清水章伍氏のDV騒動が、世情を賑わしている。
DV告発の契機・事実については、お決まりの水掛け論であり正邪に関しては窺い知れないものであるが、同世代の者として、現在章伍氏が置かれている境遇については同情を禁じ得ない。相続税軽減対策として住居の半分を妻に生前贈与したことは理解できるが、継子と実子に等分の相続権があると思う残りの半分を継子に生前贈与したことがなんとも理解できない。更には、節税対策のための偽装離婚と欺いて章伍氏に離婚を承諾させ、離婚成立後は離婚の事実と住居の所有権を盾に章伍氏を追い出そうとしていることは、道義上の邪悪さはもちろんのこと犯罪性さえも窺えるものではないだろうか。如何ほどの出来事があったにせよ、曲がりなりにも40年以上連れ添った妻子が、全てのお膳立てを整えた後に収入が無くなった章伍氏のDVを表沙汰にして、自己の行動を正当化しようとする行為にはおぞましささえ感じる。現在は、DVやセクハラ・パワハラ等のハラスメント(嫌がらせ?)に関しては、被害を申し立てる人が絶対に正しくて加害者として名指しされた人に対しては問答無用の悪者とする風潮がある。今回の報道について妻子に対するインタビューでも、DVの詳細、離婚や生前贈与の経緯については聞くものの、肝心の”なぜ今なのか”については質していない。この様相は、ひところの痴漢犯罪で少なからぬ冤罪者を生み出した世相に酷似しているようである。自分の境遇を下敷きとして、男女間や夫婦間における関係性について考えると、憎悪感情の処理について男女間には決定的な差があるのではなかろうかと思う。憎悪の感情について、男は時間の経過とともに感情を薄れさせ時には憎悪を懐かしさに昇華させるが、女は時間の経過と無関係に憎悪を持ち続けるどころか、却って増幅させるように感じられる。この解釈に立って章伍氏の問題を眺めると、法律や司法が定める善悪以前に、感情処理に対する男女差が影響しているように感じる。
清水章伍氏の問題を他山の石として改めるには歳を取り過ぎており、加えて前述した感情処理の男女差を考えれば、妻子の心奥は想像するだけでも空恐ろしい。唯一の救いは、報復・懲罰のために乗っ取るほどの資産を持ち合わせていないことだけである。今回の清水章伍氏の顛末に、首筋の冷えた御同輩も多いに違いないと思うところである。「女性軍(それも年配の)お手柔らかに」と懇願して、本日”終演”。
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