聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★復活されたキリスト

2007-06-21 | 「キリストの復活」

                  

 主イエス・キリストの復活ほど、人生に真の希望を与えるものはないということを私は堅く確信しております。この世の中のすべてのものは、移ろいやすく、すべてが古くなり、やがて消滅して行くのです。人も物もみなやがて朽ちて行くのです。ところが、イエス・キリストは、十字架の上で死なれ葬られたのですが、その聖よいお身体(からだ)が朽ち果てるのを神は許されないで、ついにその墓から蘇(よみがえ)らされたのです。それは、まさしく、長い時代(旧約時代)を通して、神が預言して来られたことの成就であったのです。そしてまた、キリストご自身がその三年半の公生涯において自らの復活を預言されていたのですが、そのことが現実に起こったのです。

(1)旧約のキリスト復活に関する預言。

●「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。」(詩篇16:10)。
 
 この聖書の箇所は、新約時代に、あの使徒ペテロがキリストの復活を預言するものとして引用しています。この預言が成就したことを、あの使徒ペテロは、ペンテコステ(五旬節)の日に力強く語ったのです(使徒の働き2:22~29をご参照ください)。

(2)イエス・キリストが、ご自身の復活を預言したことば。  

●「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」(マタイの福音書16:21)。  
 
●「彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは彼らに言われた。『人の子は、いまに人々の手に渡されます。そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。』すると、彼らは非常に悲しんだ。」(マタイの福音書17:22,23)。
●「さて、イエスは、エルサレムに上ろうとしておられたが、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。『さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。』 」(マタイの福音書20:17~19)。
 

 このように、主イエス様は、弟子たちに少なくとも三度、ご自身のよみがえられることを預言されたのですが、それがそのお言葉通り、実現したのです。普通の人は、そのようなことを適当に(また、でたらめに)預言したとしても、そのとおりに復活することなどできるはずがありません。しかし、イエス・キリストは、神の御子であり、救い主であることをご自身の復活によって、はっきりとお示しになられたのです。 

 ところで、聖書に死が人間の世界に入って来たのは罪の結果であると教えています。つまり、神への不信仰、すなわち罪が私たちの人生に死をもたらしたことを聖書は告げています。ところが今や、キリストが十字架の上にてその罪の力を打ち破られ、罪に勝利されたのです。つまり悪魔の力を打ち破られたのです。ですから、もはやキリストは死の中にとどまることができませんでした。皮の固い木の実でも一旦地の中に埋められると、その固い皮を破って芽が出て来るのです。それはなぜでしょうか。その固い皮の中に命が入っていたからです。その命が活動を始めた時、もうその殻の中にとどめておくことはできないのです。殻を破り、地の中から新しい命となって芽を出して来るのです。

 同じように、主イエス・キリストは、人類の罪のための贖いのみわざをなし終えた時、もはや死はキリストをその死の中にとどめておくことはできませんでした。神はその偉大な力によって、イエス・キリストをその死の中から復活させ、もろもろの名に勝る一番高い権威ある名を与え、神の唯一の御子であることを証しされたのです。ですから、キリストは、死んだ救い主ではなく、今も生きておられる神の御子なのです。一度は死なれましたが、死に打ち勝ったのです。もはや、キリストの前には、死は何の力もないのとなったのです。キリストの復活と再臨こそ、クリスチャンの唯一最大の希望なのです。

●「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた。』としるされている、みことばが実現します。『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」(Ⅰコリント15:51~57)。
 
 さて、やがて死ぬべき人間にとって、最も必要なものは、癌が治る薬でもなく、自殺者を減らすことでもなく、貧困を無くすることでもありません。この世界から戦争を無くすることでもありません。なぜなら、人間が、例え、病気が治っても、核戦争が起こらなくても、交通事故がなくなっても、また、金持ちになっても、必ず、死ぬ時が来るのです。人間の死亡率は100%なのです。私たちは、決してなくならない永遠不滅なもの、真実なものを求めています。それは、やはりイエス・キリストを他にして、この世の中に見出すことは絶対に不可能なのです。死に打ち勝ったキリストであればこそ、私たちの醜い汚れた心を新しく造り変えることができるのです。

 また、死の恐怖におののいている方も、その不安と恐怖から解放され、真の平安と希望を持つことができるようになるのです。死後の世界の永遠について不安を御持ちの方、確信が持てない方がおられるでしょうか?イエス・キリストは、現在の生活だけでなく、永遠から永遠に至るまで、あなたの幸福の保証人となってくださるのです。どうか、まだイエス・キリストを救い主として信じておられない方は、今すぐにでもイエス・キリストをあなたの個人的な救い主と信じて、このすばらしい救いをご自分のものとなさってください。信じるなら、必ず、すばらしい主イエス・キリストと共にある幸いな生活、すなわち主のご再臨と自らの復活を待望できる幸いな生活を経験することができるのです。

●「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死(と復活)によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。 」(ヘブル人への手紙2:14,15)。

●「私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。‥‥主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」(Ⅰテサロニケ4:14~18)。

 
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