花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

たった一つだけ大切にしてきたこと

2013-02-14 01:32:59 | Weblog

人は、心の宝物を持っている。
本人も、気がつかないうちに

大切にしているものが
春風のような
暖かな一瞬を運んでくる。

南紀での疎開中に
防空壕の中で生まれた私は
記憶の中に
B29の音や

マッカーサーのパイプや
世界一の「紳士」と
マッカーサーが感じたであろう
陛下との写真。

祖父は27歳でアメリカに渡った。
青山師範を卒業後

カリフォルニアの
日本人街開発の開拓メンバーであった実兄のもとで

大陸の農業や、酪農、政治、橋の建築など
多岐に学んで、帰国後は叙勲もされていた。

明治20年前後の生まれの祖父の時代
宇宙に行きたいように

夢を膨らませた若者は
太平洋を渡って行った。

3ヶ月も「汽船」に揺られ
嵐を超えてアメリカに渡った。

明治45年ごろの生まれの父母は
ヨーロッパにあこがれた。

父は「イギリス医学」を学び
母は「ドイツのピアニストの指導を受けた。」
おじさんは「ドイツの医学を学んだ。」

戦後の疎開地では
ワシントン大学を卒業した親類が
タバコ屋をしていた。

東京生まれの父と
南紀の生まれの母が

華厳の滝と
那智の滝と
どちらが素晴らしいかということで

えんえんと喧嘩をしていた。

医師とピアニストの組み合わせの父母は
喧嘩のあとは
ダンスで仲直りをしていた。

二人が喧嘩を始めると
なにも聞かないうちに
祖父は娘である母を叱った。
「お前が悪い!」

モダンガールの母は
テニスや水泳やダンス、
本職のピアノを

ライフワークにしていた。

アメリカに長く住んでいた祖父は
敗戦後、南紀に娘の家族とともに
モダンな洋館を建てて
疎開していた。

校長先生、町長さん、村長さん、
ダムの建設など、

周りから、押されて、引き受けていた。

戦前の、若き時代は
校長先生をしていたと
母から聞いた。

朝礼で、
白い手袋をはめて
「朕、、、おもに、、、」と
浪々と読み上げていたという。

母は祖父の渡米にはついてゆかず
新宮高校(女学校)に進学して
作家の佐藤さんの妹さんと同級になり

兄の佐藤さんからも
文学の影響を受けたと言っていた。

その後音大に進み
アメリカの祖父に手紙を書いて
「ドイツ製のピアノを贈ってもらった。」

蓋の両端に彫刻があるオーク色のピアノは
結婚後、戦争で亡くしてしまった。

敗戦後、戦地で3人の子供を失った母。

最後の「韓宇連絡線」で
魚雷のすり抜ける海を運良く渡りきり
故郷の何期の山奥で

復活!

晩年は80歳を過ぎても
音楽大学の後輩と、
ピアノの弟子の皆さんと

コンサートを開いていた。

母という、家庭人は居なかったが
一人の女性の「生き方」を

身近に魅せてくれた母のすがたは
「夢を追い、夢に生きた」

戦後、戦争を知らない弟が生まれた。

「夢を追う人」が育ち
兄弟に、生きる希望を、元気をくれた。

団塊の世代の弟も
今年の3月に定年である。

しかし、、、多くの弟知人が言う。

「お姉さん、、、弟さんには定年がないと思うよ!」
「80歳過ぎても、ピアノの人生を生きていたお母さん」

「夢を追い、夢を実現させ、英雄はどこかで、生きてゆく。」

「お母さん、お父さん、」
「お爺さん、そして、、、弟よ!」

夢をありがとう。
日本は、これからも
「夢を追い、夢に生きる」

周りを元気にしてくれる人材が育つ国

大風呂敷を広げなくたって、

身近なものを、元気にしてくれる人こそ

「たった一つのことを大切にしてきた」証ではなかろうか?

私だってうれしいと思うことはある。

近所の子供たちが
学校から帰ってきたとき

自宅の鍵が、なんらかに事情で開かないといって
「おばさーん、、、」
我が家で、親の帰りを待つことがある。

小さなことかもしれないが、、、
信じてくれる子供たちの

未来の平和を祈るのは
子供たちも、、、私を信じてくれるから。

私が大切にしているたった一つの大切なことは

子供や孫に
生まれてきて良かったと思える未来を祈ることです。

石原さんと安部首相の討論を聞きながら
環境を大切に、

核戦争のない、希望のある地球の平和を
祈っています。

旭山動物園の園長さんの考えが好きです。

きっと、、、核実験を悲しんでいると思いますよ。

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