ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

「死霊」埴谷雄高

2003年06月21日 | 読書
 二十代のころ、ハードカバー(箱入り)の『死霊』を買った。寝る前に横になりながら布団をかぶってそれを読もうとした。何度読んでも本文5ページ進まないうちに寝てしまう。風癲病院の陰鬱な風景が描かれる冒頭の描写を読んでいるだけで、霧の中に佇み途方にくれている気分になって、すーっとあっちの世界へ行ってしまうのだ。睡眠薬がわりに何度かこの本を使った。で、とうとうあるとき古本屋に売ってしまった。
 ところが、それから何年か過ぎたとき、古本屋でまたしても『死霊』と出会ってしまった。で、今度こそと思って買ったのだけれど、結局まったく読まないまま再び古本屋の書棚へ戻っていった。

 そんなに相性の悪い本なのに、どういうわけか文庫本が出たとたんに3巻全部買ってしまった。今度こそ、と思ったのだ。なぜそんなにまでして『死霊』を読まないといけないのか理由がわからない。たぶん、日本初の形而上文学だの、観念小説だのといわれると、似非インテリの血が騒ぐのだろう。ほんとうは難しい本など読んでもさっぱりわからないのだが、それでも知の世界への憧れは強いから、無理してしまう。やれやれ。

 ところが不思議なことに、あれほど読むのに苦労した『死霊』をどういうわけかスラスラ読めるのだ。といっても、難解で難渋することにかわりはない。けれど、その難解さを楽しむことができる。さらには、意味がわからなければもう次へ進めないなどということがない。わからないところはさっさと斜め読みして、どんどん飛ばしていく。そして、気になったところだけ立ち止まって読む。どうせストーリーなんてなきに等しいのだから、筋を追う必要もないし、ところどころはっとするような警句に出会えばそのページを折って、次へと進む。
 わたしも歳をとったのだな、と思う。物語に没入し耽溺することがない。だから、余裕を持って読むことができるのだ。このあまりにも沈鬱で苦しい小説を自分に引きつけすぎると、生きていられなくなる。この小説を読んで自殺した若者が何人もいるとかいないとか聞いたことがある。わかるような気がする。
 
 わたしは、昔のように純粋に小説を楽しむ(苦しむ)ことができなくなっているようだ。感受性が鈍ったのだろうか。どんな小説を読んでもついつい、「この文体は誰それに似ているな」とか、「わたしならこうは書けないなぁ、さすがは大作家だ」とか、「この修辞はうまい。メモしておこう」とか「ここはこう書き直すべきだ」「このストーリー構成は巧みだ、後半へのつなぎとして非常にうまく読者の興味をそそっている」などと考えてしまう。要するに「作家」の目で読んでいるのだ。どこか盗めるものはないかとそればかり気にしている。で、結果、どんな小説を読んでも「巧い。やっぱりプロは巧い」と絶望してしまう。

 で、『死霊』に関して言えば、とても真似できないしする気もないし、いまさら形而上小説でもあるまいと思う。だいたい、登場人物すべてが観念的な言辞ばかりを弄する会話を繰り返すなんて、そんなことが現実にはありえない。日常会話なのに漢字語ばかりでしゃべるなんて、しかも造語まであるのに登場人物たちはそれらの言葉をすぐに理解してしまうし、ボートがひっくり返って体が水に浸かっているというのに誰一人そんなことには頓着なく観念的な会話をし続けるなんて、そんなアンビリーバブルなことがあろうはずがない。小説としては無茶苦茶なのだ。SFを読んでいるようなものだ。

 後半へいくほど舞台設定が荒唐無稽になり、現実からの遊離が甚だしくなるのも、本作が50年もかかって書き続けられてきたからだろう。第3巻の終わりのほうになると、同語が反復されて文体がねちこくひつこくなり、老人特有のしつこさが鼻についてくる。50年間の執筆期間には波があり、著者の油が乗っていると思われるのは第2巻だ。小説としてはこの第2巻が数少ない盛り上がりの一つを見せる。圧巻はなんと言ってもスパイ私刑場面。凄惨であると同時に息をのむ美しさでもある。この場面が書かれた当時は、もちろん戦前の日本共産党スパイ査問事件がモデルにされていたわけだけれど、今となっては、連合赤軍事件や左翼の内ゲバを連想させる場面である。また、オウム真理教事件までをも射程に入れて読み込むことが可能な描写だ。

 それにしても、悩める知識人埴谷雄高にとって、女は絶対的な他者であったのだろうか。この小説の主人公三輪与志(よし)の若き婚約者津田安寿子の一途な想いがまったく与志に届かないように思えるのは、著者の孤絶した魂の反映だろうか。絶対的な孤独の淵にたたずむような三輪与志、そして彼を理解しようと絶望的な努力を払う津田安寿子、この恋人たちの間に漂う緊迫した切なさは、物語の中でも精彩を放っている。わたしが女だからか、どうしても安寿子に同化してしまうのだが、孤高の人を一途に愛しながら決して近づくことができないもどかしさを彼女自身が絶望ととらえず静かに受け入れているかのような態度には、健気さといじらしさを感じる。

 第3巻では原罪論が展開される。イエス・キリストをも原罪を背負った人間として批判するくだりは、興味深かった。それは、人間は生まれる前にすでに何億もの兄弟殺しを行っているという話だ。何億個もの精子の中からたった一つが生き残り、卵子と合体する。残りの精子はすべて死に絶えるのだ。つまり、人は誕生の時点ですでに何億もの兄弟の死を見ている。さらには、この世にうまれてからは数限りない動植物を殺してそれを食している。人間は他者の死なくしては生きていけない存在なのだ。埴谷は繰り返しこのことを述べている。
 このくだりを読んだとき、確かに深い感慨の波がわたしに押し寄せた。そんなことはわかりきっていることなのに、夥しい死の上に成り立つおのれの存在に思い至れば、なおのこと、その犠牲に応える生を生きねばならないという結論に達するのではないか。では、『死霊』を読んで死に向かう若者たちに向かって、埴谷は「死ぬな」というメッセージを発しているのではないのか? そして、他者を殺さねば生きていけない人間について、埴谷のメッセージのいわんとすることの深奥はまだ不明だ。この小説は政治的であると同時に高度に観念的で、結論らしきものは見えない。

 また、宇宙のビッグバンの説明文のようなくだりがあるのだが、これは今更、という気がする。原初の世界の「絶対無」を描いている場面は、NHKスペシャルの解説文かいな、と失笑を禁じ得ない。たいそうな言い回しで表現しているわりには言わんとしていることに目新しさがない。埴谷も歳をとったのか?

 埴谷雄高の文体は美しい。今の若い作家には書けそうもない文体だ。全体に西洋的な香りが色濃く漂う風景描写はヨーロッパ映画を彷彿させる。とりわけ霧の描写は美しく幽玄で、映画「ユリシーズの瞳」を思い出した。戦争と革命の世紀を生きた陰鬱な体験が霧の中で深い悲しみと癒せぬ絶望を刻印する、「ユリシーズの瞳」の深い霧の場面を想起させる。
 今の若い作家たちはこの作品を読んでいるのだろうか? 読んだ上でわざと知性を感じさせない文体でものを書いているのなら許そう。だが、読みもせずにバカ丸出しの稚拙な作品を書いているのなら、勉強しなおしてこいと言いたい。

 正直いって、長さの割には読むところが少ない小説だ。だが、途中でやめられない魅力がある。そして、看過できない警句を随所に含むものだから、やはり偉大な作品と呼ぶべきなのだろう。
 最後まで読んでも埴谷がいうところの「虚体」だの「虚在」だのはさっぱり理解できなかった。まあ、10年後にもう一度読み直してみよう。

 ところで、なぜ「しりょう」ではなく「しれい」と読むのだろう? 知っている人は教えてほしい