聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★人が生きる目的は何か?

2007-05-30 | 「聖書と人生」



 ある大学で、一人の学生が人生に悩み、自殺を図ったことがありました。幸いにも未遂に終わったのですが、そこで一人の教授がその学生に尋ねました。「君は、なぜ自殺を図ったりしたのか。」と。

しかし、その学生は恨めしそうにその教授に、「それでは、先生は、なぜ生きているのですか?」と聞き返したそうです。その教授は、返答に困り、答えることができませんでした。「人が生きる目的と意味は何か?」。これは、人生における重要な質問です。でも、学校の先生も、生徒や学生に質問されて答えることができないのです。

人が「今」を生きることができるのは、何らかの目的と希望を持っているからです。これがないと、人は自殺するか、惰性で生きるしかないのです。小説家のヘミングウェイも、「人生には何の意味もないのだ。」と言って自殺したのは有名な話です。 

 いつの時代のことか明確ではありませんが、かつて、ギリシャにおいて囚人に対する厳しい刑罰に、次のようなものがあったと聞きました。一つの大きな桶に水をいっぱい入れてあるのですが、その水を汲んでバケツに入れ数百メートルくらい離れた場所にあるもう一つの桶に水を運び入れます。

それが終わると、また最初の桶にその水を汲み移すのです。この同じ作業を何度も何度も、往復して繰り返すのです。このような作業を繰り返すと大抵の囚人は参ってしまうのだそうです。これと大変似たような話を最近読んで、「世界には似たような話があるものだなあ~!」と不思議に思った次第です。

 昔、ナチスの囚人に対する拷問にこういうものがあったとそうです。ある所に沢山の重い石が積み上げてあります。その石を囚人に命じて、他の場所まで移動させます。 囚人たちは汗みどろになり、全力を出し切って、その石を移動させ、やっとのことで命じられた場所に運び終えます。

しかし、やっと作業が終わったと思ったら、もとの場所へもう一度運ぶように命じられるのです。彼らはその重い石をまた汗みどろになって、その場所まで運ぶのです。すると今度は、もう一度、先ほどの場所に運ぶように命じられるのです。そして、囚人たちは、この二箇所の場所を何度も往復する重労働を延々と繰り返すのです。この作業を繰り返すうちに、終いには頭がおかしくなってしまう者が続出するのだそうです。

 このような行為に人はなぜ耐えられないのかというと、いくつかの理由を上げることができます。(1)まず第一に、この作業には、何の目的もないからです。(2)この作業には、何の意味も価値もないからです。(3)また、この作業にはいつまでも終わりがないからです。

人間は、何の目的もなく、意味もないことを延々と続けることに耐えることができません。このようなことを自分の自由意志に反してやらされると、精神的におかしくなったとしても不思議なことではありません。同じ重労働でも、その石を運ぶことによって、何かの建造物を建てるとか、堤防を作るとか、明確な目的があれば、苦しくても辛くても、その労働に何らかの喜びや充足感を持つことができると思いますが、目的のない仕事を続けるのは辛いことです。

 人間、苦しいことや辛いことがあっても、その試練や困難を乗り切って、生きて行くことができるのは、何らかの目的を持っているからではないでしょうか。 しかし、その目的も、実は多くの人にとって、目先の一時的なあるいは表面的なもの、気休めににしかならないものであることが多いのではないかと思います。「○○の一流大学に入るため勉強する」。「有名な企業に就職するために‥‥する」。「マイホームを建てるためにお金を貯める」。「有名なスポーツ選手になるために自らを鍛錬し、そのために励む」。「病気をしない健康な体を作るためにあらゆる努力をする」。このようなことを書けばきりがありませんが、これらはみな人生の根本的な目的とはなり得ないものです。

 もう何年も前の話ですが、英国のある新聞が「お金とは何か。」について、その定義を募集し、最優秀作品に当選したのは、「金とは幸福以外のあらゆるものを与えることのできる万能の供給者であり、天国以外のどこにでも行くことのできるパスポートである。」というものであったそうです。お金が人生を幸せにすると錯覚して、お金を儲けるために血眼になって働く人もいるかもしれません。しかし、それは、空しい希望に過ぎません。お金で幸福を得た人は、この世に一人もいないのです。かつて栄華を極めたイスラエルのソロモン王は「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、空しい。」(伝道者の書5:10)と言っています。  

 それでは、一時的な目先の目的ではなく、人間が人間として生きる根本的な目的は何なのでしょうか。それを正しく教えるのは、天地万物を創造された真の神様だけであると確信を持って言うことができます。時計は時間を知るためにあり、家は人が住むためにあり、車は人や物を運ぶためにあるように、作られたものには必ずそれを作った人の目的があるのです。

進化論者は、人はアメーバーから進化して来た「偶然の産物」であると言います。人間が偶然の産物ならば、そこにはその存在の意味とか、目的などを問うことはできません。また、彼らは当然、その目的を説明することができません。偶然に意味などないからです。しかし、人間を創造された真の神様(God)は、聖書によって、人を創造された目的を明確に語っているのです。


●「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1:27)。

●「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」(イザヤ書43:7)。


人間は、神ご自身のかたち(内面的な性質、人格など)に似せて、神の栄光のために創造された(created)のですが、人類の始祖アダムは神の前に罪を犯し、神から離れ、神に背を向けて生きるようになり、全人類は神の警告通り、罪と苦しみと死の恐怖の中に生きるようになりました。しかし、神は正義なる御方ですが、旧約聖書の中で繰り返し繰り返し、この世界に救い主を遣わされることを預言されていたように、約2.000年前に神の御子イエス・キリストはこの世に赤子として誕生され、罪なき聖よいご生涯の終わりに私たちの罪のために身代わりとなって十字架で死んで、三日目によみがえってくださったのです。

 この尊い救い主、イエス・キリストを信じる者は、神のさばきから救われ、永遠のいのちが与えられ、生きる喜びと平安と幸福が与えられ、真の希望が与えられ、人生の本当の意味と目的を持って生きることができるのです。復活されたイエス・キリストを信じて、その人生が180度変えられた使徒パウロは、次のように語ることができました。死を超越した真の希望と人生の目的を知った人のことばです。パウロにとって、人生を生きることは、漠然とした曖昧模糊としたものではありませんでした。はっきりとした目標(目的)があったのです。また、死後の世界に対しても、明確な確信と希望を持って世を去ったのです。


●「‥‥キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人(クリスチャン)が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々(クリスチャン)が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」(2コリント5:14,15)。

●「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(ピリピ人への手紙1:21)。

●「‥‥あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、神の栄光を現わすためにしなさい。」(1コリント10:31)。
 
●「‥‥私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」(2テモテへの手紙4:6~8)。

  
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