的自衛権安全神話”と言うべき雰囲気を振り撒いているが、例え集団的自衛権行使が容認されたとしても、アルジェリア邦人人質事件と同様に救出不可能の場合もあることを国民に伝えずに可能とする最大の情報操作・ウソをついている。

 これらの情報操作・ウソに騙されてはいけない。

 日本国民は安倍晋三が記者会見で言っていることとは正反対に集団的自衛権行使容認によって自衛隊のテロ集団や敵国部隊との交戦機会・戦闘機会が増えて、自衛隊員の命にしても、海外在住の邦人の生命にしても、決して無傷で済ますことができる保証はないことを覚悟しなければならない。

 また、自衛隊の交戦・戦闘の状況に応じて、それが遠い海外での出来事であったとしても、長引いた場合はそれなりの国力や自衛隊員の注入を要求されることになって、戦争に巻き込まれる状況に進むケースも有り得ることを覚悟しなければならない。

 あるいは自衛隊の海外の武装集団との交戦・戦闘の機会が増えることによって現地国のテロ集団が、あるいは同盟関係にある別の国のテロ集団が報復として日本にテロ要員を送り込み、日本国内でテロ行為を起す危険性を増す事態も覚悟しなければならないし、北朝鮮のような独裁国家が自衛隊との不測の突発的衝突によって過剰反応し、あるいは報復意志を誘発されて計画的に日本に向けてミサイルを発射する可能性も覚悟しなければならない。

 であるなら、なおさらのこと、集団的自衛権の行使容認は憲法解釈ではなく、国民投票による憲法改正の手続きを経て、国民が責任を持つ形の決定事項としなければならないはずだ。

 そうでなければ、国民の生命・財産=国民の生き死にを一内閣の憲法解釈による集団的自衛権行使に任せることになる。

 もし一内閣の憲法解釈による集団的自衛権行使によって多くの国民の生命・財産が失われた場合、戦前の日本国家の戦争遂行に一億総動員で協力していながら、戦争に負けたあと、多くの国民が「国に騙された」と国にのみ責任を転嫁したように、同じく安倍内閣に責任を押し付けることになるだろう。

 もし集団的自衛権行使をどうするかを国民自身の決定による国民自身の責任とする自律性(自立性)を自らに担うとするなら、憲法改正の手続きを採るべきだろう。

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