まだまだ続くバタイユ月間。とか言いながら、実は今、カポーティの『冷血』を読んでいたりする(笑)。で、読み終わったら『ダヴィンチ・コード』を読むつもりで文庫本を積んであるのだ。
さて、新しいバタイユ論である『歴史と瞬間』(和田康著)を読もうとして、これが時間論であることを序文で知ったからには先に時間論の予習を、などと思ったのがちょっとした運の尽きで、いまや時間を哲学することにハマってしまっているではないか。
最初に読んだのは『時間は実在するか』。これは予想したのと違う本だった。やたら理屈っぽくて、ああでもないこうでもないと、論理学的展開をなす。こういうのは苦手だわ、わたしってやっぱり文系人間。少しでも数学的な叙述の匂いを嗅いだらもうだめ。
本書は、マクタガートの時間論を批判的に検討し、マクタガートの結論である「時間は実在しない」に異議を唱えるものだ。そもそも、時間が実在しないなどという論がわたしの日常実感と懸け離れているのだ。どんなにへりくつをこねて「だから時間は実在しない」などと結論づけられてもそれには納得できないのだから、「実は時間は実在するのですよ」という結論を用意されてもね、そんなの当たり前やんか、としか思えない。
時間にはA系列とB系列のとらえかたがあり、A系列こそが時間の本質だというのがマグタガートの論。
・<A系列> ある時点であるできごとは「現在」であったが、それはかつては「未来」であったことであり、やがては「過去」になる。つまり、2006年5月21日は現在であるが、去年の今日から見れば未来であり、来年の今日から見れば過去である。このように、ひとつの時間は同時に三つの位置(過去・現在・未来)を持つ。
・<B系列> ある出来事は別の出来事よりも前であり、それは動かない。時間は順序に従っている。たとえば、太平洋戦争のあとに原爆投下があり、その後に日本の敗戦がある。この時間の順列は確定していて動かない。
それにしても哲学者というのはひょっとしたらものすごく不幸な人かもしれないと思った。だってね、時間が実在するのかどうかなんてそんなことを一生懸命考えているのだもの。実在するに決まってるやんか。実在するからこそ、いろんな悩みや悲哀が生まれるわけで、そこに疑問をはさむのは確かに根源的かもしれないけれど、ちょと(わたしの感覚と)違う、と思わざるをえない。違ってもいいけど、時間について根源的に考えるのもスリルがあるけれど、なんだか論理のこねくり回し方に、「こういう形而上学を唱えることがなんか意味あるわけ?」と思ってしまう。
わたしもたいてい実学に無関係なものが好きな人間だけど、これはなんだか、日常のなかにフィードバックしてこないような気がする。論理展開としては面白いし、教養として知っておくのも悪くないと思ったが、それ以上のものを感じない。
ただし、入不二さんの「第四の形而上学」には、いかにもポストモダン的な香りがする。三つどもえの時間論、というのがそうだ。ポストモダンというよりも、ひょっとしたら弁証法かも。どっちにしてもよくわかりません。
bk1での書評を見ると、森岡正博さんとオリオンさんが高く評価しておられるので、哲学者には受けるのかも、と思った。わたしってやっぱり無知蒙昧か。
それに対して、中島さんのこの本はずっとわたしの実感に近いものだった。時間とは過去を考えることであり、では、過去はどこへ行ったのか? 過去はもうない。未来は? 時間を線でとらえることの過ちを指摘したこの本は斬新なアイデアに満ちていた。時間を空間論と混同する過ち。では、時間をどのようにとらえるのか? 結局のところ、結論がわたしに納得できたわけではない。だが、過去をとらえること、記憶をとらえることについてはたいへん刺戟に満ちた論が展開されていた。
この本については引用を含めてもう少し展開してみたい(続く)
<書誌情報>
「時間」を哲学する : 過去はどこへ行ったのか / 中島義道著. 講談社, 1996 (講談社現代新書)
時間は実在するか / 入不二基義著. 講談社, 2002.(講談社現代新書)
さて、新しいバタイユ論である『歴史と瞬間』(和田康著)を読もうとして、これが時間論であることを序文で知ったからには先に時間論の予習を、などと思ったのがちょっとした運の尽きで、いまや時間を哲学することにハマってしまっているではないか。
最初に読んだのは『時間は実在するか』。これは予想したのと違う本だった。やたら理屈っぽくて、ああでもないこうでもないと、論理学的展開をなす。こういうのは苦手だわ、わたしってやっぱり文系人間。少しでも数学的な叙述の匂いを嗅いだらもうだめ。
本書は、マクタガートの時間論を批判的に検討し、マクタガートの結論である「時間は実在しない」に異議を唱えるものだ。そもそも、時間が実在しないなどという論がわたしの日常実感と懸け離れているのだ。どんなにへりくつをこねて「だから時間は実在しない」などと結論づけられてもそれには納得できないのだから、「実は時間は実在するのですよ」という結論を用意されてもね、そんなの当たり前やんか、としか思えない。
時間にはA系列とB系列のとらえかたがあり、A系列こそが時間の本質だというのがマグタガートの論。
・<A系列> ある時点であるできごとは「現在」であったが、それはかつては「未来」であったことであり、やがては「過去」になる。つまり、2006年5月21日は現在であるが、去年の今日から見れば未来であり、来年の今日から見れば過去である。このように、ひとつの時間は同時に三つの位置(過去・現在・未来)を持つ。
・<B系列> ある出来事は別の出来事よりも前であり、それは動かない。時間は順序に従っている。たとえば、太平洋戦争のあとに原爆投下があり、その後に日本の敗戦がある。この時間の順列は確定していて動かない。
それにしても哲学者というのはひょっとしたらものすごく不幸な人かもしれないと思った。だってね、時間が実在するのかどうかなんてそんなことを一生懸命考えているのだもの。実在するに決まってるやんか。実在するからこそ、いろんな悩みや悲哀が生まれるわけで、そこに疑問をはさむのは確かに根源的かもしれないけれど、ちょと(わたしの感覚と)違う、と思わざるをえない。違ってもいいけど、時間について根源的に考えるのもスリルがあるけれど、なんだか論理のこねくり回し方に、「こういう形而上学を唱えることがなんか意味あるわけ?」と思ってしまう。
わたしもたいてい実学に無関係なものが好きな人間だけど、これはなんだか、日常のなかにフィードバックしてこないような気がする。論理展開としては面白いし、教養として知っておくのも悪くないと思ったが、それ以上のものを感じない。
ただし、入不二さんの「第四の形而上学」には、いかにもポストモダン的な香りがする。三つどもえの時間論、というのがそうだ。ポストモダンというよりも、ひょっとしたら弁証法かも。どっちにしてもよくわかりません。
bk1での書評を見ると、森岡正博さんとオリオンさんが高く評価しておられるので、哲学者には受けるのかも、と思った。わたしってやっぱり無知蒙昧か。
それに対して、中島さんのこの本はずっとわたしの実感に近いものだった。時間とは過去を考えることであり、では、過去はどこへ行ったのか? 過去はもうない。未来は? 時間を線でとらえることの過ちを指摘したこの本は斬新なアイデアに満ちていた。時間を空間論と混同する過ち。では、時間をどのようにとらえるのか? 結局のところ、結論がわたしに納得できたわけではない。だが、過去をとらえること、記憶をとらえることについてはたいへん刺戟に満ちた論が展開されていた。
この本については引用を含めてもう少し展開してみたい(続く)
<書誌情報>
「時間」を哲学する : 過去はどこへ行ったのか / 中島義道著. 講談社, 1996 (講談社現代新書)
時間は実在するか / 入不二基義著. 講談社, 2002.(講談社現代新書)