肖像 近代日本の指導者を育てた吉田松陰青年
本編に登場する若き革命児……佐久間象山 吉田松陰
明治維新で青年たちの果たした役割を否定する者は、誰もいない。いや、若き革命児たちの活躍こそが、維新の物語に魅力を与え、今もなお、我々の心を捕えて離さないのだろう。
維新の志士たちの中でも、特に中心的な活躍をしたのは誰かというと、それぞれの思い入れから意見の別れるところだろうが、吉田松陰の名を外せないことは、誰もが認めるところだろう。
吉田松陰は、幕末の長州藩に、下級武士の子として生まれた。当時、幕藩体制はすでに神通力を失い、大きく揺らいでいた。
松陰が生まれて間もなく、13万人を超える農民が参加して、防長大一揆が起きている。一揆というと暴動というイメージも強いが、実際には、当時の農民は高度に組織化されていて、藩に要求を呑ませるために、計画的に行動した。
松陰は4歳のときに、叔父の吉田家に養子に出される。吉田家は代々、藩主に山鹿流軍学を講義する家柄だった。
松陰が6歳のとき、長州藩は洪水に襲われ、飢饉や打ち壊しが起こった。全国規模で見るとそれほどひどい凶作でなくとも、当時は藩境を越えて米を自由に運ぶことが禁じられていたため、藩によっては、ひどい飢餓に襲われたのだった。叔父の死により、松陰が幼くして吉田家を継いだのは、そんな年だった。
松陰は神童だった。家督を継いでから2年、わずか8歳で山鹿流軍学師範となり、9歳で藩校・明倫館の教師になっている。
10歳のときには、山鹿流軍学書である『武教全書』を藩主に講義する。わずか14歳で、藩の兵学師範として、長州藩の軍事の中枢を担うことになった。
20歳のとき、松陰は見聞を広めるため、初めて藩の外に出て、九州を旅行した。
長崎から入ってくる海外からの情報に触れ、また、兵学者の宮部鼎蔵と知り合う。鼎蔵は松陰と10歳違いの30歳で、若い2人はたちまち意気投合し、さらに見聞を広めるため、来年、連れだって全国を旅することを約束して別れた。
翌年、松陰は藩主に従って江戸に出る。昨年の九州遊学で西洋軍学の必要性を感じていた松陰は、佐久間象山に弟子入りしている。
佐久間象山は若いころから儒学を学び、28歳のときに江戸に出て、私塾・象山書院を開いていた。その翌年、阿片戦争で中国がイギリスに為す術無く破れ、植民地同様にされたことを知る。
31歳にして老中の顧問に選ばれ、大砲や軍艦の建造を提唱。オランダ語や砲術を学び、39歳で砲術の塾を開いた。松陰が訪ねてきたのは、その翌年だった。
また、松陰は鼎蔵との約束通りに旅に出ようとするが、なかなか藩からの許可が下りない。当時、許可なく藩境を越えることは重罪だった。しかし、同志との約束を果たすため、松陰はあえて、藩に無断で鼎蔵と東北を巡った。
当然、松陰は厳しく罪を問われた。家禄はもちろん、武士の身分も剥奪され、軍学師範の肩書きも失い、長州藩の誇った天才児は、一浪人となってしまった。ちなみに、彼はこの頃から、自分のことを「僕」と称している。近代において、僕を一人称に使用し始めたのは、松陰が最初だといわれている。
2年後、罪を許された松陰は、再び江戸に出て、象山に再入門する。黒船が来航したのは、まさにその年だった。松陰は、アメリカの代表が上陸し、幕府の両奉行に国書を手渡す場面を目の当りにした。鎖国を原則とする江戸幕府が、無断で上陸してきた外国人を追い返すどころか、国書を受け取ったことに、松陰は日本人として激しい屈辱を覚えた。
しかし、浦賀に停泊している4隻の巨大な軍艦を目の当りにしては、幕府としても相手の要求を呑むしかなかったのは事実。松陰も、頭を冷やすと、まず相手を良く知ることが必要だと考えた。
そして翌年、再びペリーが来航したときに、松陰は深夜、決死の覚悟で黒船に乗り込み、アメリカに連れていってくれるよう嘆願する。藩を出るだけでも重罪なのに、海外へ亡命となれば死刑宣告は免れない。しかも、松陰には前科がある。失敗は絶対に許されない亡命計画だった。
しかし、日本と条約を締結したばかりのアメリカとしては、ここでトラブルを起こしたくない。あえなく陸に返された松陰は、死刑を覚悟して潔く自首する。23歳のときだった。
獄に繋がれた松陰は、囚人を相手に『孟子』の勉強会を始めた。また松陰も、吉村善作から俳諧を、富永有隣から書を学んだ。周囲の囚人も影響を受けて、松陰が来てから1年足らずの間に、全ての囚人が何かを学ぶようになったという。
自首した潔さが認められたのか、獄中での勉強会が好印象だったのか、翌年、松陰は出獄を許される。しかし、自由人ではなく、実家の杉家に軟禁という条件付きだった。25歳の松陰は、八畳間で近親者に対して『孟子』の講義を始める。これが、後世にその名を轟かせることになる、松下村塾の始まりだった。
かつて松陰も教鞭を取っていた明倫館は、一部の有力な武士の師弟にしか開かれていなかった。しかし松下村塾は、入門に身分、年齢、学力など一切の条件を設けず、月謝すら取らなかったので、長州全域から、志ある若者たちが集まってきた。入門時の年齢が判明している塾生の平均年齢は、18.3歳。
松陰は、「自分と塾生は、対等だ」という考えを貫いた。常に塾生と並んで座っていたので、新入りの塾生は、誰が松陰先生なのか分からなかったという。教材も塾生自身に選ばせた。塾生に交じっての雑用もいとわなかった。
また、松下村塾には、「飛耳長目」なるノートが備え付けられていて、旅人や商人、塾生たちが持ち寄る全国各地の最新情報が記されていた。今でいう掲示板サイトのような機能を果たしていたらしい。松陰は、古典を講義しながら、自在にこの最新情報を分析したという。
「学者になるな。実行第一。本は働きながら読まなければ、身に付かない」
常に塾生にそう言い聞かせていた松陰は、驚くべき読書家だった。3年足らずの間に、1500冊近い本を読破している。多い月では毎日平均2冊以上、少ない月でも平均3日で1冊。おそらく、当時これほどの読書量を誇った人物は、他に存在しないだろう。
読書は、天才を開花させる最良の手段のひとつだろう。それでも松陰は、そのくらいの読書は、最低条件だと語るのだった。
教育というより、青年同士学びあい、寝食を共にする松下村塾の時代は、松陰の人生の中でも、最も充実していた時期だった。しかし、それも長くは続かなかった。江戸幕府が天皇の許可なく日米修好通商条約を結んだことを知ると、日本が中国の二の舞になることを恐れ、松陰は倒幕を決意する。
松陰は、塾生たちにクーデターを決行するように呼びかける。しかし、塾生たちは反対で、動こうとはしなかった。その中には、19歳の高杉晋作もいた。塾生たちはまだ、欧米列強に伍するためには、日本が封建的な幕藩体制を捨てる必要があることを理解していなかった。
失意の松陰は、政治犯の取り締まりを強めていた幕府によって、再び牢に入れられる。そこで、クーデター計画が発覚し、29歳の若さで処刑台に散った。
だが、その早すぎる死も無駄ではなかった。塾生たちは、松陰の死に直面して初めて、師の広く深い展望を理解した。そして、師の仇討ちと、新たな日本の建設を誓うのだった。
松陰が松下村塾で教えたのは、わずか2年余りにすぎない。しかし、その中から、偉大な人材を続々と輩出することになる。死してなお、若き松陰の情熱は、歴史を突き動かし続けた。
そしてまた、志半ばで獄死した松陰のバトンを受け継ぐかのように、1人の剣士が、志士の道に踏み込もうとしていた。彼こそが、世紀の快男児・坂本龍馬だった。
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本編に登場する若き革命児……佐久間象山 吉田松陰
明治維新で青年たちの果たした役割を否定する者は、誰もいない。いや、若き革命児たちの活躍こそが、維新の物語に魅力を与え、今もなお、我々の心を捕えて離さないのだろう。
維新の志士たちの中でも、特に中心的な活躍をしたのは誰かというと、それぞれの思い入れから意見の別れるところだろうが、吉田松陰の名を外せないことは、誰もが認めるところだろう。
吉田松陰は、幕末の長州藩に、下級武士の子として生まれた。当時、幕藩体制はすでに神通力を失い、大きく揺らいでいた。
松陰が生まれて間もなく、13万人を超える農民が参加して、防長大一揆が起きている。一揆というと暴動というイメージも強いが、実際には、当時の農民は高度に組織化されていて、藩に要求を呑ませるために、計画的に行動した。
松陰は4歳のときに、叔父の吉田家に養子に出される。吉田家は代々、藩主に山鹿流軍学を講義する家柄だった。
松陰が6歳のとき、長州藩は洪水に襲われ、飢饉や打ち壊しが起こった。全国規模で見るとそれほどひどい凶作でなくとも、当時は藩境を越えて米を自由に運ぶことが禁じられていたため、藩によっては、ひどい飢餓に襲われたのだった。叔父の死により、松陰が幼くして吉田家を継いだのは、そんな年だった。
松陰は神童だった。家督を継いでから2年、わずか8歳で山鹿流軍学師範となり、9歳で藩校・明倫館の教師になっている。
10歳のときには、山鹿流軍学書である『武教全書』を藩主に講義する。わずか14歳で、藩の兵学師範として、長州藩の軍事の中枢を担うことになった。
20歳のとき、松陰は見聞を広めるため、初めて藩の外に出て、九州を旅行した。
長崎から入ってくる海外からの情報に触れ、また、兵学者の宮部鼎蔵と知り合う。鼎蔵は松陰と10歳違いの30歳で、若い2人はたちまち意気投合し、さらに見聞を広めるため、来年、連れだって全国を旅することを約束して別れた。
翌年、松陰は藩主に従って江戸に出る。昨年の九州遊学で西洋軍学の必要性を感じていた松陰は、佐久間象山に弟子入りしている。
佐久間象山は若いころから儒学を学び、28歳のときに江戸に出て、私塾・象山書院を開いていた。その翌年、阿片戦争で中国がイギリスに為す術無く破れ、植民地同様にされたことを知る。
31歳にして老中の顧問に選ばれ、大砲や軍艦の建造を提唱。オランダ語や砲術を学び、39歳で砲術の塾を開いた。松陰が訪ねてきたのは、その翌年だった。
また、松陰は鼎蔵との約束通りに旅に出ようとするが、なかなか藩からの許可が下りない。当時、許可なく藩境を越えることは重罪だった。しかし、同志との約束を果たすため、松陰はあえて、藩に無断で鼎蔵と東北を巡った。
当然、松陰は厳しく罪を問われた。家禄はもちろん、武士の身分も剥奪され、軍学師範の肩書きも失い、長州藩の誇った天才児は、一浪人となってしまった。ちなみに、彼はこの頃から、自分のことを「僕」と称している。近代において、僕を一人称に使用し始めたのは、松陰が最初だといわれている。
2年後、罪を許された松陰は、再び江戸に出て、象山に再入門する。黒船が来航したのは、まさにその年だった。松陰は、アメリカの代表が上陸し、幕府の両奉行に国書を手渡す場面を目の当りにした。鎖国を原則とする江戸幕府が、無断で上陸してきた外国人を追い返すどころか、国書を受け取ったことに、松陰は日本人として激しい屈辱を覚えた。
しかし、浦賀に停泊している4隻の巨大な軍艦を目の当りにしては、幕府としても相手の要求を呑むしかなかったのは事実。松陰も、頭を冷やすと、まず相手を良く知ることが必要だと考えた。
そして翌年、再びペリーが来航したときに、松陰は深夜、決死の覚悟で黒船に乗り込み、アメリカに連れていってくれるよう嘆願する。藩を出るだけでも重罪なのに、海外へ亡命となれば死刑宣告は免れない。しかも、松陰には前科がある。失敗は絶対に許されない亡命計画だった。
しかし、日本と条約を締結したばかりのアメリカとしては、ここでトラブルを起こしたくない。あえなく陸に返された松陰は、死刑を覚悟して潔く自首する。23歳のときだった。
獄に繋がれた松陰は、囚人を相手に『孟子』の勉強会を始めた。また松陰も、吉村善作から俳諧を、富永有隣から書を学んだ。周囲の囚人も影響を受けて、松陰が来てから1年足らずの間に、全ての囚人が何かを学ぶようになったという。
自首した潔さが認められたのか、獄中での勉強会が好印象だったのか、翌年、松陰は出獄を許される。しかし、自由人ではなく、実家の杉家に軟禁という条件付きだった。25歳の松陰は、八畳間で近親者に対して『孟子』の講義を始める。これが、後世にその名を轟かせることになる、松下村塾の始まりだった。
かつて松陰も教鞭を取っていた明倫館は、一部の有力な武士の師弟にしか開かれていなかった。しかし松下村塾は、入門に身分、年齢、学力など一切の条件を設けず、月謝すら取らなかったので、長州全域から、志ある若者たちが集まってきた。入門時の年齢が判明している塾生の平均年齢は、18.3歳。
松陰は、「自分と塾生は、対等だ」という考えを貫いた。常に塾生と並んで座っていたので、新入りの塾生は、誰が松陰先生なのか分からなかったという。教材も塾生自身に選ばせた。塾生に交じっての雑用もいとわなかった。
また、松下村塾には、「飛耳長目」なるノートが備え付けられていて、旅人や商人、塾生たちが持ち寄る全国各地の最新情報が記されていた。今でいう掲示板サイトのような機能を果たしていたらしい。松陰は、古典を講義しながら、自在にこの最新情報を分析したという。
「学者になるな。実行第一。本は働きながら読まなければ、身に付かない」
常に塾生にそう言い聞かせていた松陰は、驚くべき読書家だった。3年足らずの間に、1500冊近い本を読破している。多い月では毎日平均2冊以上、少ない月でも平均3日で1冊。おそらく、当時これほどの読書量を誇った人物は、他に存在しないだろう。
読書は、天才を開花させる最良の手段のひとつだろう。それでも松陰は、そのくらいの読書は、最低条件だと語るのだった。
教育というより、青年同士学びあい、寝食を共にする松下村塾の時代は、松陰の人生の中でも、最も充実していた時期だった。しかし、それも長くは続かなかった。江戸幕府が天皇の許可なく日米修好通商条約を結んだことを知ると、日本が中国の二の舞になることを恐れ、松陰は倒幕を決意する。
松陰は、塾生たちにクーデターを決行するように呼びかける。しかし、塾生たちは反対で、動こうとはしなかった。その中には、19歳の高杉晋作もいた。塾生たちはまだ、欧米列強に伍するためには、日本が封建的な幕藩体制を捨てる必要があることを理解していなかった。
失意の松陰は、政治犯の取り締まりを強めていた幕府によって、再び牢に入れられる。そこで、クーデター計画が発覚し、29歳の若さで処刑台に散った。
だが、その早すぎる死も無駄ではなかった。塾生たちは、松陰の死に直面して初めて、師の広く深い展望を理解した。そして、師の仇討ちと、新たな日本の建設を誓うのだった。
松陰が松下村塾で教えたのは、わずか2年余りにすぎない。しかし、その中から、偉大な人材を続々と輩出することになる。死してなお、若き松陰の情熱は、歴史を突き動かし続けた。
そしてまた、志半ばで獄死した松陰のバトンを受け継ぐかのように、1人の剣士が、志士の道に踏み込もうとしていた。彼こそが、世紀の快男児・坂本龍馬だった。
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