花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

パソコン音痴

2020-09-04 23:05:43 | Weblog

このサイトに記事を書きたいとき

なかなか、、、IDやパスワードが適合しなくて

今日まで、ストラグルしながら

編集画面にログインにたどり着けず、

日記を書くのが抜けてしまいました。

パスワードを時々変えているうちに

どれがどれだかわからなくなりました。

皆さんの本格的なブログを観乍ら

coronaの閉じこもり生活の中に、新鮮な感動を戴いています。

私のは、、、万一呆けた時に、読み返して、

過去を暗記して、忘れた部分はこのブログの日記で思い出して

老後のボケ対策の日記なので、、、、自分の為に書いています。

76歳の時は、、、、

まだ。。。こんなことを考えることができたんだな~~~、、なんて

100歳に成ったら、

                                  読み返して。。。

                                             過去と現在をまぜこぜにして、、、ボケを防ぐつもりですよ。

 

予期せぬ結婚で、北海道に住んで50年ですが、

主人は「医師をする」こと以外、、、

                                                 一切の家事や家庭に興味の対象が有りませんので、

                                                                          真面目一筋の性格の私の仕事が多すぎて、

                                                                                                                      時間貧乏になりました。

真夜中に起きて、主人が起きてくるまでの間に

           片付けモノや、洗濯、料理の下ごしらえをして、

                         主人が出勤してしまうと、、、

テレビを観たり、庭の草取りをしたり、繕い物をしたり、

              コマーシャルタイムには、必ず立ち上げり、体操をしています。

もうすぐ冬の支度にかかります。

庭木の雪囲いを、9月になったら、

              3日に一本、剪定して、

        10月に成ったら、竹で囲えば出来上がりと言うところまで

一本づつ、、、雪囲いの下準備をはじめます。

        庭の樹木や花は、

            主人が買ってきたㇼ、

                 もらってきた植物は地植えしましたが、

私の趣味や、仕事上栽培している薬用植物などは

             グラスウールの空き箱や、

                  鉢や、穴の開いたお鍋やバケツに植えています。

             私の寿命が尽きた時は

                 主人は、水やりも世話もしない、、、仕事バカなので

近所で、子供さんでも、、、欲しい人が持って行ってくれて、、、

     植物が、どこかで生き延びてくれることを祈りながら

              孤独な北海道の50年間を、私とともに生きてくれた植物に

                      せめて、、、私が出来る感謝の延命作戦のことなので、

                                  トータルな美的な庭を造らずに、

                                      朝礼の時の生徒さんのように、、、庭に並べて、

                     一緒に生きてきました。

                             

              植物が無かったら、、、寂しい50年間だったと思います。

                    主人は社会的貢献度の大きい医師なので、

                      「医師をすること」の大変さを視て育った私は、

                          仕事に関することを主と心得てしまう癖がついています。

                    単なる癖、、、されど癖は心を伴ったっているが如く       

                              はた目には医師の旦那に仕える者に見えるだろうね(@@!

 

家庭には興味の対象が無いのは、戦後の日本オールド貧乏時代に育っている戦中派の主人は

              家庭への理想も夢も考えたことが内容です。

                  防空壕のように、、、安全で天然災害に強ければそれで満点と考える質である。

医師自体が、、、命とそれに付随する専門医学の

                 お決まりの戦いの毎日で、

                    仕事だけでも時間が足りないという

                        医師の家を理解できない民間からは

                          お偉いさんの自己愛症候群と誤解されるかもしれない。

3分間診療と揶揄された時代の中でも、その3分を産み出すのに大変な時間貧乏だッタ。

            患者さん第一に生きてきた以上

                    家庭サービスはありえないと思っていました。

                           私の実家で、外科医の父が54歳で、突然過労死してしまい、、、

                                           外科の看板を下ろすのが寂しすぎて

たまたま、友人の結婚式で同席した主人が固定前だった。

父の担当していた外科の看板を下ろさなくても、

             北大で、博士号を取得したら、東京の私の実家の開業に参加してくれて

未亡人の母の不安を解決できるという「母と一緒に住んでくれる」と、、、

                        私の母との意気投合で、、、

               せっかく、、、未来の薬局長の病院薬剤師として勤務中の私は

                           母の願いで、、、

              後日主人として迎えたが当時は外科医の卵の主人が

                     北大で博士号を取得するまで

             全面サポートして、我が家に、父と同じ外科医を迎えてきなさいと言う、、、

             これまた、、、明治生まれの医師の奥さんで、クラシック音楽をする母の

                 絶対的な、、、蛮族のような主観と主張の強さに従って

                         医師の卵が東京に来てくれるという約束で、、、

                                  数年以内には、、、

              母が言うように

                  父が若くなって、、、実家の開業を継続してくれるものと信じて、

                        主人の便利屋よろしく、、、万雑用家事その他雪かきなど引き受けた

                               

                          世間知らずと、

                     薬剤師であるという自分の自立性が

               ちゃんぽんに、主人には都合のよい人間であったと、、、振り返るのですよね。

 

家の中はどの部屋にも、、、

          主人のドレッサーと衣類と本と、、、

                 書斎がタンポポのように本を部屋中に咲かしている。

            夏は、ベランダに続く部屋が主人の夏物のドレッサー

            秋は南西の部屋に、

                三枚スライド戸の

                   天井までの高さのドレッサに

                          背広やら、長袖Yシャツ。

                              セーターに、ネクタイやアスコットタイ。

                  高価な仕立物は一つもありませんが、、、

             季節の移り変わりの時のセールの時に飼ってくる癖が有った。

                 確かに、、、半額以下の投げ売りの時に買ってくるので

                  物としては悪くはないが、、、売れ残りの色は、、、どうも、、、地味ですね。

                      地味と言えば良いのか?

                            無難すぎると言えば良いのか?

                                 、、、、、

            テーラーでオーダーしたものは…一着も無いから、、、

            数は多いが、、、全部普段着の通勤用であるのが、、、倉庫みたいな雰囲気である。

            毎日、帰ってくると、

                 翌日は日光消毒して、

                      空気を通し、匂いを消去する。

           患者さんには、街でも、大道理でもあいさつされた時

                        同じ背広では、と考えているのか?

                               客商売のたしなみと考えているのか?

                30歳代で、健康の為、バス、電車、地下鉄と乗り継いで通う勤務先。

                    背広も靴も、すごい数になる。

                 玄関は、2足の私の靴以外は全部主人の底の減った靴だらけである。

                 毎日消臭剤を撒いてはいるが、、、毎日靴下も履き替えているが、、、

            我が家の玄関には、家の御顔らしきところが全然ない!。

                靴下も、50枚はあちこちのドレッサから私を呼ぶ。

            玄関で靴下を脱いでもらい、ビニールに入れて洗濯前に洗剤に漬けこんで5時間

                    匂いも菌も消えた頃、洗濯機に入れる。

 

             結婚は、好むと好まざると、、、無料の女中と言うのが日本の女性の地位だから

               薬剤師をするなら、同級生で、薬剤師を貫いた彼女たちのように

                     結婚も、子供も産まない、、、育てない、、か!

                   確り選ばないと、子供たちの大学進学の時の月謝稼ぎの仕事は

                   家事を手伝ってくれる人のいるシステムを引いていないので、、、

                   夫にも、息子達にも、、、文句言われながら働き、、、

                   お金を稼ぐマシーンン化して、家事は居眠りしながら真夜中にこなし

              生きてるんだか、、、死んでいるんだか、、、ワカラナイ激務の時代が数年続く。

夫婦ともに両方で働いても、主人の収入と私の収入は合算された税金となって、、、

               子供の授業料が足りなくなるのが、、、日本の税のシステムだから、、、

         むしろ、、、専門職でなくて、

      福利厚生のついた、デイ金加算されないだけのパートの方が

家庭は破壊されずに、子供の進学の授業料の応援んが出来ると思った。

 

しかし、、、当時、薬剤師にはパート勤務は責任上、難しい問題もあった為

       常勤で、正社員として、会社員となり

              中学生の子供に

                 3食の弁当を作り置きして、早朝から出勤していた。

                 

                   ある日、、、次男が、、、泣きなら言いった。

               「母さん、、、母さんは、、、お弁当をチーンして湯気が出ていたら、、、

                   それが、温かい夕ご飯だというのか!」

                    次男は中学生なのに、泣き出してしまった。

                     主人は単身赴任中で、、、函館に居た。

                      私は、、、5時の勤務の後、

                         社員が、「薬事法」の講義を聴きたいというので

                           毎日、社員が、外勤から帰ってくる20時から一時間

                                  医療機械類の、法的な事をガイダンスして

倉庫の棚にナンバーを符って、注文によって届ける品が在庫数と発注数が合致するようにと正確に管理できるように

当時、(VM21)のパソコンの大きなフロッピーに

                棚の品に番号を付けて数をを入力して

                   パソコン管理が出来るようにと、残業が続いた。

             その後、おりからの調剤薬局の立ち上げに

                  後輩の薬剤師が社長をしていたので

                       専門職の調剤に移動して、

               これまた、どんどん店が増えるのに、薬剤師が足りなくて

                    一か月の労働が290時間となり、、、

                    家庭は放りっぱなしになった。

主人が単身赴任する前、専業主婦の家庭管理のもとに

               生き生きと泳いでいた水槽の魚は

                  コケだらけで、、、なかば見えない水槽になっていても、、、

                               お構いなしのキャリアウーマン生活だった。

                 主人は外科医の医師とは言っても、、、

                          国立病院の勤務で、

                  育ちだ狩りの受験生を抱えた札幌と、函館の2重生活は

                      主人の公務員○○給では足りなくて、、、

               返済まじかのローンを、実績をもとに、再び抵当に入れて20年のローンのカリタ。

               お金持ちに見えるでしょうね、、、ローンを2回も借りたのですから。

               ともかく、、、実家を手伝ってくれる約束で、

               自分の勤務を辞めて、北海道に自宅の開業で欠員となった外科医を迎えに

               結婚という突発の人間関係で、北海道に住むように導かれた運命には

                逆らいきれない不思議な利害の一致が有りすぎた。

               未亡人の母を何とかしなくては、、、と、

                娘と言うのは、、、母の本当の強さに気が付いていなかった。

               主人も、若き青年の研究論文に入選したりして

               医師であることに、絶大な責任を感じながらも

              次男と言う立場は、、、すがる藁さえない中で

               一人前の外科医になる為の踏み台を探し当てたような気持だったのではなかろうか?

                       医学部の学閥は、知らなかった。

                 叔父さんや従妹たちが医師とは言っても、、、叔父さんから聞いたのは

                      学閥の話は聞いたことが無かったという主人も、

                        異郷の先輩方からも、仲間として受け入れられる

                           博士を取得しました。

              北大にはこれで、、、さようなら、、、という訳にはいかないことがわかったのは

                    外科はチーム医寮だったという事でしょうかね?

                技術を教えてくださった医局が、いつの間にか主人の心の拠り所になっていたのですね。

                    教授を中心に、大勢の外科医で、大きな手術をこなしてゆく。

                   おりから、、、アメリカで、臨床外科医として活躍していた腕利きの医師が

                 北大の医局に帰ってくるのを聞いて、、、主人はその先生にピッタリくっついて

                   外科医として、成長していったようだった。

                   私の実家を手伝うことなどは雲の彼方に置き忘れたようだった。

                  内科医の兄からは、、、100通ほど、、、毎日の封書が届いた。

                  主人は、、、一通ぐらいは返事を書いたのでしょう?

               家庭の奥さんなどは、、、顔がついていれば、、、誰でもいいのではないかと言うほど

                      家庭にも、子供に振り回されている私にも、接触を避けていた。

                      コロナの今の時代でも、、、夫婦の感染は避けられる公算が強いと思います。

                       

           医師が医師として、学べる相手に出逢ったときは

              家庭なんど、、、寝る場所が有ればいいかな、、、・といった具合の

                                       自己中な時代に入る。

                  病院に職員として勤務した主人を、もう、、家庭のサービスは、期待できなかった。

            手紙を出しても返事は来ない、、、病院に助手として正規雇用された主人を知って

                 開業も、ササッと、、、閉院してしまい、、、

               内科を担当していた兄は内視鏡の指導医の資格をとって

                      千葉の亀田病院に勤めた。

                    主の居なくなった実家では、、、

           母が50人ほどの弟子にピアノをおしえ乍ら、80歳を超えていた。

                     

                    べ―トベンの生まれた家の前で母を思う。

               主人は嘘を言ったわけでは無かったのだろうが、、、

                     学閥と言うのは、、、

                 日本舞踊や歌舞伎に、流儀があるように、、、

               師弟関係はすごい絆なのだと、、、私も知った。

                  北海道から帰れないと解った時には、、、

                    やはり、、、私も、孤独感にさいなまれた。

                     実家に帰って、、、

                 兄の父譲りの豪華な自宅のチャイムを鳴らした。

                      兄は、私だと解ると、、、

                    ドアを開けてくれなかった。

                       文句の一つも、、、言いたげだった。

                   そうか。。。

                  ミイラ取りが、、、ミイラになって実家の門をたたいても

                    もはや、、、妹である価値は無かったのかもしれません。

 

私は、未亡人の母も兄に預けたまま、、、

母の死に目にも間に合わなかった。

それほど、、、戦後のオール日本貧困家庭の中から

           一念発起で北大に合格して医師となった男の心は

                「医師をする、、、医師をすることを貫くための方向しか見えないのではないか?」

主人も、約束したのに、実家に外科医として入らなかった手前、、、

             母にあわす顔がないというのだろうか?

                      葬式には来ることは無かった。

               心は来たかったのかもしれないが、、、

      北大を卒業して、北大病院に職員として医師が出来るようになった今、

           暗黙の了解で、母と、主人の約束は立ち消えて

             母も、会わずに旅立つことが、、、、風が絶たずに済んで

                線香の火も絶えず、、、弟とその仲間の先生方が

                 60人以上、お寺の庭にテントを張って、

                  母のピアノの弟子さんらの思い出話の花に囲まれて

                    時は流れてゆきました。

                     大切なのは時間だったのだ、、、

                        里帰りも出来ずに、、、60歳以後の母の後半の20年間は

                         とうとう逢えずに、、、死に目に裳間に合わず、、、

                          家族もつれずに、、、1人で

             私は母に申し訳なくて、、、黑いセーターと、黑いスラックスで

                北海道から来たままの服で、お寺の厨房で片付けモノをして過ごしました。

                  喪主になってくれた、母の可愛がった弟の仲間たちが頼もしくって

                   母は幸せな生涯だったと感じるものが有った。

                     これで、、、良かったのだと、、、           

                       竹に嫁いだ娘は他人の立場で、心だけが娘であれば良いと思った。

 

          母の逝った高野山に、私と主人で、まだ雪の残るころ、、、母に別れを告げに行った。

             高野山の麓には、氷で出来たような真っ白な桜の花が咲いていた。

                  高野山の中の橋の所で、主人に杉の木の前に立ってもらって

                        私はカメラを構えたら、、、

             不思議なことに、、、カメラが杉の木のてっぺんに向けてシャッタ^がおりた。

             その写真には、、、父がはっきりと映っており、、、まさしく父であり、、、

                  息子達も「爺ちゃんだよ、、、アルバムの御顔と一緒だ!」と

                        大騒ぎになった。

             私は、その写真を高野山に送り、、、時の高野山の僧侶だった宮本さんに

                      父の成仏を祈ってもらった。

         高野山では、一年間も、、、毎日、、、お焚きあげ、、、と言う儀式をしてくれたと知らせてきました。

            父の杉の木のてっぺんの胸像のような、、、遠くを見つめる穏やかな無口そうな御顔には

                不思議なことに、眼の玉だけには光が無いのが不思議だった。

 

 

               外科医の夫に「娘をよろしくな~~~!」と

                あの世から主人にあいさつに来たのだとしたら、、、

              まさに、、、人は死んだ後も、、、魂や念力や、意識の力で

            自分の来し方の分身の娘の中の元素?

                         遺伝子の記憶?

                            もしかしたら。。。娘の記憶を

                  杉の木を取り巻く空気の層に投影できるということなのだろうか?

                       

              それとも、、、私が、高野山の父母に逢いたいという、、、

                 私の中の彼岸のも届くような集中力が

                高野山の杉を取り巻く湿度の高い空気の層に

                   増幅して投影したのだろうか?

不思議なことがあった事を、日記には記しておこうと思った。

                  「医師をする」という事は、、、

大學や、病院やスタッフやコメディカルと、人生を共に「相棒」するという事で有り

医師の家庭は、、、「医師をする主人の足場」の近い様な物であり

頑張る主人の踏ん張る足の体重は

           家庭にはずっしりとかかる。

               病院にも主人にも無関係な次元で

                  私の人生の持ち時間が消費されてゆく、、、雑役の集積の昭和の医師の家庭。

昭和の一部の頑張って医師になった

               応援団の居ない時代の地方に進出した医師たちには

                       家庭環境からは、、、厳しい時代を過ごした戦中だけに

                  医師は、、、家庭を振り返る時間を作ろうとはしない、、、

                     激しい時間の渦の中に居るという事だけは

                         理解できる。

          もし主人が「自分と言う主体を持って生きれる業界なら、、東京に帰ってきたと思うのです。」

「医師をする」という事は、、、

           個人としての主体は持てないという

                       チーム医療の外科である

                        父の場合は

               国の外科医の一人として戦場に行きましたが

            終戦後の疎開地では、村落町の診療所に勤めたような

                 一人開業でした。

                疎開が終わった東京の下町は

             戦場帰りの個人の医師の皆さんの開業があちこちに有り、、、

                     時代は家族開業の時代でした。

                       開業水浸の時代で

                    税制も優遇されて、

                 生活が第一でした。

               そして、平成に入るころには、、、

                 個人開業は成り立ちにくい税制になっていました。

               個人開業には税制も優遇されなくなった時代に一人前の外科医となれた主人でした。

                 40歳過ぎるころ、、、外科医としては一人前になるという、、、長い旅。

                大學に残り、、、講師まで行って、、、

              大学人事で、病院の外科チームの一員として勤務医となった主人。

                    大きな人事の流れは医局が指導的な立場にあるというのは

                 専門分野の細分化と、人事問題の難しさが、医局と言う制度の中で

               医師は「医師をすること」の難しさを、サポートされて、、、

                    人命を預かれるという、、、素人筋には想像もできない命を預かる重さを思い知る。

          個人的には重すぎる荷物を、、、皆で渡り切ったのだと解るまでに

                     私は76歳になっていました。

                 若い時は、、、主人の嘘つき、、、と誤解して腹も立った時が有りました。

               医師の妻だけには、、、軽い気持ちでなるものではないと、、、反省しています。

                結婚生活は、出会いがあるからだと思えるでしょう?

                      医師は、医師をするのだという決意とだけ、、、出逢えのだと思いました。

 

              医師は本人は

                   「医師をすること」だけで、

                         他は、、、おまけに近い状態でくっつけられたものかのように

             次の瞬間自分と言う、他人には全く入り口のない医師の世界に戻ってゆく。

                主人とは付き合ったわけでもない、、、愛したわけでもない、、、友達だったわけでもない、、、

                   戦後の貧困時代を生き抜いて医師になって「医師をする」時が来たときに

           これから「医師をするにあたって必要なものを考えたら、、、開業を手伝いながら、、、」という

          まだ、、、医療界に疎かった主人は、開業医の家がバックに居ることが、つっかえぼうになるとでも

                    勘違いしていた時代だったのかもしれません。

                   「医師本人以外は、、、誰も、、、医師の技術は相続できません。」

                医師になった本人だけが、、、多くの応援団を得て

                   「医師をする」という舞台に立てます。

          一生舞台に居続ける医師は、、、家庭の事は上の空で、、、

                          全面に至って主婦に依存してきます。

             医師の妻になるという事は、、、「医師をすること」の応援団になる様なもので

             大きな応援団の病院組織や、

                   医局組織が有ってこそ、、、

                      「命」をあずかれるわけですから

               家庭の応援などは、、、主婦はやってるつもりでも、、、

          「ありがとう」と医師から言われるようなことは、、、何もできないという立場です。

                   この状態から、、、

                お金持ちの奥さんとして、、、間違われて、、、

                  かなりな辛辣な、、、間違った嫉妬を受けることもしばしばあります。

               何代も続く医師は本当に、、、

                      心身ともにお金持ちの豊かな人物も居て

           オール日本貧乏時代の戦中に生まれた1代医師の主人との相棒生活は

                   医師をするための後方の「雑事をオール引き受けた」

                    成り行き任せの人生でした。

                 医師の陰に隠れたような存在の北海道一人ぼっちの雪かきが、、、

                私の76歳までの健康を守ってくれました。、、、まだまだ健康なスッピン人生です。

coronaの後は、、、病院や医師の本質が少しは見えてきて

医師にも、医師の奥さんにも、、、理解してくれて、、、友人ができやすくなるといいですね・

とりあえず、、、76歳の勤務医の相棒の主婦を勤めた実況記録の日記帳です

             医師が病院から帰ってくるという事は、

                 薬剤師になったときに受けた知識が役立ったという事です。

                  月給も、坊ナスも出ない家事ですが、、、

                 生まれ変わったら、、、自分んが主役をやれる独身で過ごすことにしますね。

                 完全な日陰の孤独は、、、この世だけで充分味わいましたから。

                 でも、、、主人には感謝鹿有りません、、、

                       子供たちも、医療に尽くす人生を選んでくれたのは

                         主人の背中を視ていたのだと、、、思うのですよね。

                   45歳で、ドクターヘリの来る巨大病院で医師をする息子は

                         独身で、車も、家も無いのですが

                          母さん、、、

                           医師をすることの毎日は時間は足りないが、、、

                                僕は、、、不幸ではないぞ!!

                                  医師をすることが僕の人生だと思っているから、、、

                                  一生闘う戦場で生きているのが男の人生だよ、、、と

                                     お父さんとどこか似ていますね。

              長男は薬剤師になり、子供に囲まれて、、、まさに、、、人間、、、標準の幸せが母にはうれしい。

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