
ホーキングの成績は平凡以下だった
日本人の多くは、金持ちの家に生まれて、東大に入ることが成功だと考えています(全国の大学の中でも、東大生の親の平均年収は最も高い)
ただし、その東大の中でも、ヒエラルキーは存在します。極端に言えば、「法学部を出て財務事務次官になる」のが東大の中での勝ち組で、それ以外は負け組だと考えられています。金メダル以外は負け犬、みたいな考えです。
こうした価値観に、人生を捧げる人々は、決して珍しくありません。また、それは今の日本に限らず、歴史上至る所に存在してきました。中国の科挙などは典型ですし、発展途上国における学歴ブランドの価値は、日本などの比ではありません。
注目すべきなのは、それでもなお、落ちこぼれが歴史の至る所で大活躍し、時代を変革してきた事実にあります。ここでは、そうした痛快なドロップアウトたちを紹介していきたいと思います。
生化学者のフレデリック・サンガーは、本人曰く「研究員を使う能力も、研究費を集める能力もない」ので、単独、かつ低予算の地味な研究しかできませんでした。その結果、彼はノーベル化学賞を2度も受賞したのです。
まずは、自分にできること、自分にしかできないことを見つけることです。
『クエン酸回路』を提唱してノーベル生理学医学賞を受賞したハンス・クレブスは、医師免許を持っていなかったために、病院への就職ができませんでした。
『ロケットエンジン』を発明したフォン・ブラウンは、数学と物理の成績が悪かったそうです。
シュバイツァーは、あまりにも成績が悪かったため、ギムナジウムから退学勧告を受けたことがあります。
彼は、後に3つの博士号を取得しました。
あの田中耕一は、大学では留年も経験しています。
卒業後の第一志望だったソニーは、面接で落とされました。
専攻は電気工学でしたが、島津製作所で全く関係ない化学分野の研究に従事することになります。そこで、『ソフトレーザー脱着法』を開発し、ノーベル化学賞に至ったのです。
ちなみに、博士号どころか修士号さえ持っていない受賞者は、化学賞史上初でした。
車椅子の天才ホーキングは、学校では平均以上の点を取れたことがなかったといいます。大学も追試を受けてようやく卒業できました。
その天才が開花したのは、ALS発症後でした。
くさび文字を初めて解読したことでしられるグローテフェントは、高校の教師でした。
『オームの法則』で知られる物理学者オームも、高校教師でした。
『子どもの誕生』などで知られる歴史家のフィリップ・アリエスは、役所に勤めながら研究を続けました。
リタ・レビ・モンタルチーニは、大学に職が得られなかったために自宅で研究を続け、後にノーベル生理学医学賞を受賞しました。
司馬遷と並ぶ、中国史上最大の歴史家として知られる班固は、低い官職に終始していました。最後はクビになった上、獄死しています。
国際法の父グロティウスは、実務能力に欠けていたため、駐仏大使をクビになっています。
アインシュタインは劣等生でした。ギムナジウムを中退し、浪人して入った大学を卒業した後も、就職が決まらずにフリーターをやっています。
ようやく特許局に職を得ましたが、審査のノルマが達成できず、早々に窓際に追いやられています。サボリーマン生活の中で『特殊相対性理論』を完成させました。
ルイ・ド・ブロイは、学位論文の中で示した理論によってノーベル物理学賞を受賞しましたが、この論文で学位は取れませんでした。
ノーベル物理学賞を受賞したレントゲンは、高校を中退していたため、大学では学位の授与を拒否されています。
進化論を唱えたダーウィンは、解剖が大の苦手で、医学部を中退しています。
ガリレオは数学が苦手で、どちらかというと文系タイプだったといいます。学歴は医学部中退で、独学で物理学をマスターしました。
万能学者として知られる南方熊楠は、大学を卒業していません。
font size="2" color="red" style="line-height:160%;">『遺伝の法則』を発見したメンデルは、教員資格試験に2度失敗しています。生物の成績が悪かったためです。本業は牧師でした。
ノーベル化学賞を受賞したフレデリック・ジュリオ・キュリーは、高卒でした。25歳でマリー・キュリーの助手に採用され、研究生活を始めます。国民戦線の指導者や、フランス原子力庁初代長官も務めました。
ライト兄弟の学歴は、共に高校中退でした。航空力学を独学でマスターし、『飛行機』開発に割ける時間は日曜日のみ、費用は全て自腹でした。
ファーブルは14歳から働いていました。独学で教員免許を取得しています。
ファラデーは13歳から製本屋の徒弟として働き始め、独学で物理学と化学を学んで、数々の業績を残しました。後に、王立研究所教授になっています。
牧野富太郎は小学校中退でしたが、独学で後に世界的な植物学者となりました。しかし、経済的には報われず、100回以上の一家離散や夜逃げを経験し、書類まで差し押さえられ、10万点の標本も手放しています。
松浦喜一郎は小学2年のときに家出し、その後、独学で150もの特許を取得しました。特に『人造米』は話題になり、政府は現在なら50億円もの賃貸料を提示して、特許を借りようとしました。
『蒸気機関』の実用化に成功したワットは、半人前だと見なされて、職人組合に加入できませんでした。
トレビシックは、鉱山で働きながら技術を身につけ、初めて『蒸気機関車』の試運転に成功しました。
グリエルモ・マルコーニは、学校に行かずに引きこもって独自に研究を重ね、無線通信装置を発明してノーベル物理学賞を受賞しました。実業家としても成功しています。
史上最大の発明のひとつである『活版印刷術』を発明したグーテンベルクは、破産して工場を手放しています。
『ミュール紡績機』を発明して産業革命に貢献したイギリスの発明家クロンプトンは、申請費用がなかったために特許を取れませんでした。
歴史家の山陽は、人格破綻のため座敷牢に幽閉されながらも『日本外史』を執筆し、明治維新の理論的支柱になりました。
アインシュタインの高校時代の化学の成績は「要補習」でした。
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日本人の多くは、金持ちの家に生まれて、東大に入ることが成功だと考えています(全国の大学の中でも、東大生の親の平均年収は最も高い)
ただし、その東大の中でも、ヒエラルキーは存在します。極端に言えば、「法学部を出て財務事務次官になる」のが東大の中での勝ち組で、それ以外は負け組だと考えられています。金メダル以外は負け犬、みたいな考えです。
こうした価値観に、人生を捧げる人々は、決して珍しくありません。また、それは今の日本に限らず、歴史上至る所に存在してきました。中国の科挙などは典型ですし、発展途上国における学歴ブランドの価値は、日本などの比ではありません。
注目すべきなのは、それでもなお、落ちこぼれが歴史の至る所で大活躍し、時代を変革してきた事実にあります。ここでは、そうした痛快なドロップアウトたちを紹介していきたいと思います。
生化学者のフレデリック・サンガーは、本人曰く「研究員を使う能力も、研究費を集める能力もない」ので、単独、かつ低予算の地味な研究しかできませんでした。その結果、彼はノーベル化学賞を2度も受賞したのです。
まずは、自分にできること、自分にしかできないことを見つけることです。
『クエン酸回路』を提唱してノーベル生理学医学賞を受賞したハンス・クレブスは、医師免許を持っていなかったために、病院への就職ができませんでした。
『ロケットエンジン』を発明したフォン・ブラウンは、数学と物理の成績が悪かったそうです。
シュバイツァーは、あまりにも成績が悪かったため、ギムナジウムから退学勧告を受けたことがあります。
彼は、後に3つの博士号を取得しました。
あの田中耕一は、大学では留年も経験しています。
卒業後の第一志望だったソニーは、面接で落とされました。
専攻は電気工学でしたが、島津製作所で全く関係ない化学分野の研究に従事することになります。そこで、『ソフトレーザー脱着法』を開発し、ノーベル化学賞に至ったのです。
ちなみに、博士号どころか修士号さえ持っていない受賞者は、化学賞史上初でした。
車椅子の天才ホーキングは、学校では平均以上の点を取れたことがなかったといいます。大学も追試を受けてようやく卒業できました。
その天才が開花したのは、ALS発症後でした。
くさび文字を初めて解読したことでしられるグローテフェントは、高校の教師でした。
『オームの法則』で知られる物理学者オームも、高校教師でした。
『子どもの誕生』などで知られる歴史家のフィリップ・アリエスは、役所に勤めながら研究を続けました。
リタ・レビ・モンタルチーニは、大学に職が得られなかったために自宅で研究を続け、後にノーベル生理学医学賞を受賞しました。
司馬遷と並ぶ、中国史上最大の歴史家として知られる班固は、低い官職に終始していました。最後はクビになった上、獄死しています。
国際法の父グロティウスは、実務能力に欠けていたため、駐仏大使をクビになっています。
アインシュタインは劣等生でした。ギムナジウムを中退し、浪人して入った大学を卒業した後も、就職が決まらずにフリーターをやっています。
ようやく特許局に職を得ましたが、審査のノルマが達成できず、早々に窓際に追いやられています。サボリーマン生活の中で『特殊相対性理論』を完成させました。
ルイ・ド・ブロイは、学位論文の中で示した理論によってノーベル物理学賞を受賞しましたが、この論文で学位は取れませんでした。
ノーベル物理学賞を受賞したレントゲンは、高校を中退していたため、大学では学位の授与を拒否されています。
進化論を唱えたダーウィンは、解剖が大の苦手で、医学部を中退しています。
ガリレオは数学が苦手で、どちらかというと文系タイプだったといいます。学歴は医学部中退で、独学で物理学をマスターしました。
万能学者として知られる南方熊楠は、大学を卒業していません。
font size="2" color="red" style="line-height:160%;">『遺伝の法則』を発見したメンデルは、教員資格試験に2度失敗しています。生物の成績が悪かったためです。本業は牧師でした。
ノーベル化学賞を受賞したフレデリック・ジュリオ・キュリーは、高卒でした。25歳でマリー・キュリーの助手に採用され、研究生活を始めます。国民戦線の指導者や、フランス原子力庁初代長官も務めました。
ライト兄弟の学歴は、共に高校中退でした。航空力学を独学でマスターし、『飛行機』開発に割ける時間は日曜日のみ、費用は全て自腹でした。
ファーブルは14歳から働いていました。独学で教員免許を取得しています。
ファラデーは13歳から製本屋の徒弟として働き始め、独学で物理学と化学を学んで、数々の業績を残しました。後に、王立研究所教授になっています。
牧野富太郎は小学校中退でしたが、独学で後に世界的な植物学者となりました。しかし、経済的には報われず、100回以上の一家離散や夜逃げを経験し、書類まで差し押さえられ、10万点の標本も手放しています。
松浦喜一郎は小学2年のときに家出し、その後、独学で150もの特許を取得しました。特に『人造米』は話題になり、政府は現在なら50億円もの賃貸料を提示して、特許を借りようとしました。
『蒸気機関』の実用化に成功したワットは、半人前だと見なされて、職人組合に加入できませんでした。
トレビシックは、鉱山で働きながら技術を身につけ、初めて『蒸気機関車』の試運転に成功しました。
グリエルモ・マルコーニは、学校に行かずに引きこもって独自に研究を重ね、無線通信装置を発明してノーベル物理学賞を受賞しました。実業家としても成功しています。
史上最大の発明のひとつである『活版印刷術』を発明したグーテンベルクは、破産して工場を手放しています。
『ミュール紡績機』を発明して産業革命に貢献したイギリスの発明家クロンプトンは、申請費用がなかったために特許を取れませんでした。
歴史家の山陽は、人格破綻のため座敷牢に幽閉されながらも『日本外史』を執筆し、明治維新の理論的支柱になりました。
アインシュタインの高校時代の化学の成績は「要補習」でした。
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すぐに成果(才能)の表れる人、つまり秀才の多くは
すぐに才能が飽和して天才にまで行き着かない。
なんらかの理由で才能が外に現れない人のなかには
始めは凡庸でも、どこまでも進歩していって
天才にまでいきつく人がいる。そのような素質
をもっている。
ということかも知れません。
或はまた、この記事があらわしているのは
ある方面だけ恐ろしく才能が突出していて
別の面では、全く、駄目、というのが天才に
多いと言う事ですか。
一方で、幼児期から、何から何まで天才ぶとり
を発揮した人もたくさんいますね。
それは日本教育で言えばA型少年と比較した時O型やB型の少年は劣る部分があるからクズだ
こう語っているいるようなもんだ
結局学校に限らず何か一つを基準にして上か下かで見る事が正しい目を持っていると言うことになる