ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

超多忙な一週間の終わりに『スペクタクルの社会』

2005年07月23日 | 読書
 今週はとにかく忙しかった。火曜はまだ余裕があったのだ。それが、水曜には顔が引きつりだし、木曜には頭が爆発しそうになり、金曜にはあきらめの境地に達したのであった。気分は「夏休みの宿題ができていない8月31日の小学生」。

 わたしは2年前からD大学の嘱託研究員を仰せつかっている。研究員とは名ばかりで何も研究していない。でもま、報酬をもらっているわけでないからえっか。それどころか研究会出席のために京都までの交通費も自腹を切ってるんだからね。でもさすがに何も発表しないわけにいかないから、昨日は「紹介報告」という番が回ってきたのであった。

 うちの図書館にある伝記資料の一覧リストをキーワードつきで作成し、なかの何点かをとりあげて詳しく紹介するとうだけのこと。ほんとならすごく簡単なはずなんだが、これがどうしてどうして。図書管理用パッケージソフトからエクセルへデータを落とすことが簡単にはできないのだ。テキストデータに落としてエクセルに載せ替えればよいのだが、それが入力文字数が固定長だったりして、結局は手作業になってしまう。

 えっちらおっちらと一項目ずつ貼り付けていたのだが、これが大変。そもそもふだんエクセルを使わないから使い方もわからない。マニュアル片手に眉間に皺を寄せ、それでもなんとか最低限のデータの貼り付けが終わったのが木曜の午後。その間に、手作業のおかげで過去の書誌情報の間違いをいっぱい見つけてしまったのでその訂正にも追われた。あー、目が痛い。頭が痛い。

 ところが! なんと、どういうわけか必要なデータのうち少なくとも200件ほどが抜け落ちていることが判明したのだ。遺漏分を探し出して一件ずつ貼り付けている暇はもうない。仕方がないから、金曜は不完全なデータを提出することになってしまい、「後日、修正版をみなさまのお手元にお届けします」と恥ずかしい弁明から始めねばならなかった。ふー


 とにかくよりによって昨日は暑かった。35度の大阪の町を出たのが午後2時半過ぎ。同じく猛烈に暑い京都の町をふらふらと西日に向かって20分間歩いていたのが午後4時頃。もう死んだね。

 疲労困憊しながらわたしの報告も終わり、もう一人の報告者M氏(大学の先輩でもある)の研究報告を聞いて、やれやれと帰途に着いた。京都からは遠いわぁ。でもま、おかげで帰りの電車の中で『スペクタクルの社会』を読了。

 本書は1967年に書かれたものだが、日本語訳はようやく1993年に出た。文庫本化にあたってかなり訳を訂正したという。30年近く前に現代社会を「スペクタクルの社会」だと看破したのは先見の明があったと言えるのだろう。でもこれはドゥボールのオリジナルで斬新な分析なのだろうか? 似たようなことは既に誰かが言ってたのではなかろうか。

 本書を読みながらまず感じることは、「新左翼」らしいその文体、語彙に懐かしさを感じるとともに、「疎外」(本書では「分離」)だの「階級闘争」だの「マルクス」だの「レーニン」だのと頻出するとうんざりしてくる、ということ。

 本書の書き方は独特だ。全部で221の断章の積み重ねからなる形式は、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を想起させる。

 近代的生産条件が支配的な社会では、生の全体がスペクタクルの膨大な蓄積として現れる。かつて直接に生きられていたものはすべて、表象のうちに遠ざかってしまった。

 という文章で始まる本論は、高度に発達した現代資本主義社会が既にありあまる商品を生活のために消費するのではなく、記号として消費しているということを述べている。
 それって、今や常識やんか。だって、内田樹先生がしょっちゅうブログにそう書いているし。

 というように、この本に書いてあることは既読感が強い。「あ、これは内田センセイがいつも言ってることやな」「ここは森岡正博さんがどこかで書いてたことと似ている」「これ、原田達さんが『知と権力の社会学』で書いてたことと同じちゃうのん」とか思いながら読んでいるから、ちっとも新鮮味がない。逆にいえばそれだけ「スペクタクルの社会」論が後世の人々に多く引用され咀嚼されてきたということだろうか。でも今やだいぶ鮮度が落ちてしまっている。
 
 特に真ん中あたりの階級論が出てくるところは退屈なので思いっきりすっ飛ばして読んでしまった。で、つらつら読んでいるうちにいつのまにか本文が終わったんだが、その後に訳者解説が50頁もついている。これがまあ、おもしろいんだな。こっちだけ読んでおけばよかったかも。

 などと思っていたのだが、このメモを書くためにまた本書を読み直してみたら、なんと一回目よりもおもしろいのだ。どうなってんねん?(^^;)

 で、気になったところだけピックアップして引用しておく。

 第4章「時間のスペクタクル」より引用

 歴史と記憶の麻痺、歴史的時間の基盤の上に築かれた歴史の放棄、それらを現代において社会的に組織するスペクタクルは、時間の虚偽意識である。(テーゼ158)

 労働者を商品としての時間の「自由な」生産者にして消費者の地位に就けるため前提条件は、彼らの時間を暴力的に没収することであった。時間のスペクタクル的回帰は、生産者のこの最初の剥奪によってはじめて可能になったのである。(テーゼ159)

 集中した資本主義は、その最も進んだ部門において、「完成品の」時間ユニットの販売へと向かう。それらの時間ユニットは、一つ一つが、いくつかの数の商品を統合した単一の統一的商品である。その結果、「サーヴィス」経済や余暇経済の拡張のなかで、スペクタクル的住居や、ヴァカンスの集団的な疑似移動、文化消費への加入料金、「楽しい会話」や「いろんな人との出会い」というかたちでの社会性そのものの販売のための、「すべて込み」で計算した支払い形式が現れる。この種のスペクタクル的商品は、それに対応した現実の欠如感が劇化することによってはじめて広かったことは確かだが、分割払いが可能になることで、販売近代化のためのモデル商品のなかでそれが姿を現したということもまた同じように明白である。(テーゼ152)

 現代という時代は、本質的にはその時間を多種多様な祝宴の迅速な回帰として自己に示す時代であるが、実際は祝祭なき時代である。円環的な時間のなかで共同体が生の贅沢な浪費に参加していた瞬間は、共同体も贅沢もない社会にとっては不可能である。対話と贈与のパロディである現代の世俗化された擬似的な祝祭が余分な経済的浪費を促す時、それらの祝祭は、結局は、常に新たな失望の約束で埋め合わされる失望に終わるしかない。現代の余分な生の時間は、スペクタクルのなかで、その使用価値が縮小された分、いっそう高く己れの価値を吹聴しなければならない。時間の現実は時間の広告に取って代わられたのである。(テーゼ154)

 太字の引用が続くと読みにくいので、ちょっとコメントを。

 本書の最終章は「文化における否定と消費」と題されていて、やはりこれも断章からなるので、章全体を要約したりはできないのだが、概してドゥボールの本は文化論がおもしろい。きっとわたしの興味関心と一致するからだろう。最終章には社会学批判と構造主義批判が書いてある。

 「主体」とか「階級闘争」「プロレタリアート」を連呼するドゥボールの口調はサルトルやかつての左翼のそれを思い出してちょっと恥ずかしかったりする。その恥ずかしさは若い頃の自分の書いたものを読み直して感じる恥ずかしさに似ている。でも、わたしは若い頃の自分を全否定する気にはなれない。だから、ドゥボールの口調はともかくとして、最終章に書かれた構造主義批判については共感を覚える。

 さて、ドゥボールがどのように構造主義を批判するのだろう。それについては訳者解説から要約引用してみよう。

 ドゥボールは1957年に「シチュアシオニスト・インターナショナル」を設立し、1972年に解散するまでその中心人物であった。

 スペクタクルの理論は徹底した「代理=表象」批判の武器である。それがポストモダニストの思想と決定的に異なるのは、実践のレベルにおいてだ。ポストモダン思想が主体や歴史の概念を捨象し、「実践」の意義を認めないのに対し、シチュアシオニストは「状況の構築」をあくまで追求する。

 シチュアシオニストは思想を思想として考察する分離された思想家でも、政治を政治として追求する党派でも、独立した領域としての芸術を実践する芸術家でもない。彼らは、芸術と日常生活の革命、文化革命と政治革命を一体のものとして追求し、それを「構築された状況」のなかで統一的に実現しようとした。

 訳者解説のなかにシチュアシオニストの活動の歴史が語られているが、その徹底したラディカリズムには舌を巻く。既存の文化をすべて批判・破壊・ずらし・脱権威化しようとしたその実践にはあきれるやら笑うやら。彼らの作品を見てみたいと思わせる。ドゥボールにかかってはチャップリンも偽善的な人道主義者に過ぎないと糾弾される。ゴダールだって批判の対象だ。

 五月革命でのシチュアニストたちの活動についても訳者解説がかなり詳しく述べており、なんだか久しぶりにわたしは血湧き肉躍る高揚した気分になって
しまった。

 最初に訳者解説を読んでから本文を読んだ方がよいかも知れない。とにかくこの訳者解説はよかった。いや、別に訳者が旧知の友人だから言うわけじゃないです、はい。オリバーこと木下誠氏、いい仕事してますよ。

 

<書誌情報>


 スペクタクルの社会
  ギー・ドゥボール著 ; 木下誠訳. 筑摩書房, 2003.(ちくま学芸文庫)