聖書から人生を考えよう

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お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★人生の矛盾と孤独の中で

2005-04-05 | 「人生の幸せと平安」

                     

  「悠々なる哉天襄、遼々なる哉古今、五尺の小躯を以て比大をはからむとす、ホレーショの哲学ついに何等のオーソリチーを値するものぞ、万有の真相は唯一言にしてつくす、曰く”不可解”我この恨を懐て煩悶終に死を決す。既に厳頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし、始めて知る、大いなる悲観は大いなる楽観に一致するを。」。今から100年前位前の一高の学生であった藤村 操(みさお)は、宇宙と哲学を研究して結論を得ず、「巌頭の感」の一文を残して、日光の華厳の滝に身を投じて、自ら命を絶ったのである。彼は、万有の真相は不可解なるがゆえに、不可解なるがままに生きて生を貪ることは、無意味として、若い命を絶ったのであるが、なぜ、更に生き延びて、研究を続けなかったのかと惜しまれた。しかし、その遺した文章は実に名文であるとして、惜しまれたのである。この時の藤村 操は若干16歳の前途有望な青年であったのです。

 時代が移り変わっても、今日も同じ人生の真理を求めてさ迷っている多くの青年の魂があるのではないかと思われてならないのである。人生は一度しかないのだ。しかも、生まれ落ちた瞬間から誰もが否定し難い力でもって、死へ一歩一歩吸い込まれて行くのである。生きる営みの涯(はて)にこのような死しかないのだとしたら、すべての労苦は空しく感じることはないのか。この耐え難き矛盾、この心を解決してくれるものはないのか‥‥と。

 次のように煩悶している若者もいるに違いありません。自分は、いつも裏切られて来た。未来を謳う大学の虚像に、永遠を誓った愛のことばに、政治に、革命に、イデオロギーに、そうして自分自身にさえも。自分はいつも孤独であった。親も、兄弟も、教師も、先輩も、親友も、ひとり夢中で登ったあの山の尾根の草むらにも、自分の心を知ってくれるものは一人もいなかった。自分はいつも錯覚のうちに生きて来た。自分は人を愛しているつもりでいたが、自分の空っぽな心を満たし、慰められたいためのただの演技に過ぎなかったのだ‥‥と。

 自分のうちから絶えず何か大切なものが、音を立てて崩れて行く‥‥。希望が、信頼が、心の交わりが、愛が、そうしてそれらをひたむきに信じ、大切にしていた自分の心の純粋さが‥‥‥。ああ、動かぬものが欲しい。変わることのない永遠にして絶対の真実が。あの果てしなく澄み切った青空のように。求めて、求めて、求めて、‥‥‥それでも、得られなかった人生の真実、平安、永遠に崩れることのない確かな希望はないのか。

 華やかな文明と繁栄の谷間に思い煩う幾多のたましいがある。高層ビルが建ち並び、ジェット機が飛び交い、IT機器による情報網が張り巡らされるような時代にあって、しかし、そのような科学の発達とは裏腹に、人の心は砂漠のように渇ききっている。情報化社会の中で、他人の言葉で語り、借りものの思想で考え、流行に従って右向け右をする。そんな平均的人間にはなりたくないと思いながらも、時代の波に翻弄されている自分。生きる旅路に疲れ果て、あてどなくさ迷うその姿は、今日の君かもしれないし、明日のあなたかもしれない。

 三千年前の当時の世界最強の王国イスラエルのソロモン王は、富と財産、地位と名誉、学問と教養、この世のあらゆる快楽を手に入れ、何と、700人の妻を持つほどの快楽を極めたのであるが本当の幸福と満足を手に入れることはできなかったのである。彼は、老年になって書いた伝道者の書で、次のように語っているのである。創造者(神)を無視した人生のいかに空しいかを知ることが出来る。

●「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。 日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。」(伝道者の書1:2,3)。

●「実に、日の下で骨折ったいっさいの労苦と思い煩いは、人に何になろう。 その一生は悲しみであり、その仕事には悩みがあり、その心は夜も休まらない。これもまた、むなしい。 」(伝道者の書2:22)。

●「母の胎から出て来たときのように、また裸でもとの所に帰る。彼は、自分の労苦によって得たものを、何一つ手に携えて行くことができない。 これも痛ましいことだ。出て来たときと全く同じようにして去って行く。風のために労苦して何の益があるだろう。 しかも、人は一生、やみの中で食事をする。多くの苦痛、病気、そして怒り。」
(伝道者の書5:15~17)。

●「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』と言う年月が近づく前に。」(伝道者の書12:1)。

●「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。 神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。 」(伝道者の書12:13,14)。
 

 さて、新約聖書では、イエス・キリストは次のように語っています。私たちの心の空洞を真に満たすことの出来る方はイエス・キリスト以外にはいないのである。

●「だれでも渇いているなら、わたし(キリスト)のもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネの福音書7:37,38)。 

 イエス・キリストを救い主として信じたパウロは次のように語っています。信じる前と後では、人生の価値観が全く逆転してしまったのです。そして、人生の明確な目的を知ることの喜びを体験する者となったのです。

●「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」(ピリピ人への手紙3:8)。 

●「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(ピリピ人への手紙1:21)。 
 

   

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