菅政権が発動したGoTo施策と第2次緊急事態宣言に対して、遅速を問う声が大きい。
政/財/官/軍の各界会には多くの指導者が、更には一般家庭内にすら主権者(山の神)が存在するが、指導者はトップダウン型と調整型に大別できると思う。
戦争終結時の東久邇宮稔彦王を除く33人の総理経験者を色分けすると、トップダウン型は吉田茂・岸信介・田中角栄・中曽根康弘・小泉純一郎・安倍晋三の各氏が挙げられ、その他は概ね調整型であると思っている。
トップダウン型の指揮(組織運営)の特色は果断で慣例にとらわれないために時として反対意見を軽視・封殺するものであるが、良きにつけ悪しきにつけ時代を変革させたと思っている。更に別の見方をするならば、果断を躊躇しないために非常時に強い宰相と呼べるかもしれない。一方、調整型の総理は、調整に時間を取られるとともに関係省庁に万遍なく配慮するあまりに用兵者が最も戒める「兵力(予算・注力)の小出し」となり、結果として有効な対策をタイムリーに執れないように思う。調整型総理にあっては平均的な成果を挙げ得るので、いわば平時の宰相若しくは平時の能吏と呼んでも差し支えないように思える。
今回の武漢コロナ禍を観ても、安倍政権が第一次非常事態を発令して学校まで閉鎖した時には、時期尚早・教育現場の混乱必至・各界との調整不足の大合唱であったが、結果として感染拡大を防止するまでには至らなかったものの拡大を停滞させてワクチンの完成を待てる時間稼ぎには効果を上げたと思っている。
トップダウン型指揮は瞬時(短時間)で結論を導ける知識と判断力が必要であり、加えて反対意見にも立ち向かえる決断力が必要であるにも拘らず、それらの資質に欠ける者が「有事の宰相」を気取った場合には悲惨な結果を招くことが多い。軍事知識と国際情勢に無知な鳩山氏が「在沖米軍基地を最低でも県外に移設」と公約して国威を損なったことや、福島原発対処を誤った菅氏などは、この典型であるように思える。
以上のことから、近世では前例のない武漢コロナ禍という非常時に菅総理という誠実ではあっても調整型指揮官を戴くことは、残念ながら不幸なことであるように思える。緊急条項が無い憲法下では「誰がやっても同じ」という無量感は置くとして「戦時の宰相に相応しい政治家」の存在と出現が待たれるように思えるが、石破・岸田氏の総裁候補や枝野氏にはその資質が窺えないように思っている。唯一、総裁選の推薦人確保も危いランクではあるが、高市早苗氏ならば?と密かに期待するものである。
萩生田大臣麾下文科省が今秋から使用される中学校社会科教科書に使用の「従軍慰安婦」の記述は適切であるとした審議会の検定は河野談話に根拠があるとして容認を表明した。茂木大臣が指揮する外務省はウィグル族に対する中国の弾圧をジュノサイドと規定(表現)することに反対している。いずれも省内の自虐史観やチャイナスクールが主導しているものであろうが、国是と国民感情から乖離する事柄であり、大臣のトップダウン(主導者の更迭や冷や飯を食わせること)である程度の改善・改革が図られるものであろうが、政局以外は等閑視する両政治屋には興味や意欲の湧かない事柄なのか、はたまた自分の指導力の限界を知っているのだろうか。独善の気に満ちた分分析であることを付記して、終演。
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