聖書から人生を考えよう

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お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★罪人を愛する神

2005-01-28 | 「神の愛について」



  「腐った魚は肥やしになるが、腐った人間は何になるか!」と言った人がおりましたが、確かに、今の世の中、益々腐りきってしまったような人が多くなって来ました。宗教家も、政治家も、学校の先生も、警察官や裁判官さえも、何か倫理観が欠けており、不道徳なことを平気でする人が多くなり、腐敗ここに極まれりといった感があります。最近は、「振り込め詐欺」などという巧妙で悪質な犯罪も増加し、気の毒な被害者が続出しています。「今の世の中もう腐りきってしまってどうにもならない。」と嘆いておられる方も多いのではないかと思います。

しかし、聖書の神は愛の神ですから、その腐ったような人間を愛して下さるというのですから、誠に不思議であり、人知を超えた神の愛であります。ごみ箱に捨てるしかないような者まで、忘れることも捨てることもしないで愛してくださるというのです。私たちは、自分の子供が肥溜めに落ちたとしたら、「ああ~汚い!」と言って見捨てるようなことをするでしょうか?とんでもないことです。まして、愛なる神は人から見捨てられるような屑のように思われる人間さえ愛してくださるのです。

ある方から、「それなら、神様は愛なのに、どうして一人残らず、天国に入れてくださらないのですか?」と聞かれたことがあります。私は、しばらくそれに対して何と答えるべきか躊躇していましたが、次のように答えました。「神様は愛の御方で、私たち一人残らず天国に入れたいと願っておられるのですが、また神は聖い方ですから罪人をそのまま天国に入れることは出来ないのです。」

適切な例えかどうか分かりませんが、ちょっと、考えていただきたいのです。みなさんに小さな子供さんがいるとします。その子供さんが外で遊んでいるうちに下水溝にでも落ちたのでしょうか、足の先から頭の頂まで、体中を汚して泥んこになって帰って来たとします。みなさんなら、その子をそのままで部屋に入れるでしょうか。きっと、玄関で裸にして、お風呂で洗ってきれいにしてから部屋に入れるのではないでしょうか。

神様も同じなのです。罪で汚れた私たちを、まず、キリストが私たちを救うために十字架で流された血潮で聖よくしてから、天国に入れて下さるのです。聖よくされることを拒んで汚れたままにしていては、神様の救いを受けることができません。永遠の滅びに入る以外にないのです。神様は罪や汚れを憎まれる方ですが、罪人を愛してくださり、キリストの十字架によって、救いの道を備えてくださっているのです。何とすばらしい神様の偉大な愛ではないでしょうか。

●「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。 」(ガラテヤ人への手紙1:4)。

●「‥‥私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ人への手紙5:8)。

●「‥‥御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」(ヨハネの第一の手紙1:7~10)。


          
 

★神の絶大な愛をご存じですか。

2004-11-27 | 「神の愛について」

 
 
  愛なる神様のみことばである旧新約聖書66巻は、神様の全人類に対するラブ・レターのようなものです。ですから、旧約聖書の中にも新約聖書の中にも、神の私たちに対する愛について書かれた聖句が満ち溢れていますが、その中の一部だけをご紹介しましょう。

●「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書43:4)。 

●「神は、実に、そのひとり子(キリスト)をお与えになったほどに、世(あなたや私)を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3:16)。

●「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ人への手紙5:6~8) 。


 新約聖書には、神の愛(アガペーの愛)のご性質については、下記のようなすばらしい聖句があります。このような崇高な「愛」は人間はだれも持ち合わせておりませんが、この愛の代わりに「キリスト」と入れかえて読んでみますと、不思議にピッタリと合うのです。なぜなら、キリストは、真実な神の愛の御性質をお持ちの御方であるからす。キリストは、神の御子であり、神から私たちのために遣わされたすばらしい救い主なのです。

●「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、 不正を喜ばずに真理を喜びます。 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。 」(Ⅰコリント人への手紙13:4~8)

 しかし、上記の聖句の中の「愛」の代わりに、ご自分のお名前を入れてお読みになってみてください。私の場合は、あまりにも不釣合いで、その場から逃げ出したいくらい恥ずかしい思いになります。どなたも、同じ思いをするのではないでしょうか。「あ~、私の名前を入れるとピッタリだ~!」と思われる方は一人もいないはずです。なぜなら、人間はみな罪人であり、自己中心で真の愛を持ち合わせていないからです。

 どうか、神の絶大な愛について、真剣にお考えになってみてください。そして、あなたの罪のために身代わりに十字架で死なれた神の御子イエス様を信じて、永遠のいのちを受け、神の愛に満たされた幸福な生涯を送ってください。イエス・キリストを信じる者には、死後も永遠に天国で生きることが約束されているのです。これは、偽りののない真実な神の約束です。