聖書から人生を考えよう

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★クリスチャンの望みは何か

2005-05-14 | 「ご再臨と信者の真の希望」

     

  多くの人たちは、この世のいつかは消え去ってしまう空しいものに希望をおいていないでしょうか。ある人にとって、それはお金であったり、地位や名誉であったり、マイホームであったり、健康であったりします。「健康」を目標にして生きている人を例にあげれば、その人は健康が損なわれたり、病気になったりしたら、もう希望がなくなるわけです。富や名誉、家、その他どのようなものでも目に見えるものは、必ず、失われる時が来るのです。ところで、「クリスチャンの希望は、一体、何ですか?」と質問されることが度々あります。そのことに関して、自分の考えではなく、聖書のみことばを引用して、簡単にお答えしたいと思います。イエス様は、ご自身の十字架を目前にして、弟子たちに次のような励ましの言葉を語られました。

●「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネの福音書14:1~3)。  

 私たち人間は、だれでも弱い者で、何かあるとすぐに心を騒がせてしまう弱い者たちです。十字架の死が目前に迫って来て、主イエス様が弟子たちを残して去って行こうとされていました。今まで三年半の間主に従って来た弟子たちは、これから先どうなるのだろうと、不安な心でいっぱいで、心が騒いでいたのでしょう。そのような弱い者たちに対して、主イエス・キリストは実に強く確かな約束と励ましを与えていらっしゃいます。「神を信じ、またわたしを信じなさい。」と力強く語られました。「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。」とも語られました。それに続いて、「 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。」と、約束されたのです。イエス・キリストを救い主と信じる者(クリスチャン)のために、主の十字架の死と復活の後、主イエス様は天国で永遠の住まいを備えておられ、その用意が完了したら、イエス・キリストは再びクリスチャンを迎えに天から来てくださるのというです。

 天国とは、主イエス様が私たちのために用意してくださっている所であり、そこにはいつも主が共におられる幸いな所なのです。天国がどんなに美しく光輝く場所であり、快適な環境が整った所であったとしても、そこに主がともにおられないなら人間はそのような環境に飽きる時が来るかもしれませんね。天国は、私たちの罪のために身代わりとなって十字架で死んでくださるほど愛してくださり、また、死後三日目に復活された方が共におられる幸いな所なのです。適当な例えでないかもしれませんが、もし、どんなに立派な邸宅であっても、そこに自分を愛してくれる両親がいなければ子供は決して幸福ではありません。たとえ、貧しい生活でも、愛する母親がいるなら子供は幸せです。私たちの魂は、場所や環境の快適さによって満足するのではありません。私たちの魂を満足させてくださるのは、主イエス様ご自身です。主イエス様がおられるからこそ、そこは天国なのです。

 主は、天に帰られた後、クリスチャンを迎えるためにまた来てくださるのです。それは、主がもう一度来られる「主のご再臨」の時であります。また、ある人にとっては、私たちのこの世の人生が終わる死の時であるかもしれません。いずれにしても、主は私たちを天国に迎えてくださるために、もう一度来てくださいます。ですから、私たちは心を騒がせる必要はないのです。主のご再臨の希望については、パウロは次のように記しています。

●「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた。』としるされている、みことばが実現します。 『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』 」(コリント第一の手紙15:51~54)

●「眠った人々(信仰をもって死んだ聖徒たち)のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずす。 ‥‥‥‥‥主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。 」(テサロイニケ人への第一の手紙4:13~)。

●「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。 しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。
最後の敵である死も滅ぼされます。 」(コリント人への第一の手紙15:19~26)。

●「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。 」(ピリピ人への手紙3:20,21)。 
 

 主イエス様は、冒頭のみことばを語られたあとで、次のように言われたのです。。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもと(天国)に来ることはありません。」(ヨハネの福音書14:6)。是非、あなたも、キリストを信じて、イエス様が約束された天国に向かって、希望に満ちた旅を始められませんか。



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