花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

政治音痴の婆ちゃんに、政治を手ほどきしてくれる人。

2021-10-02 17:14:11 | Weblog

子どものころ、3歳になった私は

   人が、、、やたらに出入りする我が家の庭に

     大きなキンモクセイが、強烈な香りを放っていたのが

        一個の人間としての、、、目覚めでした。

 第二次世界大戦が終戦になって、2年目の事でした。

   柱時計の振り子の音が、カチン  コチン、、として

    ボーン  ボーン  ボーン と3時を告げると

      庭で穫れた「大きな野菜」をもって

        「華のおばちゃん」と呼んでいた台所のおばさんが

       上半分が黑い大きな包丁で

         夕ご飯御仕度をはじめるのでした。

           

   おばちゃんは、、、私のおもりと、

              昼と夜のご飯をつくり、

               その他の時間は、お掃除や

            庭の野菜畑、

          後から解ったのですが、、、

         大きな畑には、薬草が栽培されていて

       周りの小さな草などを

     引っこ抜いていたのを、、、覚えています。

 

   父は戦争に医学の臨床指導者としての勤務から

        第医専の戦場にまで参加せねばならなくなったのは

  終戦から3年前ぐらいの時だたというから、

それまでは、戦地近くの大学病院には

外科の臨床の教育の為に

   役立つ医局が無かったそうです。

    国の絶大な希望で、日赤の看護師さんと

       臨床病院での、現地の医師に

         イギリス医学の外科の臨床指導をする病院の

    院長として、、帰宅できることはまれという

       外科指導の激務の総合病院の院長だったそうです

           

          母は、、、ピアノは日本に置いたまま

         帰らぬ主人を想いばかって、、

          戦場の近くの赴任先の病院の傍の宿舎に行ったそうです。

    戦争が、勢いを増してきていただけに

     傷病兵も多く出て、現地の医師だけでは

      どうする事も出来ずに

       銃創や、戦場での傷病兵は

        創口に木炭の粉を湿布されている様な

         漢方医の手当てを受けていたようです。

父が戦場の近くに赴任したときは

   昭和13年ごろではないかと想像しています。

     国の待遇で、総合病院の院長として赴任したようで、

      病院の名前は、父の名字になっていました。

       戦場の関係者の病院だったらしく、

    子供のころ、、、小学生になってから、、、

   戦争の時代の事を質問すると、、、

  お母さんは、

    耳をふさいで、、

        走り去って、、、

           どこか映ってしまいました。

    父は、「お母さんが居なくなると、、、

    戦争の時のことを話してくれました。

    お父さんの医師になった勉強をした大学は

  日本には、、、なかった

     西洋医学の外科手術などを教えてくれる

        イギリスの医学で、

         特に、、、外科は、、、戦場の傷ついた兵隊さんにとって

     医師が居るか居ないかで、、、命にかかわるという

    当時の外科医は、日本でも希少な、存在だった。

   軍隊の質問に、、、「外科医です!。」と言ってしまったんだよ。

                          眼科、、とか、、、   

    産婦人科、、とか、、、

        耳鼻科ですと言えば

           戦場に行かなくても良かったのかもしれないね!?、、、    

 父の髭の伸びた顔が、、、笑顔になったのを覚えている。

   何のことか???よく理解できなかったが

      「ウン」「ウン!」「と頷きながら

        父の戦争時代の話をするのを、、、

            興味を持って聞いていた。

  戦争がひっきりなしに続いた

       明治生まれの父母にとって

  小学校時代、、、高等学校時代、、、大学時代と

    まるで、、、

       今回の「コロナの経済界」のパニックのように

   筏乗った命が 、、、激流を降るのに

      しっかりと「わが命を守ってしがみ付いていないと、、、」

    誰も、、他人を救っていることが出来ない激流の日本だった。

 

 

とんだ時代に、、、生れたものですね、、、

     小学校高学年になった私は

      子供のころ聞いたことで

       意味の解らないまま丸暗記していたことを

        おりに触れては

         父に聴いたり、、母に聴いたりした。

 

      母は、、、初めは耳をふさいで、、、

       どこかに走って行ってしまったが

 

        父は、、、何故?、、母がパニック状態で

             逃げてゆくかを、、、説明してくれました。

       後日、薬剤師になってから、各科をローテーションして、

 

      精神科勤務の時、、、

     PTSD(心的外傷、、、)という

 

     入院患者さんに

        薬を飲み終わるまで

           確認する業務があった。

 

    先生から、、、服用が終わって…

            吐きだせないと思うまで

       無駄話でよいから、、、、、

         話を聴きながら、、、それとなく

           報告してほしいと、、、指示されました。

 

    その患者さんは,、、以前に眠れないからと

       睡眠薬を処方したことがあったと、、

      先生は言われました。

 

        マクラの中に、、薬をため込んで

         ある日、、、発作的に、、、

      マクラの中から、、、全部出して、、

         一時に飲んでしまったというのです。

 

       胃洗浄をして、、、

         先生も助けるのに大変だったというのです。

 

        それからは、、、薬剤師に、薬を配ってもらい、、、

     服用を済むのを待って、念のため

             胃の中から吐き出せなくなるまでの時間

      話し相手として、、

        飲んだ後の気持や、

           ゆっくり休めるからね~~~とか、、

      

       、友達感覚で

     

       部屋に居ても、存在を感じさせないように

 

      院内全体で、

        発作的な行動を見守った事が思い出されます。

 

      その後、、

        ロジャースの本や、、、

          心的外傷の本を読んだり

 

    「臨床心理士と、一緒に

        精神科の医師のゼミに、、、100時間も出ましたが

          臨床心理士は 卒業合格を戴いたみたいですが

    私一人が、、、卒業論文は受け取ってもらえませんでした。

 

    「貴女は、、、薬剤師さんだけに、、、

            人と寄り添うという

      このゼミの最終目的には、、、

            あまりにも、科学的な

           実学の根拠に走りすぎて、、、理論があり、、、

             臨床心理士としての論文としては

                 審査しないで、、

              私の参考文献として

       認定証書には相当しませんが、、、

      こうした講義を「5万円」で受講されたことが

        「安い講義代金だったと、、、いつか思うときがあると

          私は確信していますが、、、

            臨床心理士の皆さんとは視点がちがい過ぎますね!」

 

 そうなんだ、、、薬剤師は国家免許のもとに

          持論を科学に基盤を於いて、、、自分の意見を

           頑固に変えることをしない所が、、、あるのだと、、

         人に寄り添うのは、、、やはり。、、

            看護師さんか、臨床心理士さんなのだと

         なんとなく、、、視点の違いが、揺るがせない

           科学の理屈で考えてしまうのだと、、、

         私自身の、、偏りを発見できただけでも

            この講義は、、、受けて良かったと思ったが

 

         快感はエンドルフィン、、

          そういう症状は、、A10,,,だとか、、、

         興奮する時は、、、鎮静剤、、とか、、

     

         今一つ、、、自分で知るべきことを発見してしまい

       アルコール中毒の患者さんの、キャンプに、

            教会の皆さんに誘われて参加したり

         「 心的外傷の本」を読んだり

        精神科の処方の薬学的作用と、、

        患者さんの状態

       先生方に、ゼミを開いてもらったり、、、

     結局、、、精神科の薬局は 3ヶ月で終了して

        次は心療内科の調剤に従事しました。

         そして、、、3か月後は、、、

           心の病気は、自分には扱えないジャンルだと思った。

             

         内科に移動したとき

       「ホ‼!、、、とするものが在りました。」

    

              肝で代謝するか、、、

              腎で代謝するか、、、

              BUNの値はどうか、、、

         薬剤師としての、科学的な反応を基盤にした

              問い合わせや、、、薬品選びに

           先生のお役に立てる「文献をもとに」

          調剤できる科に戻ってきたとき、

 

       生化学や、薬物学が確りと役立つ

          「内科」「外科」「眼科」

            癌病棟、、の「化学療法など」

              薬剤師の考えが、、、必要とされて

                心から、、、ホッとしたものです。

      それほど、、、精神科の薬は、、、經驗と

               個人差をわきまえていないと

                 3ヶ月のローテションなどで

               何も、、、ワカラナイ、、、

 

             

  母が、、、戦争の話をしたり、、、

    アリラン、、、アリラン、、、アラリ~~よ、、、

    鼻歌を歌っていると

        耳をふさいで、、、

             逃げてしまった、

               げーげー嘔吐しながら

                  しゃがんでしまいました。

 

   父は、、、

   「戦争時に、、戦地の病院に来ていたばっかりに

            子供を三人失っているんだよ、、、

               そのあとも、、、流産して、、、

      ナーバスになってしまっていた事を、、、、思い出すんだよね。」

 

   「思い出したくないことを聴くと、、、発作が出るんだよ。」

 

    故郷の村に来て、、お母さんの御父さんや

     お母さん幼馴染の居るところで、、、ゆっくりと過ごせば、、、

      「心的外傷と、いう、、、PTSDは、、、いつの間にか

           治癒してゆくと思ったから、、、

         お父さんは、お母さんの故郷に来たんだよ。」

 

    「 お母さんのお父さんが町長をしているところが

        一番、、、心を、リラックスさせるからね、、、」

 

      人間には、、、

        思い出したくないショックな出来事が

          心を壊してしまうんだね。

 

      お父さんだって、、、塹壕に入って、、、

       折り重なった人間に守られて生き残ったときのことを

       今でも夢に見るからね、、、」

         私の右手のマッサージをしながら、、、

      「お前は、二歳の時、大やけどをしているけど

       まだ、意識が大人になっていなかったのが

        治せる傷だと言えるんだよ、」

 

    「心を治療してくれるのは

       故郷の山や、川、、美しい空、、、そして

         子供の頃の幼友達と

           お爺ちゃん(母の父)なんだよね、、、

         十年はかかるだろうね、、、」

     父は、、、一三年間という長い時間

       母の故郷で、、自分を振り替える事の無いほど、

         あたり、、、七か村、、無医村で

            どの村人も、、、母に

       「あんたが、、、先生を連れてきてくれたおかげで

          村は、、、3000人も人が住むようになっても

           皆、安心じゃ、、、」

 

      母は、大切にされていたような記憶がありますが

      母の方も、、、戦地での体験が、村の人に尽くす心が在りました。

   医院の洗濯場には、、、村の人が使えるようにと

    洗濯機を何台も並べていました。

    皆から、、お礼を言われるたびに

      母には笑顔が戻ってきました。

            

       戦場で、妹弟3人の死みていた

         9歳だった兄は

      何かにつけて、、、母を守ろうと必死でした。

 

    妹の私の「乳」を確保するために

    中学一年生の兄は、、、

 

     「10頭」も山羊を飼って、、、山羊の乳を絞りました。」

              

    墓場の中を通り、、、牛を飼っている農家に行って

                牛乳を運ぶとき、、、

              「お墓の中の道が怖くて、、、

 

        ≪勝ってくるぞと、、、勇ましく、、≫

 

         大声で歌いながら、、、

            牛乳を担いできたんだ、、、!」

 

    兄は、、、恐かった時のPTSDが、、、

       墓場なのかもしれません。

         戦場近くの村はチフスが流行していたらしく

    戦後、、東京に帰還してからも

          つり革に触れられなくて

            座席にも座れなくて

             手ばかり洗っていて、、

              

         

   私は、、薬剤師という、、科学的な思考が在りますので、、、

     

 

     人の心はわかりませんので、、、

     戦中に生きた、、「明治生まれの女性」が

    法定伝染病や、、、結核と闘いながら

       戦時中、戦場の付近の宿舎で過ごし5人の子供のうち

        産めや、、、増やせの、、富国強兵という

         とんでもない時代の流れの中で

       

          我が子の死を目前に

           自殺しようという気持ちまで

               追い詰められたとき

           9歳の長男が、、、母に寄り添ってくれたおかげで

       「この子の為には、、、まだ死ねない!」と

        心に鞭打っていたころ

        日本から、親が、、戦地まで、、迎えに来たというのです。

 

       終戦まじかな昭和19年!!夏の事でした。

 

       富国強兵の国策どうり、、、

        私をおなかに入れていました。 

        臨月の身体で、、

        日本に帰還できる命令が下りたのです。

 

       その日は、野戦病院に行くトラックが来なかった。

        父は、祖父に言われるまま

         着の身着のまま、、、

          

        最後の連絡船に間に合いました。

 

       、窓を〆ろと言う命令で

       連絡船は 全窓を閉めて出港したそうです。

       実は,、そのとき、、、

        日本軍は、、多くの物を失って、、

         一隻の護衛戦も無いまま

            海を、日本に向かって出航したのだそうです。

        母は席を確保するために

          結婚指輪もはずして、、、

           席を確保したそうです。

            残ったのは、、、一握りの父の為の

          手術道具だったと言っていました。

        故郷に着いたとき、、

 

           一粒の米も無く

 

       精米所に行くと、、、

        ベルトの車輪が、

          音が聞こえないくらい回転して

           西前さんという幼馴染が

          糠で、眉毛も顔も、、、老人のようになって

       「お医者さんを連れてきてくれたんだ!!!

          米俵ごと、、、お礼にあげるよ、、、!!」

 

         母は、、、この時、、、

             ここは戦場ではないのだと、、、

          気が緩んで、、、

          米俵を抱いたまま、、、

          ワーワーと、、泣いていたそうです。

 

    初めて、、緊張がほぐれて、、、それから13年、、、

         母のPTSDが完治するまで

        父は、村人から「先生は神様じゃ、、、と慕われていました。」

         

         泣きながら感謝される、、、

        無欲な13年の勤めに

       人生の寿命を燃やしながら、、、

          医師として

         勤務したのでした。

 

     PTSD,,,これは、、周りの受け入れと、、、

        命がけの愛が、、、13年かかって、、、

            たちなおってゆくような

            心を傷つけるような

         「域値」を超えたショックな出来事で、

          重症もあるという事を注意しなければなりません。

 

      戦争は、、、死んだ人も、、、

             生きて帰った人も

               地獄を味うのですから、、、

 

          戦争だけは、、、無い、、、地球になってほしいです。

 

  心の中は、、

     文にも歌にも出来ません。。。

                

         言葉にも、、、歌にもなさじ、、、わが想い

           その日その時

              胸から胸に、、、

     弟よ、、、君、、、死にたまうことなかれ 、、、

                   

       父の弟さんは、父から見ても優秀な快男児だったそうです。

         戦時中に亡くなってしまっているのですよね、、、

 

         海だったそうです、、、

 

        父は、、、あの日、、、トラックが来ていたら、、

        全滅した部隊に,、、野戦病院で従軍していた、、と

        奉公袋と、、、

         神社の寄せ書きでうまった

               日の丸の旗と

               千人針のタスキと、、、

                 軍服についていた、、、

             バッチのようなものを

                晩年

         「これを家には残したくない、、、」と言っていた。

            他家に行く、、、名字の変わる、、、

         全部私が持ってきましたが、、、

           今は何処にあるのか、、、思い出せません。

            

          

         

   

    戦争時代から、、、平成になる直前まで生き抜いた

     明治生まれで、

       音楽大学を卒業した、

         、1人の女性の写真を通して

 

   戦争が、、、女性をどんだけ変えてしまうか、、、

          、戦争のむなしさを

        伝えてもらえると、

    、戦争を避けられる未来を祈って

      掲載します。

        

       戦場に行く前の、、、静岡での長男1人と夫婦の時代

戦争に巻き込まれてゆく、、、夫婦の緊張した、、、家族写真

           

           戦争が始まっていないころの女性の顔   

     

 

   ここまでは、、女性は日本で暮らしていました。

     ニッポンに初めて入って来たクラシックの譜面を観乍ら

       ドイツ人、、ショルツ先生に弟子として、音楽に励むころ。

           

          

 

    苦しい状況が、、、彼女を取り囲み始めて、、戦争からの脱出まで     

       

  戦争中のPTSD   日本に帰国でき☜ 、思い出の外国へ旅 

                    

           村人に交じって

            戦後の笑顔

          

           戦地脱出、、、爆撃も終わり、

           終戦後の、立ち上がってゆく日本人の一人として

        戦地で失った子供を、、、取り戻すと、、、

          40才過ぎてから

        戦争を知らない、、、復活の日本!!

         後に、団塊の世代として日本を立てなおした世代の子!!

           ,、、後に

 

          不治の病として恐れられた「がん」の

         早期発見によって、

          外科手術が手遅れにならない時代の

            画像診断の分野を開拓して

          父の時代にできなかった、延命効果に貢献しました。

           

     弟を可愛がる母は、、どんどん回復してゆきました。

        疎開中の家族との生活で、、、

          精神は復活したのでした。

      

         故郷で祖父は、、、娘の心をよみがえらせたのです。

         勿論、、父の貢献も大きかったと思います。

      

   戦争を知らない団塊の世代の弟は

      パワフルで、明るくて、母の宝物でした。

        戦後の、、戦争を知らない時代の

         復活に向かって、行け行け,,,のパワーを発揮して

        黎明期の画像診断の名医として、、、

         母の心身を甦らせて、、、80歳を過ぎた母を

         天国に送ってくれました。

 

 

  祖父は、、昭和天皇を心から敬っていました。

  

   

     日本は資源も無く、、、開国間もない、、、戦争に

      巻きこまれてしまう、、、幼い国だった。

       マッカーサーは、、「日本人は12歳!だ」と言っていた。

 

      28歳でアメリカに留学していた祖父は

        アメリカの国の大きさ、、、

              資源の豊かさ

         法で動く,、、感情に流されない

              科学力

               通信力は、、、

            日本が遅れ過ぎだった、、、

 

          雲の後ろの飛行機群が探知できなくて

       貴重な軍艦を失ってゆく、、、

      文化の違いじゃな、、、

     アメリカと、、長期に闘うエネルギーは、、、

       日本には無い筈じゃ!!

      アメリカから、、学ばなければ,、、

            

            コロナのワクチンも、、、アメリカは早い!

         帰国したお爺ちゃんの家は

       洋館立てだった、、、電蓄もあった、、、

      ハイカラで

      いつも三つ揃えで、、、銀時計の懐中時計が

       私は、、、欲しくて仕方がなかった。

        電蓄は有っても、、、電気が無いのが南紀の山奥だった。

          祖父は衆議院と会う事が多くなり

           ダムをつくり、村に電気が来た。

  ダムが出来ると、

      祖父も父も母も親戚も、、

          皆、、都会に出ていった。

            父の人生は、、、

   仕方がない時代に、、、生れていた。

    戦争前の、、早稲田中学時代かな???

             

      戦後の疎開を得て、、、人生初めての

           開業医としての再出発!

           借金経済の開業が始まった。

         保険制度が出来て、医師は国の労働者として

          ノルマが増えていった。   

         大学時代の先生方と、、、温泉の再会

              

       

      美智子様が、女性たちに

               戦後の夢を、、下さったころ、、、

       

         戦後の復活の希望の時代を感じさせてくださった。

 

           

           昭和時代になって、、、笑顔を取り戻し

            自分自身を取り戻し、、、

          ニッポン女性の、、、強さを見せてくれました。

             


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