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聖書から人生を考えよう

私のプログへようこそ!!
お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★逃げ出さない幸福

2005-01-20 | 「人生の幸せと平安」



 みなさんは、中国の故事から来ている諺で「人間万事塞翁が馬(じんかんばんじさいおうがうま)」ということばをお聞きになったことがあると思います。
「人間(じんかん)」とは日本で言う人間(にんげん)の事ではなく、世間(せけん)という意味です。また、「塞翁」というのは、城塞に住んでいる「翁(おきな)=老人」という意味です。「城塞に住む老人の馬がもたらした運命は、福から禍(わざわい)へ、また禍(わざわい)から福へと人生に変化をもたらした。まったく禍福というのは予測できないものである。」という事を教えている諺なのです。
人生の幸不幸や運命は、計り知れないものがあって、予測できないものである。」という意味ですが、本当にその通りだと思いませんか。
 
昔、中国の北方の城塞に住んでいる老人がいました。その老人は名馬を持っていたのですが、ある日、その馬が逃げ出してしまいました。近所の人が彼を慰めると、「これが幸福のもとにならないとは限らない。」という返事です。やがて、馬が戻って来たのです。しかも、すばらしいたくさんの名馬を連れて・・・。近所の人々がお祝いを言いに行くと、今度は「これが不幸のもとにならないとも限らない。」と答えたのです。その名馬が産んだのも立派な馬だったのですが、その馬に乗った老人の息子が落馬して足を骨折してしまったのです。
人々が慰めると、「これが幸福のもとにならないとも限らない。」という返事です。その後、戦争が起こって、多くの若者が兵士として駆りだされて戦死しました。しかし、その息子は足が不自由なために、戦争に行かずに済んだのです。その後のことは、よく分かりませんが、これが、「人間万事塞翁が馬」という諺のもとになった中国の昔話です。   

「人間万事塞翁が馬」の「人間(じんかん)」とは、日本で言う人間(にんげん)の事ではなく、世間(せけん)という意味です。「塞翁」というのは、城塞に住んでいる「翁(おきな):老人」という意味です。要するにその意味するところは、「城塞に住む老人の馬がもたらした運命は、福から禍へ、また禍から福へと転々と彼の人生に変化をもたらしたように、まったく禍福(不幸と幸福)というのは予測できないものである。」という意味なのです。

「やっと、目指す有名大学に入れたと喜んでいたら、病気になった。」とか、「素晴らしい結婚が出来たと思ったら新婚旅行で事故死した。」とか、「職場にも慣れて来て喜んでいたら、倒産してしまった。」とか、「マイホームを建て、ローンの返済も済んだと一安心していたら、地震による津波で、家が流失してしまった。」など、とかく、「幸福」というものは、掴んだと思ったら逃げ出して行くのです。多くの人々の一生は、この幸福を追いかける鬼ごっこと、たまたま捕まえた幸福を逃げ出さないように、閉じ込めようとする、空しい努力の中に費やされているのではないかと思われるのです。

間違いのもとは、「幸福」というものを外から捕まえて来ようとするところにあるのです。「逃げ出さない幸福」はその人の内に持つべきものなのです。人の外側、つまり、事情や境遇に具合の良いことが起こることを指して「幸福」というなら、そういう幸福は遅かれ早かれ逃げ出して行くのではないでしょうか。例えば、日本のある宗教では「宿命論」を説きます。「一切の出来事は、あらかじめ決定されていて、なるようにしかならず、人間の努力もこれを変更できない。」というのです。「めぐり合わせが悪かった。」とか、「悪い星のもとに生まれて来た。」というのですが、もしそうだとすれば、人間の運命を決めるにはあまりにも不明確と言わざるを得ません。

聖書の神が与えようとしている「幸福」は、環境や境遇に関係なく、常に心の内に持ち続けることのできる平安であります。聖書では、「神の摂理」ということを教えています。摂理とは、何かと言いますと、創造者であり、愛の御方である神がご自身の主権と意志によって、私たち一人一人の人生の一切を最善に導いておられるということです。人間的には不幸と思えることの中にも、愛の神の摂理が働いておられることを認めることができるのです。

すべてのことを益としてくださる愛の神を認める時に、確かに今までとは全く違ったものの見方ができるようになります。決して逃げ出さない、失われない幸福を神は与えてくださいます。それは、この地上だけでなく、永遠までも続く幸福であります。決して逃げ出すことのない、不動の平安と幸福があるのです。あなたも、是非、神様がイエス・キリストによって備えられたこのようなすばらしい救いと「幸福」を得てくださいますように、心からお勧めいたします。このような幸福は、この地上にある物質的で一時的なものではなく、永遠に神に祝福される幸いであり、死を超越したものなのです。

●「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ人への手紙8:28)。

●「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。 」(ピリピ人への手紙4 :12)。

●「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。 これは、信仰の結果である、た ましいの救いを得ているからです。」(Ⅰペテロの手紙1:8,9)。

    

★幸せを求めて・・・。

2004-12-10 | 「人生の幸せと平安」

         

  私たちはみな、だれでも幸せを求めて生きています。人生は幸せを求めて旅をしているようなものではないでしょうか。しかし、幸せを求めてみな努力していますが、本当の幸せを得る人は千人に一人もいないと言っても過言ではないでしょう。

 人々は、お金、財産、地位、名声、快楽などを求めています。しかし、物質的な目に見えるものに幸せの土台をおけば、それを失いはしないかと不安を覚えながら生活しなければなりません。現代は、幸せな生活のためと言いながら、物の豊かさだけを追いかけて来た結果、かえってそれとは裏腹に、凶悪犯罪、自殺、ノイローゼ、家庭崩壊などの悲劇が毎日起こっています。

 人間の幸せは、物の豊かさよりも、むしろ心の豊かさにあるのです。人を赦さない心、高慢な心、妬みに満ちた心などをそのままにして、本当の幸せはありません。どんな境遇にあっても、何が起こっても決して失われない幸せは、神のことばである「聖書」の中に示されています。神なしの生活に真の心の平安はないのです。パスカルは「人の心には神がつくった空洞がある」と語りましたが、この空洞は神だけが満たすことができるのです。聖書の示す神は、全宇宙を創造した唯一のまことの神です。

 私たちは、神との幸いな交わりがあって初めて真の満足を経験することができます。神のもとには、平安と喜びと希望があります。この世が与える幸福は一時的ですが、神が与える幸いは永遠に続く満足です。あなたを生かし、愛しておられる真の神を認め、神のもとに立ち返るところに真の幸いがあります。

 聖書は、すべての人は罪を犯したこと、その罪のゆえに人の心には、真の平安がないことを告げています。しかし、神の御子イエス・キリストがすべての人の身代わりに十字架で死なれ、三日目によみがえられました。御子を信じる者はだれでも罪が赦され、本当の平安を持つことができます。愛なる神様の中にある平安こそ、かけがえのない幸せです。

●「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのない人は。」(詩篇32:1,2) 
 
●「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。」(詩篇73:8)。 

●「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」 (ヨハネ
の福音書14:27)。
 

             


★一切れのパンと幸福。

2004-11-21 | 「人生の幸せと平安」

            

●「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。」(箴言17:1)

●「野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。」(箴言15:17)。


  ここに記しました二つの聖句は、旧約聖書の「箴言」という書の中に記されているものですが、本当の家庭の幸せとは何かをよく教えているように思います。「幸福」というのは、決して複雑なものでもなければ、またずっと遠くにあるものでもないのです。自己中心の罪の生活を捨てて、真の神に立ち帰るところに真の平和と幸福があるのです。

現代の日本は物質的には豊かになりとても繁栄しており、昔に比べると食べ物もあふれるほど豊かにありますが、世界中の多くの国の子供たちは貧困と飢餓に苦しんでいます。一切れのパンさえ口にすることが出来ずに、毎日何万人という人たち(その中の多くは幼い子供たちなのです)が餓死しているという現実があります。

日本には、物質も食べ物も豊かにありますが、しかし実際には、その心は満たされず、空虚であり、本物の幸福とは何かを知らずに空しい日々を過ごして生きているのではないでしょうか。

多くの家庭では、外面的には物があふれ、幸福そうに見えても、醜い争いが絶えず、本当に平和な家庭は稀にしかないというのが現実ではないでしょうか。人間は、対物ではなく、対人関係の中に生きています。ですから、対人関係が幸いでなければ、真の家庭の幸福もないのです。

冒頭のみことばは、美しい宮殿に住み、多くの女性に囲まれながら、毎日のように山海の珍味のご馳走を食べていたソロモンが晩年に書いたことばです。彼は、おいしいご馳走をいっぱい食べて争いに満ちた家に住むよりも、心の底からの平安を求めていたのです。たとい、ソロモンでなくとも、「ご馳走がなくてもいい、贅沢な邸宅がなくてもいい、本当の平和な家庭が欲しい!」と思っている人が案外多いのではないでしょうか。

家庭の平和と真の幸福は、決して物質の豊かさにあるのではないことを聖書は教えています。人間が神(創造者)と和解するために、神がお遣わしになった救い主御子イエス・キリストを信じ受け入れる時に心に平安と満足が与えられ、神との平和な交わりを楽しむことができ、また、他人の過ちや失敗を心から赦し、愛することができるようになります。

イエス・キリストは、あなたの罪の赦しのために、十字架上で、真っ赤な血潮を流して身代わりに死んでくださり、三日目によみがえられたお方なのです。このお方を信じる時に、神の前にすべての罪が赦された者となり、本当の意味で幸福な者となることができます。そして、当然、その結果として家庭にも平和が訪れるのです。あなたも是非、キリストを信じて本物の幸福を味わってみてください。  

          
 

★人生の重荷をおろす。

2004-11-20 | 「人生の幸せと平安」

            

   日光の東照宮の徳川家康の遺訓に、「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し」というのがありますが、重みのある深く考えさせられることばですね。今日もその重い荷を背負って、人生の長く孤独な旅を、喘ぎながら、トボトボと歩き続けておられる方も多いのではないかと思います。それは、あまりにも寂しい孤独な姿ですね・・・。それは、もしかしたらあなた自身の姿かもしれません。
 
 それは、自分が犯した過去の過ちの重荷であったり、職場の人間関係や家庭内の問題、病気の不安や自分の人生の老後の心配、死に対する不安や恐れであったりと、その重荷の中味は人によって様々だと思いますが、人はそれぞれ何か重荷を負いつつ人生を歩んでいるのが偽らざる現実ではないでしょうか。

人生においては、その生き様はみな百人百様ですが、ある方にとっては、ときには、その重荷が耐え難いほど重く肩にのしかかって来ることがあるのす。時々、人生に行き詰まり、悲嘆に暮れ、疲労困憊して自ら命を断つ方もおられます。老後や将来に対して、希望が持てない時代に私たちは生きています。それは政治のためであるという方もおられるでしょう。でも、私たちは、もっと根本的なところに目を向ける必要があるのです。

 あなたが今、どのよな環境や事情に置かれていたとしても、私はそのような方たちにすばらしい朗報(福音)があることをお伝えしたいのです。数千年にわたって、多くの人々が次の聖書の約束のことばに希望と慰めを見出して来ました。それは、まさしく、イエス・キリストが、あなたをご招待しておられる約束のことばです。

●「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところへ来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)
 
●「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」(詩篇55:22)。

  ここで、「疲れた人」というのは、「疲れ果てた人」という意味があります。イエス様は、どれほど疲れ果てていても、どん底に落ちて途方に暮れていても、決して見捨てることはありません。一人の哀れな罪人としてイエス様のところに行って、助けを求めるなら、罪赦されて、心からの平安を得ることが出来るのです。なんと、大きな慰めに満ちたことばではありませんか。
 
  イエス・キリストは、私たちの生活や心配事の重荷だけではなく、人生の罪(神を無視した自己中心な生活)の重荷を負ってくださり、身代わりに十字架で死んでくださった方なのです。どうか、あなたもイエス・キリストを信じて神様からの平安と幸福を得てくださいますようにお祈りしています。

                
 

★心に平安をお持ちですか

2004-11-15 | 「人生の幸せと平安」

    私たちは、どんなにお金や財産があっても、地位や名誉を得ても、それによって、本当の心の安らぎを持つことはできません。毎日、いろいろな心配事を持ち、仕事や日常生活の雑事に追われながら、また未来に不安を抱きつつ、生きているのが現実ではありませんか?

 私たちは、今、心からの平安を持っているでしょうか? 聖書の中から、私たちに心の平安と慰めや励ましを与えてくれる聖句をいくつかご紹介しましょう。マタイ11:28のみ言葉は、私が若い頃、聖書を読み始めて最初に惹きつけられ、心に刻まれたみことばです。言葉では表せない平安を覚えたのを記憶しています。
 
●「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたし(キリスト)のところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書11章28節)

●「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、この世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がせてはなりません。恐れてはなりません。」
(ヨハネの福音書14:27)

●「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ人への手紙4:6,7)。


 最初のみことばは、イエス・キリストが、あなたを救いに招いておられる優しいおことばです。ここで、「疲れた人」とは「疲れ果てた人」という意味があります。イエス様は、疲れ果てた人、重荷を負って苦労している者を招いておられるのですね。
肉体的な疲れは、若い人であれば、一夜の眠りで癒されるでしょう。しかし、精神的な疲れは夜に床に入っても、簡単には癒されないのです。

●「人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか。」(箴言18:14)。

●「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。」(詩篇4:8)。
 

イエス・キリストは、神が遣わされた人類の救い主であり、罪のない聖よいご生涯ののちに、十字架に架かって、私たちの身代わりに死んでくださったお方です。このお方は、疲れている者に真の平安を与えてくださいます。幼子はお母さんのあたたかい腕に抱かれているとき、一番安心できるように、私たちも、愛の神様の懐に憩うとき、ほんとうの安らぎを得ることができるのです。
是非、あなたも、キリストを救い主と信じて救われて、真の平安を得て下さいますように。

◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」