ば○こう○ちの納得いかないコーナー

「世の中の不条理な出来事」に吼えるブログ。(映画及び小説の評価は、「星5つ」を最高と定義。)

「婆さん、あの猫は来てるだろうなあ。」 Part1

2006年08月21日 | 歴史関連
御自身が学生時代に使っていた日本史の教科書の中身を思い出し、次のクイズを解いて戴きたい。

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[問題1] 以下の3つの絵に記された人物(①に関しては真ん中の人物)の名前を、それぞれ述べよ。

 ① 

 ② 

 ③ 


[問題2] 源頼朝鎌倉幕府を創設したのは西暦何年?
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「簡単なクイズだなあ。」と思われた人も多いだろう。しかし、実はこのクイズの答は、世代によって異なる可能性が在るのだそうだ。一定年齢以上の方で在れば、恐らく次の様な答になると思う。

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(嘗ての日本史の教科書に基づいた答)

[問題1] ① 聖徳太子  ② 源頼朝  ③ 足利尊氏

[問題2] 1192年
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それに対して、最近の日本史の教科書に基づく”一般的な”答は次の様になる。

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(最近の日本史の教科書に基づいた答)

[問題1] 
① 誰とは断定出来ない。(必ずしも聖徳太子本人とは断定出来ない。)  
② 誰とは断定出来ない。(室町幕府初代将軍・足利尊氏の同母弟の足利直義という説が有力。)  
③ 誰とは断定出来ない。(足利尊氏の執事・高師直という説在り。)

[問題2] 「1180年説」、「1183年説」、「1185年説」、「1190年説」、「1192年説」等諸説在るが、有力なのは1185年
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なぜ偉人たちは教科書から消えたのか」(著者: 河合敦氏)という本が面白い。この本によると、日本史の教科書から偉人たちの肖像画が消えつつ在るそうだ。例えば1980年の教科書(「日本史」三省堂)には36点の肖像画が掲載されていたが、2006年の教科書(「日本史B」三省堂)は僅か20点と、凡そ半分近くになっているとか。織田信長豊臣秀吉徳川家康松尾芭蕉徳川吉宗等、”超有名人”の肖像画すらも姿を消して行っているという事。図版や地図をその分増やし、より歴史的思考力を高めるという思惑も肖像画が減っている理由には在るのだろうが、それに加えて「本当にこの絵は、本人を描いたものなのか?」という疑惑の肖像画が次々と見付かり始めた事も大きいと河合氏は指摘している。そして、これ迄正しいとされて来た歴史認識の中にも、異論&反論が結構出て来ているのだとか。

この本の中では23人の偉人達を取り上げているが、その中から数人をピックアップしてみたい。

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[聖徳太子]
一般的に「聖徳太子」といってパッと頭に浮ぶ顔は、上の①だろう。この絵は「唐本御影」と呼ばれ、この真ん中の人物が聖徳太子で在るとずっと信じられて来た。過去の紙幣に使われた聖徳太子の肖像画も、この絵を基に描かれている。

しかし、仏教史に詳しい東京大学史料編纂所所長の今枝愛真氏は、「『唐本御影』に描かれた人物が、聖徳太子とする蓋然性は少ない。」と主張。その理由として、肖像画の人物が身に着けている服や冠が聖徳太子の時代よりずっと後の物で在り、手に持っているても当時は未だ存在していなかった事を挙げている。

又、この「唐本御影」が描かれたのは8世紀半ば、即ち聖徳太子が亡くなってから少なくとも100年以上経ってから描かれたもので在り、仮に聖徳太子を描いた肖像画としても、当然ながら写真やビデオも無い時代故、本人と似ている可能性は極めて低いと言える。

それどころか、「聖徳太子なる人物は、当時の皇太子の尊厳を浸透させる為に創作された架空の存在。」とする説も出ているのだとか。この辺の話を書くと長くなってしまうので、是非この本を読んで判断して戴きたい。


[源頼朝]
上の②の絵はずっと源頼朝の肖像とされて来たが、10年程前から「伝源頼朝像」と記す教科書が増えて来たそうだ。つまり、「この肖像画は源頼朝と”伝えられている”。」という記され方になったという事だ。

1995年に美術史家の米倉迪夫氏が、その著書「源頼朝像 沈黙の肖像画」の中で、「源頼朝像は頼朝を描いたものでは無く、室町幕府を作った足利尊氏の弟・直義を描いたもので在る。」という説を発表した。米倉氏は、源頼朝像の眼や口、耳の描き方に着目し、無等周位が描いた「夢窓疎石(むそうそせき)像」(妙智院蔵)との類似点を指摘、この疎石像が14世紀の絵画で在る事から、源頼朝像も14世紀の作品で在るとその制作年代を断定。

その上で、興国6年(1345年)の「足利直義願文」(京都御所の東山御文庫)に「征夷大将軍(足利尊氏)並びに(足利直義)の影像を図き、以ってこれを安置す。」と、直義が神護寺に自身と兄・尊氏の肖像画を奉納した事実を捉え、「その時の肖像画こそが、神護寺に在る『伝源頼朝像』と『伝平重盛像』で在る。」と主張した。

神護寺には「神護寺三像」と呼ばれる三の肖像画が在り、揃って国宝に指定されている。「伝源頼朝像」、「伝平重盛像」、そして「伝藤原光能像」の三幅がそうだが、米倉氏は源頼朝像とされて来たのは足利直義像で、平重盛像とされて来たのは足利尊氏像だ。とした訳だが、ではどうして直義と尊氏の見極めを付けたかと言えば、この二像は顔が向き合う形で明らかに1セットになっているとし、一般的に正面から向かって右側に来るのが上位者、左側に下位者が描かれる為、顔を右に向けて左側に収まる源頼朝像は、その逆の平重盛像に対して地位が低いので、「頼朝像=直義像、重盛像=尊氏」と推測したとしている。

そして、残る「伝藤原光能像」は室町幕府の二代将軍・足利義詮ではないかと主張。この像が他の二像と比べて筆致がやや異なる事から、制作年代が多少後ではないかとした上で、等持院に安置されている足利義詮の木像と藤原光能像の顔がソックリな事を決定的な証拠として挙げている。それは、「容貌が垂れ目で団子鼻」との事。近年ではこれ等の米倉説が学会で受け容れられる傾向に在り、行く行くは定説になる可能性も在るとか。

又、源頼朝が鎌倉幕府を創設した年に関しては、嘗て受験の為に年号を暗記する際、「良い国(1192年)作ろう鎌倉幕府」等と語呂合わせで覚えたものだが、これに付いても「何を以って武家政権の成立と見做すのか?」は諸説在り、未だに学会で決着を見ていないのだそうだ。

主な説だけでも「1180年説(頼朝が鎌倉に侍所を設置し、此処に拠点を定める。)」、「1183年説(頼朝が朝廷に東国の支配権を付与される。)」、1185年説(頼朝が全国に守護地頭を置くのを朝廷に許可される。)、「1190年説(頼朝が朝廷から右近衛大将に任命される。)」、「1192年説(頼朝が朝廷から征夷大将軍に任命される。)」が在り、現在最も有力な説は上記した様に「1185年説」との事。

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