昨日の真夜中、NHKのラジオから
淡谷のり子さんの
懐かしのメロディーが流れてきました。
大きな柳の木のしだれた南紀の診療所の2階で
ビクターのワンちゃんの蓄音機から流れていた
懐かしの「ブルース」でした。
あのころ、、、
疎開先には、
心砕け散った敗戦の
心身ともに打ちひしがれた帰還兵や
引き揚げてきた一文無しのインテリで
復活に向けて手探りしていました。
ドイツも、日本も
どこか似ている国民ですが、
アメリカから帰ってきた祖父や
祖父の捨て身の大陸への迎えのおかげで
命拾いした父母は
祖父が町長をしていた南紀の山奥に
導かれて、、、導かれて、、、
七か村無医村という集落疎開地に
唯一の、医師として、
復活の第一歩を踏み出しました。
祖父は「淡谷のり子」さんが大好きでした。
心身復活リハビリーを兼ねて
診療所の2階は解放されて、
曜日によっては「ダンス教室」でした。
イタリアの庭、ブルータンゴ、
コンチネンタルタンゴの数々、
そして、淡谷さんの「ブルース」。
敗戦の時、真っ赤サー元帥が
「日本人は12歳」と言った事は
当時の敗戦国民の反省とするところでした。
同時に、12歳ではないぞ!という、
理解されない「貧しさからくる勝気」が
切ないまでの「復活への努力に向かいました。」
こんな田舎に、「アメリカ村」もありました。
切手とタバコを売っていた雑貨屋のお兄さんは
ワシントン大学を卒業していました。
失業の状態の傷痍軍人も
戦争で、戦陣外科の指導者を兼ねて
戦地に従軍していた父のもとに
松葉杖を抱えて、
ぴょんぴょんやってきていました。
戦地の病院に合流した私たちの家族も
引き揚げてくるまでに、
兄2人、姉一人、流産一人と、
確かに12歳と言われても仕方のない
「産めや、、増やせや、、」
肉弾三銃士、特攻隊と、、
すさまじい戦火を潜り抜けて
心身打ちひしがれた昭和20年前後の日本でした。
誰かが、、、ブルースをリクエストしました。
傷痍軍人のおじさんたちは、
涙を流し始めました。
音楽大学を卒業している母は
これまた、
新橋のフロリダのダンスホールの
至近距離にある医科大学を卒業している父が
戦前の、
二人が出会った頃の
ダンスを踊り始めたのでした。
クルクルと回りながら輪を描くワルツ、
大人の女性の淡谷さんのブルース
イタリアの庭のタンゴで太陽に
ブルータンゴで切ない思いを
それぞれに教えてあげていました。
あの蓄音機は、引き上げてきた年に
重病だった生き残りの兄が
復活したお祝いに、
誕生日に、親にねだって
新宮から取り寄せたレコードでした。
新宮の女学校を卒業してから
国立の音楽大学に進学した母は
当時、日本中を演奏旅行したり、
27歳でアメリカに渡った母の父に当たる祖父に
3か月かかる船便で
ピアノを買ってほしいと手紙を書き
ピアノを手に入れるほどのハイカラさんでした。
復活の村の診療所を開放した二階には
田辺あたりから、
日舞のお師匠さんを招いていました。
当時は「保険制度もありませんでした。」
診療報酬は、「野菜やら、川魚や、栗や、桃、、、」
お金で持ってきた人は、
いちおう、一度は診療所の金庫に入っても、
すぐに、復活の軍資金に回っていました。
おかげさまでなのでしょう、、、
田んぼや畑を耕して、畝を創り
種イモや、種を播けばよいだけにして
父母に提供してくれていました。
母は、、、きゃべつや、夕顔や、かぼちゃや
野菜を植えていました。
父は、祖父に頼んで
アメリカから、花の種を取り寄せてもらい
グラジオラスや、トリトマや、
イチゴや、ほうずきなど、
薬として使えるジギタリスや
シオン、ツルニチニチソウ、ユキノシタ、、、
色とりどりの薬草と花を植えていました。
復活の昭和20年代、、、
お爺ちゃんの大好きな
淡谷さんのブルースは
復活のムードの中で
多くの人の心を繋ぎ
マッカ―サーの言ってた
12歳の大人たちを、
どんどん成熟させていきました。
お爺ちゃんは淡谷のり子さんの
高い教養と、生き方と
毅然とした自分をもっている姿を
尊敬していました。
クラシックフアンと
歌謡曲フアンの中を繋ぐ歌手でもありました。
形は違っていても
私の時代は、安田姉妹の童謡が
同じような役割を果たしたと
ふと、、、
思ったりしながら、
お二人の声のまじりあうのを聴いています。
眞夜中に、
淡谷さんのソプラノとブルースを
一人聴く、素敵な時間。
私も、、、復活のこの頃です。
訳は話せませんが、
なにかを信じて
空に投げました。
なにかを信じて。
日本人だから、、、。
解らないのですが、
そうすることが、、、日本の為と
ふと、、ひらめいたのです。
日本が、悲鳴を上げたのかもしれません。
疎開地で、就職先にあぶれた引揚者で
貧乏のぞん底を見ているようでした。
その時、
ヒトラーが
就職先を創る意味でも
弾丸ドーロの網の仕事を創ったり
アメリカが、
テネシーを開拓したり
苦肉の策ではないのでしょうが、
被災地救済は、
日本の救済につながるといいですね。
でも、、、、ヒトラーのように、
軍隊が独裁にならないように
三権分立は
日本人が、
「人」であるための条件だと思います。
ではないのでしょうが、
疎開地では昭和20年代
バタやんのハワイ航路や
春日八郎のお富さんや
三橋道也の民謡が流れる時代でした。、
電気のなかった山奥に
電気を引くという名目で
「ダム」の建設が始まりました。
祖父の一族と言えばよいのだろうか?
親戚筋といえばよいのだろうか?
ハイカラさんが多く、
県庁や、
政治家にパイプのある知り合いが多くて
宮様の、和歌山のご訪問の
ご案内の栄誉に浴したり
復興のイベントの
審査員をしたり
ダム開発の
会議をしたりしていました。
新宮の山奥で
パルプの輪転機のような大きなロールのまわる
会社を経営していた親戚も居ました。
復興産業という事だったのかな?
今、、、振り返ると、
、、
就職先を創る事と、
アメリカナイズの近代化と
両にらみが、
生きる唯一の
活路だったのかもしれませんね。
ゴールデンゲイトブリッジを
まねた吊り橋や
洋館が、ここかしこに、現れました。
ダムの建設が始まりました。
診療所は、
けが人や、
ケンカのたんこぶで
荒々しい空気が
連日運び込まれてきました。
ダム工事が始まると
「ヨイトマケの歌」
ソノモノのの
母ちゃんの土方が
目の前にくりひろげられました。
もんぺを着た、
女性の土方さんも
骨折などで運び込まれてきました。
事故でなくなった方の解剖も、
学校の施設の一部の
離れの建物の部屋で行われました。
警察官や、
白衣の係官に交じって、
父は協力を求められ
法医学という
社会参加をしておりました。
出来上がったダムは
青々と水を湛えて
この中に、
涙とともに
村が沈んでいるなんて
思えない
「新世界」でした。
アユの多かった川が、
苔だらけになって
淀んでしまったと、
アユで生業をたてていた人は
川が、汚れたと言って
怒っていました。
30年も経てば、
元に戻るから、
電化の時代が、
アメリカ人が
運んでくる時代になるから
電気が無いじゃ済まされん時代が来るんじゃよ!
アメリカから引き上げるとき
持ってきたという
電蓄をかけてくれながら
祖父は、幼い私に
言っていたことを思い出します。
その電蓄からも
「淡谷のり子さん」の
レコードの音が
聞こえてきたのでした。
母はきっと、
おじいちゃんの
音楽マニアに
影響を受けたのかもしれません。
ダムは、
地元の地主の議員さんにバトンタッチされて、
技術と、設計や企画にかかわっていた技師たちが
村からどんどん去ってゆきました。
昭和28年から30年前後
東京へ、大阪へ、和歌山市へ
田辺や新宮市へ
疎開の人々は、子育ての教育進学に突入し
特攻隊精神で
新しい時代の教育に遅れまいと
都会へ都会へと出てゆきました。
父は、唯一の医師だったこともあり
引き留められて、
2年間は単身で疎開地に残りました。
母を中心に、私たちの家族は
父の故郷、祖父の故郷の東京に帰還したのでした。
父の故郷の市谷では
かっての家屋敷は他人の物になっており、、
引揚者や、土地家屋から家族を失い
健康も不安定なドブのある街に
戦陣で身に着けたすべての科に通じた医師が
必要とされている地区があると、
同窓生や、
同級生の開業している下町に戻ってきました。
かっての、貴公子のような父の姿はありません。
子供たちの教育の為に、
子供たちが生きネバならない時代の変遷に
教育を通して、日本の復活をかけると
父の最後の戦いでした。
生まれ故郷の市谷とは
かなり違うので、
初めは戸惑っていた事も
視点を変えれば、良いことも多く、
レストランの味も、赤提灯の味も
淡谷のり子さんは大人の味にしていったと
思いました。
東京に来てからは、
私は、越路吹雪さんが大好きでした。
大学に通う頃には
銀巴里???まるやまあきひろさんという
つけまつげのような青年の、
シャンソンが好きで、通いました。
一回だけ、ASBとかいう、
若向きのジャズを聴きに行きました。
あのころ、ヨイトマケノ歌を唄う
セーターを着た、
ヘップバーンのような
青年が、おりました。
東大に通っていた友人と
良く、待ち合わせてものでした。
日航ホテルの地下にもシャンソンが響いており
ホテルの前のアメリカン風の薬局で
アルバイトをしたものでした。
普通の薬局と違って、
銀座のホテルの近くの薬局は、
夜になると、何ダースも、
四角いキノコ山の
チョコレートのような箱が
売れるのでした。
お客の顔を見れなくて、
紙袋に入れて、下を向いて、渡していました。
勤務が終わると
シャンソンを聴きに
今、稼いだ日当を使っていました。
大学が御茶ノ水にある日大だったから、
社会勉強も、合わせて単位をとれた青春時代でした。
山奥の疎開地から、東京に来れたのは
父の捨て身の教育のおかげなのに、
落第は出来ません。
教養時代が終わって
からは、就職活動を考えて
英語を使うアルバイトや、
自分の英語の勉強を兼ねた家庭教師にと
アルバイト先が変わってゆきました。
私は、どんどん、、、
つまらない大人になってゆきました。
復活とは、、、父母の捨て身の愛に感謝して
自分も、
子育てに、
全力を尽くすことかもしれないと
70歳を過ぎた今、
命を懸けて孫子を守ることに出逢ったのでした。
日本の国が未来の子供たちへの
愛のある教育にかかっていることが
やっと、この年でわかってきました。
また、、、教育は、、、
お金がかかるという事も。
親が育てる時期と、
社会が育てる時期があるという事も知りました。
子供直接には、
教えることは出来なくとも、
日本を、心豊かに育つ子供で埋め尽くせば
心が貧乏であるがゆえに、
勝気に足を引っ張る社会はなくなり
良いものを出し合って、
チームで生きるナデシコに
皆がなれるのではないでしょうか?
ナデシコが教えてくれたこと、
淡谷さんが見せた生き方、
父母の捨て身の愛、
祖父の国境を越えたアメリカを理解していた教え。
父のイギリス医学。
疎開地で見た、地球と共存する地元の人々。
太陽のエネルギーを貯めている自然の恵み。
人生を振り返ると、
各セクションの秀でたことが
円卓に集まり
平等に意見や体験を
交換できることと同じような
PC.が、
中を取り持つ扇のかなめになると
考えるのは早計だと、思うのです。
肌を触れながら、
自ら体験しながら
実践しながら、
コーヒーは豆を選ぶところから、
香りをききわけ、
味を知り、
世界から、鳥瞰図のように
全体を3D以上の感性で
とらえる発想で生きてゆけたら、
私も、一文無しからでも
復活できるのに、、、と、
PC.をたたきながらも、
PC。中毒になって、仮想社会を現実ととらえる
危険な機械の洗脳術にはまらないように、
孫子の時代は、
自分で体験させて、体とぶつけ合う実践を通して
日本は。成熟していってほしいと思いました。
真夜中のラジオは、激しいクラシックに変わりましたよ。
「誰も、、、寝てはいけない!」