☆オヤジの晩ごはん ☆オヤジの館

昭和をこよなく愛する団塊オヤジです。
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ニール・セダカの復活

2009年08月30日 | 昭和30年代の出来事&思い出

 彼は1939年3月13日 ニューヨーク州ブルックリンで生まれました。父はトルコのイズミルから移民したユダヤ系のタクシー運転手、母はポーランド/ロシア系移民。幼少期からピアノを習い、同じアパートに住んでいた作詞家ハワード・グリーンフィールドと共同で曲を作り始めました。後にジュリアード音楽院でピアノと作曲を学んでいます。

 1958年にコニー・フランシスのために作った「間抜けなキューピッド」が成功を収め注目されました。同年にRCAレコードとソロ歌手として契約を結び「恋の日記」でデビュー。その後、「おお!キャロル」、「カレンダー・ガール」、「すてきな16才」、「悲しき慕情」などを次々とチャート・インさせ、ポール・アンカと並ぶ全米のトップアイドルとなりました。日本では、「おお!キャロル」と並んで「恋の片道切符」も大ヒットしました。

 レコード会社を移籍後、ビートルズのアメリカ上陸等の影響を受け、しばらく低迷期を過ごしましたが、1974年には「雨に微笑みを」、エルトン・ジョンと組んだ「バッド・ブラッド」が再び全米No.1となりました。キャプテン&テニールに提供した「愛ある限り」も全米No.1を記録し、完全復活を果たしました。

 彼の復活以降に購入したレコードは大事に保管していますが、レコードプレーヤーが無い為20年以上聴いていません。近々購入の予定ですが、どんな音が出るのか楽しみでもあり不安でもあります。

 廃棄してしまったものもあり、現在では「Laughter in the Rain」,「Overnight Success」,「Sedaka's Back」,「Steppin‘Out」,「The best of Neil Sedaka」,「Neil Sedaka Solo Concert」,「A Song」, 「All You Need Is The Music」,「In The Pocket」,「Neil Sedaka: Now」の10枚を所有しています。
(ジャケットの帯が無く邦題のわからないものがある為、すべて原題で記載しました)

 一度だけ彼のコンサートを聴きに行ったことがありますが、伸びのある高音と哀愁に満ちた中低音で歌う曲は、すべてがすばらしい出来で感動しました。特に、1970年代以降の曲は素晴らしく、彼の「古典的ロマンチスト」としての素質が完全に開花したと言えるのではないでしょうか。。

彼も今年70才になりましたが、また素晴らしい曲を作って欲しいと思っています。

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難波昭二郎

2009年08月23日 | 昭和30年代の出来事&思い出

 8月14日、元プロ野球選手で実業家の難波昭二郎さんが亡くなりました。    1958年(昭和33年)に関西六大学のスター選手であった彼は、読売ジャイアンツに入団しました。東京六大学のスター選手であった長嶋茂雄の南海ホークス入りが濃厚とみた読売ジャイアンツ側が、中日ドラゴンズ入りが決まりかけていた彼に誘いをかけ入団が決まったそうです。結果的に長嶋茂雄の獲得にも成功し、東西六大学で活躍したスター選手がそろって巨人に入団することになりました。  しかし、長嶋茂雄の入団が、彼のその後の人生を変えることになりました。  長嶋とポジション(三塁手)が重なったこともあり、先発出場の機会が得られませんでした。  テレビの野球中継で、彼が三塁を守っている姿ををみた記憶はほとんどありません。  (代打としては、何度か見た記憶はありますが)  1962年(昭和37年)に西鉄ライオンズへ移籍して、同年限りで現役を引退しました。  【公式戦通算】    試合数 179、 打数 255、 安打 54、 本塁打  7、 打点 25、 打率 212     彼がもし中日ドラゴンズに入団していたら、野球選手としてはもっと良い成績を残したと思いますが、引退後の実業家としての成功があったかどうか?  引退後は音楽関係の会社(パイオニア)に入社し、その後「制作ディレクター・プロデューサー(さだまさし、小林幸子等を担当)」等をつとめ、取締役(ワーナーミュージック・ジャパン)にまで昇進しています。  野球選手としては同期の長嶋茂雄に大幅に遅れを取ったが、引退後の第2の人生で追いつき、追い越すことが出来たのではと思います。  ご冥福をお祈り致します。

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