●「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」(創世記2:7)。
●「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたち彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1:27)。
神は、人間を土地のちりから造られたと聖書は明確に教えています。ある方はこれを神話のように言いますが、霊感によって記された聖書の記事のすべては、永遠不変の神の真理であり、私はこれをそのみことばの通りに信じています。そして、神は、ちりを取り、ご自身に似せて形造り、息(霊)を吹き込まれると人間は生きものとなったのです。ここに人間の尊厳性と共に脆弱性(もろさ)が見事に描き出されています。「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれをくださった神に帰る。」(伝道者の書12:7)とあるように、人がちりから出てちりに帰ることは聖書に書かれていますが、さらに人間の体で必要とする成分が土の中に含まれていることも、非常に興味深いことではないでしょうか。
神の「息」とは神の「霊」のことであり、人間は動物とは違い、霊的な存在として造られたのです。神の霊が与えられたことによって人は生きるものとなったのです。人が「生きる」ということは、ただ単に動物のように生存することではありません。そして、この神が与えられた霊こそが、神を敬い、神を慕い、神と交わり、神を礼拝し賛美する思いを人間の心の中に与えているのです。また、「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」(伝道者の書3:11)と聖書は言っていますが、これこそが人間にだけ与えられた神の賜物なのです。動物は、本能によっていろいろなことをしますが、人間のように未来のことや永遠のことを考えることはありません。
それでは、どうして神は人間にこの霊を与えられたのでしょうか。それは、神と人間が何の妨げもなく親密な交わりを持つためであり、これは神が人間を愛の対象(または、パートナー)として創造されたことを示しています。そして、神は決して強制的に神を敬うような人間を造られたのではありませんでした。ロボットは、人間が自分の思う通りにコントロールでき、あやつることができるのですが、神は人を創造された時に、決してロボットのようには造られなかったのです。もちろん、神はそのようなロボットのような人間を造ることは出来たと思います。もし、そうすれば、今日だれ一人として神に逆らい、神に背を向け、自分勝手な罪の生活をすることはなかったでしょう。しかし、神の英知に満ちたご計画は人間の考えに比べてはるかに勝っているのです。
では、神はどうしてそのように人間をロボットのようにお造りにならなかったのでしょうか。これは、少しお考えになればすぐに分かることではないかと思います。あなたも、私も人間はだれ一人として自分はロボットのようにはなりたくないと考えると思います。もしそうであるならば、そこには何の心の交流もつながりもなく、ただ言いなりに動く機械的な服従があるだけではないでしょうか。そうであるならば、そこには、愛情も、意志の疎通も、愛の交流も存在しないことになります。ところが、ロボットでなく人間であれば、たとえまだ物事がよく分からない幼児であったとしても、親の言うことを理解して、何かごく簡単な行動をしただけでも、親にとっては、どんなに嬉しいことでしょう。そこには、必ず、喜びがあります。
たとえ、それが大人から見たら取るに足らないことであっても、とにかくその小さな心で自分の意志で理解して、自分から行動して親の要求に応えたのです。そこにこそ、本当の心のつながりと愛の交流が生まれるのではないでしょうか。このように考えてみますと、人間でさえそうであれば、まして神が人間を造られた時、ロボットのように造られなかった理由を知ることができると思います。機械的な服従ではなく、神のみ言葉に対して、自分がどう判断して従うかを神は人間に要求され、またそれをご覧になっておられるのです。ですから、神は人に自由に選択できる「自由意志」を与えられたのです。人間は神のロボットではなく、自由意志が与えられているということは、本当にすばらしいことなのです。是非、人間に与えられたこのすばらしい特権についてお考えになってください。
ですから、人は自分の心で、霊で、はっきり真の神様のみこころを判断して、神を認め従うべきなのです。ところが、残念なことに人間はこの神を認めることも、信じることもできないくらい遠く離れてしまったのです。その上、神ならぬ神々(偶像)を作り出して、それを拝むに至っては、正義なる真の神様がその不従順な人間を、激しい裁きをもって報いられたとしても当然のことではないでしょうか。例えてみますと、もし、人間にコントロールされるロボットが隣家の玄関のガラスを割ったとします。でも、その自由意志のないロボットには、その責任を問われることはありません。しかし、自由意志を持った人間がキャッチボールをしていて、隣家の窓のガラスを割った場合は、当然責任が問われ、その償いをしなければなりません。
●「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)。
●「神は善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」(伝道者の書12:14)。
しかし、神は正義であられると同時に愛の神であるのです。神にとって、どうしてご自分の造られた人間が滅びることを願っておられるはずはありません。一日も早く、一人でも多く救われることを望んでおられるのです。そのために、神はご自身のひとり子イエス・キリストをこの世に全人類の救い主として遣わしてくださいました。イエス・キリストは神に人を近づけるために、天から来られたただ一人の救い主です。キリストは心から人々と愛と憐れみを示され、悩める者や病める人々に救いの御手を差し伸べられ、また、盲人の目を開けたり、死人をよみがえらせたり、その他多くの数えきれないほどの奇蹟を行って、ご自身が神の御子であり、救い主であることをはっきりと証明されたのです。また、恵みに満ちたことばと共に、権威と力に満ちたことばも、数多く語られました。
イエス・キリストのなさった多くの恵み深いみわざを見て、砂糖に蟻が群がるごとくに、人々はキリストのあとに従ったのです。しかし、彼らの求めていたものは、罪と死後の裁きからの救いではなく、この世的な救い(一時的なこの世の幸福)であったのです。そして、イエス・キリストは、その生涯の最期の33歳の時に、十字架に架かって、全人類の罪の身代わりとなって死んでくださり、墓に葬られたのですが、死後三日目に復活されて墓から出て来られたのです。これは、人類の歴史上、最も驚くべき奇蹟であり、これを通して、キリストが神の御子であり、神と等しい方であることをはっきりと示しています。この御子イエス・キリストを信じる者はすべての罪が赦され、永遠のいのちを受けることができるのです。
●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。
キリストの大きな愛があなたに強く迫っています。今日も、キリストはあなたの心に語り続けています。キリストは、ある時、ユダヤ人に向かって「ああ、‥‥わたしは、めんどりがひなを集めるように、あなたがたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、それを好まなかった。」(ルカ23:37)と言われましたが、これは現代の私たち一人一人にも語っておられる警告のことばです。神の審判がいかに厳粛で厳しいものであることを知っているからこそ、真剣に私たち神から離れている者たちを神の怒りから救おうとして招いておられるのです。どうぞ、あなたもその心の耳を開いて、キリストの招きに応じてください。
●「わたし(キリスト)は道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもと(天国)に来ることはありません。」(ヨハネ14:6)。
●「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書11:28)。
●「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたし(キリスト)のところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(ヨハネ14:6)。
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