私の記憶は、
疎開地の小学校に通っていた時から
いきなり、、、
東京の小学校に転校しました。
母は、青春時代の東京に戻ったせいか。
赤ちゃん返りのように
自分が主役になる「大変身」でした。
学校から帰宅した私に
自分が大好きで来ていた服を
着るように言っては
友人の「絵の展覧会」や
日比谷の野外音楽や
宝塚の舞台を見に行こうと
少しの間、
手に負えませんでした
中学校は江戸川の近くの公立図書館の
門の前にある中学校でした。
先生の顔は思い出せません。
授業が終わるのを、いつも待ってました。
図書館に行くのが、楽しみでした。
母も、毎週7冊の本の名前を私に手渡し
「借りてきて!」と言いました。
母の本をリュックに背負い
教科書の入った手提げかばんを持ち
体育の着替えを持った日は
歯を食いしばって、地面ばかり見ながら
まっすぐ家に帰りました。
母は本の虫でした、
大地、など、、、
真珠が手のひらから落ちるとき
人は、それぞれ
「真珠を握り締めて生きている。」
そして、死んだら、
真珠が掌から落ちて
大地に転げ落ちるのよ。
パールバックの真珠は「大地」なのよ!
母の読書感は独特だった。
また、PTAに顔を出しました。
音楽の先生と友達のように
いつも
楽しそうに話していました。
音楽のN先生は
穏やかで、上品でにこやかでした。
しっかりした御嬢さんが2人おりました。
妹さんは同級でクラスが違いました。
お姉さんは
東京女子大に通っていました
美しい本に登場するような
しなやかな姉妹でした。
中学校ではK君という
勉強のできる子が居ました。
忘れられない社会の仕組みを
K君は、話してくれました。
「君んち、、開業医だろう?
患者さんが来るから、町にも知られるし
地域では尊敬されるし、
君は、、、医者って偉いと思っているだろう?
偉いとか、尊敬されるとか
お金が入るとか、その分
派手に、地域に戻す使い方をして
患者さんからも、尊敬されるし
支持されるし、
医者の子供たちは
親の地域力の威を借りて
自分も「選ばれた人と錯覚してるだろう?」
他人より
良い服着ちゃったりとか、、、
君はいつも「ボロすぎるファッションだけど、、、」
T医院のアイツなんか、、、
いっつもクラスの男の子従えて
女王様みたいにふるまって、、、
僕は「医者の子」って
カチンとくるんだよ。
「何が?かちんなの?」
「医者の子って
親が、、、大体、
子供を医者にしようとするだろう?」
日本で一番偉いのは「医者になる事」だと
教えてるのとちがうのか?」
ハハハハハ、、、大笑いしてしまった。
「K君は医者になりたいの?」
「めっそうもない、、、僕は、
慶応大学の経済に進学するのがゆめだ!」
「君のお父さんも?慶応?」
「そうだよ!!!、、、慶応はすごいんだ!」
「何が凄いのよ?」
「幼稚園とか、中学校とか、高校とか、、、
付属があるし、世にいうエリートだよ。」
「医者の家が子供を医者にしようとするのと
同じじゃないの!」
「違うよ!慶応は違うんだよ、
社会のリーダーの学校だよ。」
「東大があるじゃないの?!」
「>>>>>、、、、東大とは違う役割だよ。」
私の父は早稲田中学よ、そして、、、
残念だけど、、東大落ちたって!、、」
慶応とか、早稲田は受けずに
慈恵会医科大学の
2年生に飛び級で入学したって?
!言ってたわ?
「叔父さんは早稲田大学の理工学部に進学してる。」
ほら!三中の数学物理の先生になっているのよ。」
「へー三中の??」
「慶応の学生の親は社長とか、俳優とか、
国会議員とか?
医者じゃなくて、病院長とか?
医学部教授とか、社会性があり、、
創り上げた親の縄張りってあるんじゃないの?」
君は、俺んち!すごい!っておもってる?」
息子が、親の見えない応援を受けて、
歌舞伎役者みたいに、主役候補?
初めっから、、、重役とか?」
「それはないよ!」
「偉いとか、、偉くないとかの
勝負の世界と違うんじゃないの?」
立場は上とか、下とかは仕方ないけど、、、。
蓮華の花は野に咲くし
薔薇の花はエリザベス女王の庭に咲く。
睡蓮は水に咲く。
ハスは泥水が好き。
大学も、自分が行きたい校風の
無名な大学だって
其処に、自分の教わりたいものがあればいい。」
何をやりたいかで、大学を選ぶといい。
僕は「日大だけにはいきたくない!」
「なぜ?、、、オーミステイクだから?」
「違うよ、、、一般庶民の大学って気がするから。」
私は、日大は20分で行けるし、
先生方は、東大で教授退官した先生とか、
ほしくも、東大教授は無理だけど、、、という
凄すぎる世界を知っている先生が、教官だから
悪くないと思ってる。
全ての学部も揃っているスペシャルスーパーだし。
各課の様子もわかるし、
学者になるのでなければ、日大はいいと思うけどね。
一応、最大公約数のような言葉を選んだ。
「社会の縮図のような大学で、勝手に学ぶのもいいじゃない?」
「一応教養はあります、、、ぐらいの、、」
それに、理科系なら、建築界とか、医療界とか、
免許を取得できるから、やる気がある生徒は
懐が広いから、壁がないと思わない?」
僕は、、、絶対、、慶応!
「早慶戦で、慶応応援したいし、、、」
結果として、彼は慶応に進学した。
私は日大の「理工学部」に進学した。
薬剤師、衛生検査技師、高校教師、中学教師、
衛星管理者、とか、、、
大学で取得できる免許はすべてとれた、
大学院の授業にも出席
そこで、単位をとることもできた。
夕方6時まで実験、
近くの料理教室で創った夕飯食べて
8時から大学院との合同教職課程に出るという
綱渡りが、
御茶ノ水の理工学部のキャンパスでは
可能だった。
慶応に進学した彼は、
クラス会で一度会ったきり
そして、、それっきり、、、
どうしているのかもわからないほど
接点はなくなった。
中学時代は「今」を感じる暇はなかった。
大学進学のスタートだったような気がする。
人生で、尤も大切な青春期を
人間が作った社会の
カースト制にも似た大学ランク!
受験にしか頭が行かない哀しい時代。
受験で勝った人
受験で敗れた人
勝ち負け、が、、、
人生を支配するという魔法。
夫は国立の医学部に合格したから
受験では勝ち組だと思いますが、
生活を共にすると
人生は受験の勝ち負けの点取り合戦では
話が見えないという事をしばしば感じます。
サザエのような堅い殻が、
都合の悪い事には蓋をする。
錬金術にも似た「大学選び」
受験産業は
受験テクニックや、統計で
受験生を勝たせる、、、主役は予備校。
商品は生徒たち。
大学に入っても、依存性あり、
自分を理解してもらいたがる。
君のことはイイから
本題の考えを、客観的に議論しょうよ。
弊害も、人間破壊もゲルニカ並の
価値観の洗脳時代。
受験は「正解」があると教え込みます。
試験は「正解を求めてきます。」
しかし、、、人生の大半は
正解という答えは通用しないことが多いのです。
詐欺の横行する今日
詐欺に引っかかるのは
このころの
優等生かもしれない。
日本の受験時代が、
今一つ、、、勝ち負け、点取り虫の
戦争になっているのが、おかしくないですか?
高校三年生
この一年で、
17歳までの人生の結果が分類されるなんて
18歳からの目覚めの人たちは、
社会の片隅で
外野席に甘んじるのですか?
私のおじさんは
戦争から帰って来てから
早稲田大学に入学しました、
10歳以上も年上の父は、
我が子同様、授業料も生活費も
背負っていました。
28歳から、早稲田を卒業したのは
32歳です。
学芸大の学生だった先生の卵と
結婚式を挙げたのは
父の診療所の2階でした。
東京の公立の中学の「物理化学」の先生。
やがて、女子大の教授になって、
父と同じ54歳で
教鞭をとっている最中なくなりました。
受験戦争で進学したのではないだけに
魅力のある叔父さんでした。
早稲田は、私は大好きです。
でも、、、早稲田には「薬学部」はありません。
やっぱり!日大でしょう!
日本の受験戦争を振り返るなら、
大切な、五感が育つ時期に
点取り虫の競馬をしているようではありませんか?
中学校の時代に
夢を追いかけられる3年間なら
人生は、
心に咲く花の種を播かれて
かぐわしい香りのする
日本人が往行するはずである。
「お金が無ければ進学できない」という
学校システムこそ、
アパルトヘイトの罪悪に続く
社会の仕組みかもしれませんね?
教育は、いっぱいのかけそばでは
医学部は無理としか言いようがありません。
今の日本の教育制度は
お金がないのは、限りなく不利なのですよね。
4人も受験生の子供を抱え、
遊んではいられない環境でした。
母はこのころから、
ピアノのお弟子さんを教えていました。
教えてほしいという人に
教えているだけで、
本格的に
ピアノの会を運営するようになるのは
6年後でした。
受験生を抱えた母のこのころは
子供たちと一緒に
本や漫画本を読んでいました。
父と結婚してからも
子供ができる前は
東京都の女学校で
音楽の先生をしていました。
中学校の音楽の先生と
お友達のように
話が弾んだのは、きっと
時々開くコンサートの
お弟子さんの曲を選んだりする話で
盛り上がっていたのかもしれません。
私が日大に進学した時
仕方ないわね、、、
女の子が行く大学じゃないけれど、、、
お母さんは日大は反対よ!
音楽にしか反応しない母は
同居していた弟の娘たちを可愛がり
外出はもっぱら、私の従弟の
女三姉妹と出かけるようになりました。
居候として、従妹は、父に
洋裁学校に進学させてもらっていました。
母の、ピアノのおけいこに使う衣裳を創りながら
実の娘はカッコウの娘にけり出されてしまいました。
登山が好きで、
三千メートル級の山に登る私に
日大に行かせなければよかった!
男の子になってしまった、、、と
嘆いていたのを思い出します。
写真部、放送部。絵画部、登山、ソフトボール、
ESSクラブ、、、、、
思い出は
軽井沢の合宿で
T君が、ウクレレをひと時も離さず
「花はどこへいった」など
歌っていたことでした、
ジョーンバイズの「ドナドナドナ」
日大生の学友は
エリート意識で
鼻につくひとはいませんでした。
話も聞き上手、理解上手で
コミュニケーションは
楽しい4年間でした。
(^^
大学時代は時間が飛んだ。
実践の大学には
筋肉で覚えることが多かった。
しかし、、、
入学間もない時期の父の早逝は
独立する力を蓄える日々になった。
この時、
悪魔が
我が家を暗雲で覆ったのかもしれない。
青春時代の 真っただ中なのに
人生の花の時期なのに
よそ見もできないスケジュールで
日々は飛んだ。
一つあれば足りる免許なのに、
就職の不安や、
仕事の適性を欠いたときの
転職なども、考えに入れて
運転免許も取得した。
頼っていた父が逝ってしまったから、
卒業後のことばかり考えて
大学時代は
ゆとりがなかった。
実験の少ない卒論を専攻し
アルバイトに明け暮れた。
家庭教師をしていた教え子が
専修大学に入った、
その子のお父さんは
アルバイト料のほかに
大入り袋の内祝い金をくださった、
大学事務に呼ばれて
付属の女子高校で
理科の先生を募集しているから
受けていないかね?
嬉しかった。
しかし、薬理学の教授が
母校の教室で
寿退職する技官が居るので
技官を受けてみないかと推薦された。
寿退職するくらいだから
穏やかな先輩なんだろうと、
何気なく
東京大学の薬理学教室を訪問した。
その場で採用になり、
私も、、、寿退職までがんばるか?
就職はあっけなく決まった。
卒業旅行は
犬山城なのに
アルバイトの延長で
卒業旅行は行っていない。
19歳の大学時代の
父の死。
痛かった。
父の保護の上に
胡坐をかいていた今日までが
座布団を前部とられた「笑点」になった。
長男夫婦からは
毎日、、、縁談。
追い出されそうになりながら
私の役目も、
ひしひしと感じていた。
未亡人の母が
寂しくない結婚でなければ
ならないとも、考えた。
結婚は、
仕事の続きだった。
地tの後を継いでくれる外科医に
母と、兄は賛成した。
いきなり、、マイナス20度の
留萌の出張ローテーションの宿舎から
新婚家庭は始まった。
逆環境に居る外科医だからこそ
東京に、逃げ帰ってくれるのだと
安易に、仲人口を信じた、
実際は、
医学部には
部外者がわからない学閥もあり
東京への帰還は難航を極めた。
ミイラトリがミイラになった。
家具一つない、、身軽な外科医は
東京には帰還しなかったのでした。
孤独。孤立。
恋も愛も無関係な出発は
「階下の夫婦が出した家事から始まった。」
もし、あの時居たら、、、
私はいない。
医局から、
あちこち出張を命じられるままに
3か月ごとの道内移動があり
無給医局員は16万ほどの出張料を手にした。
無給医の生活は
これほど、ひどい貧乏暮らしだとは
想像できなかった。
留萌の宿舎暮らしは
冬山でも、飛び切り天候の悪い
難所で、山小屋暮らしをしているようでした。
夏は素晴らしく、
夕日も美しい留萌だが
冬は、、、命からがらの
思い出で、
体が凍りそうになる。
水洗でない、、、マイナス20度
流産の憂き目にあった。
次の妊娠では
4か月で、東京の実家に帰り
夫が、里心を出して
当初の約束を守って
実家に来てくれるのを待った。
外科医は「愛がなかった。」
子供が生まれるとき半年ぶりで出現
生まれてからは、3か月後に、
とうとう、私は100日の長男を連れて
札幌に入場!
電話をしてあったのに、
日航にも全日空のロビーにも
夫は来ていない。
「じゃじゃ馬ならし」という
映画を思い出したが、
長男の札幌入りに、
仕事をとった外科医は
夫としては失格だと思った。
若き外科医の周りには
華やかな看護師さんもいるわけだし、
父親になるには
子供が「パパ」と呼ぶ頃でしょう。
あきらめて、
一人で、おむつと、ミルクと
赤子を抱いて、
バスの後方の席で、
ゆったりと
札幌入りをしました。
それでも、、、
子供と出逢ったときは
結婚してよかったと思った、
そして、、、息子の受験。
地獄のような、、、競争社会。
日本の貧しさ、、、
受験産業とは、、、哀しい日本。
アメリカの多くの大学のように
全員大学に入学させて
勉強しなかった人間が
大学を去ればすむのではないか?
そして、子育ても、
全て終わった45年後の今日
正体の見えない
魑魅魍魎のうごめく札幌の老後を
いかに、賢く、
若者に、
余ったエネルギーを回して
被災地への税金も払って、
宵越しのお金は
一切持たないように
最後まで、
医師を続けることこそ
世間の財産と
自分の財産との一致する者であるから、
私たちの、子育て以外のお金は
痴呆になった親戚や、
施設に入った両親や
お世話になった集会の寄付や
晩年、両親を見れなくなった離婚家族の
お墓のま守り人など、
そして、孫子を危害から救う
鼠小僧にも
全て、、、贅肉になりそうな
不動産は、格安で、仕入れ値で
業者に引き取ってもらい、
お葬式にも
子供らに迷惑がかからないように
葬式やさんのメンバーになりました。
17万円でいろんなものがそろうそうですよ。
生き残った方が、ささやかな密葬をしましょうね。
寿陵という、生前のお墓も、瀧野に買いました、
谷内六郎さんは詩[し}を書いています、、、、が!!!
「バカ、、、墓買った、、、」
墓、、、高かった。(^^!
バカになる事にしました。
赤い字で、自分の名前を書きました。
やることはやった!
宵越しの金も使いきった!
今まで、、、何を大切に生きてきたのか
考える暇のない
忙しさでした。
残された時間は、
私自身が生きてゆくという
自分のための時間を過ごしながら、
感性の中で贅沢な、おいしい空気を吸うつもりよ。
地球という
大いなる親を私にくれた主よ!
キリスト様でも、弘法大師さんでも
仏様でも、大仏様でも
心に安らぎを下さるのなら
力いっぱい、おっぱいを吸った赤子が
にっこり笑って眠りに落ちてゆくように
私は、ぴんぴんころりと旅に立てるように
終りに向かって
ゴミ掃除を始めています。
一人ぼっちの北海道で
一人ぼっちの老後を迎えたのですが、
一人ぼっちは
1億全員が、一人ぼっちなのです。
裸で生まれ、裸で旅に立つ日の来るまで、
この世に生を受けた時
母の微笑みがあったことが
実は、、、宝だったのですね。
8月31日をもって
第一次 終活は終わりました。