伊坂幸太郎氏の「魔王」は、2005年10月に刊行された本。「魔王」及び「呼吸」という2つの作品から構成されている。昨年末に読んだ同氏の「モダンタイムス」は「魔王」の舞台から50年後の日本を描いており、自分の場合は時間を遡って読んだ事になる。
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「魔王」
会社員の安藤は弟の潤也と二人で暮らしていた。自分が念じれば、それを相手が必ず口に出す事に偶然気付いた安藤は、その能力を携えて、一人の男に近付いて行った。そして・・・。
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カリスマ性を備えた野党の党首・犬養。野党の第一党でも無い、少数政党のトップを務める彼が、響きの良いフレーズを多用する事で大衆を煽動し、やがて強大な権力を掌握して行く。彼を熱狂的に支持する国民の中には、彼が口にするフレーズの上っ面だけに共感し、そして“仮想敵”たるアメリカへの憎悪感を募らせて行く者が少なくない。「僅かな事実」と、そして「自身に心地良い、その他多くの不確かな噂」を元に憎悪の念を膨らませて行き、その結果「無辜なアメリカ人の自宅」や「『アメリカ』の象徴としてのファーストフード店」を次々に焼き打ちして行くシーンにはゾッとしてしまう物が在った。彼等としては「正義の行使」なのだろうが、独り善がりで公平性を欠く正義感は、ファシズムを生み兼ねない危うさを有していると思う。「魔王」の中では、次の文章が特に印象に残った。
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パソコンを離れた。ネット上のどのページを見ても、匿名、記名にかかわらず、この件に関する意見や罵詈雑言で溢れかえっているに違いない。たった一人のアメリカ人とも会話を交わしたことのない若者たちが、「アメリカは」と偉そうに語り、パソコン上だけで仕入れた情報を元に、「何も分かってねえな。」と嘯いているのだろう。それを見るのは怖かった。うっかり覗いてしまったら、自分もその、憎悪の渦に巻き込まれるように思えた。
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「呼吸」は、「魔王」の時代から5年後の潤也の姿を描いている。犬養は首相となり、絶対的な権力を掌握。彼のフレーズに酔い痴れる国民が多数を占める一方で、その裏に在る危うさに不安を覚える人も。印象に残る文章は幾つか在ったが、一つに絞ってみた。
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「ムッソリーニは最後、恋人のクラレッタと一緒に銃殺されて、死体は広場に晒されたらしいんだよね。」
「あらら。」
「群衆がさ、その死体に唾を吐いたり、叩いたりして。で、そのうちに、死体が逆さに吊るされたんだって。そうするとクラレッタのスカートがめくれてね。」
「あらら。」
「群衆はさ、大喜びだったんだってさ。いいぞ、下着が丸見えだ、とか興奮したんじゃないの。いつの時代もそういったノリなんだよ。男たちは、いや、女もそうだったんだろうね。ただ、その時にね、一人、ブーイングされながら梯子に昇って、スカートを戻して、自分のベルトで縛って、めくれないようにしてあげた人がいたんだって。」
「あらら。」私は言いながらも、その時のその人の立つ状況を思い浮かべ、その度胸に圧倒された。「それはまた、勇敢な。」おまえはその女の肩を持つのか、と罵倒され、暴力を振るわれても文句は言えない場面だったのではないか。
「まあ、実話かどうかは分からないけど、何だか偉いなあ、とは思うよね。」蜜代っちは大切な物に息を吹きかけるような口ぶりだった。「実は、わたしはいつも、せめてそういう人間にはなりたいな、と思ってたんだ。」
「スカートを直す人間に、ってこと?」
「他の人たちが暴れたり、騒いだりするのは止められないでしょ、そこまでの勇気はないよ。ただ、せめてさ、スカートがめくれてるのくらいは直してあげられるような、まあ、それは無理でも、スカートを直してあげたい、と思うことくらいはできる人間ではいたいなって、思うんだよね。」
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比較してしまうと「モダンタイムス」の方が個人的にはのめり込めたが、読み終えた後に色々考えさせられる作品では在る。総合評価は星3.5個。
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「魔王」
会社員の安藤は弟の潤也と二人で暮らしていた。自分が念じれば、それを相手が必ず口に出す事に偶然気付いた安藤は、その能力を携えて、一人の男に近付いて行った。そして・・・。
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カリスマ性を備えた野党の党首・犬養。野党の第一党でも無い、少数政党のトップを務める彼が、響きの良いフレーズを多用する事で大衆を煽動し、やがて強大な権力を掌握して行く。彼を熱狂的に支持する国民の中には、彼が口にするフレーズの上っ面だけに共感し、そして“仮想敵”たるアメリカへの憎悪感を募らせて行く者が少なくない。「僅かな事実」と、そして「自身に心地良い、その他多くの不確かな噂」を元に憎悪の念を膨らませて行き、その結果「無辜なアメリカ人の自宅」や「『アメリカ』の象徴としてのファーストフード店」を次々に焼き打ちして行くシーンにはゾッとしてしまう物が在った。彼等としては「正義の行使」なのだろうが、独り善がりで公平性を欠く正義感は、ファシズムを生み兼ねない危うさを有していると思う。「魔王」の中では、次の文章が特に印象に残った。
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パソコンを離れた。ネット上のどのページを見ても、匿名、記名にかかわらず、この件に関する意見や罵詈雑言で溢れかえっているに違いない。たった一人のアメリカ人とも会話を交わしたことのない若者たちが、「アメリカは」と偉そうに語り、パソコン上だけで仕入れた情報を元に、「何も分かってねえな。」と嘯いているのだろう。それを見るのは怖かった。うっかり覗いてしまったら、自分もその、憎悪の渦に巻き込まれるように思えた。
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「呼吸」は、「魔王」の時代から5年後の潤也の姿を描いている。犬養は首相となり、絶対的な権力を掌握。彼のフレーズに酔い痴れる国民が多数を占める一方で、その裏に在る危うさに不安を覚える人も。印象に残る文章は幾つか在ったが、一つに絞ってみた。
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「ムッソリーニは最後、恋人のクラレッタと一緒に銃殺されて、死体は広場に晒されたらしいんだよね。」
「あらら。」
「群衆がさ、その死体に唾を吐いたり、叩いたりして。で、そのうちに、死体が逆さに吊るされたんだって。そうするとクラレッタのスカートがめくれてね。」
「あらら。」
「群衆はさ、大喜びだったんだってさ。いいぞ、下着が丸見えだ、とか興奮したんじゃないの。いつの時代もそういったノリなんだよ。男たちは、いや、女もそうだったんだろうね。ただ、その時にね、一人、ブーイングされながら梯子に昇って、スカートを戻して、自分のベルトで縛って、めくれないようにしてあげた人がいたんだって。」
「あらら。」私は言いながらも、その時のその人の立つ状況を思い浮かべ、その度胸に圧倒された。「それはまた、勇敢な。」おまえはその女の肩を持つのか、と罵倒され、暴力を振るわれても文句は言えない場面だったのではないか。
「まあ、実話かどうかは分からないけど、何だか偉いなあ、とは思うよね。」蜜代っちは大切な物に息を吹きかけるような口ぶりだった。「実は、わたしはいつも、せめてそういう人間にはなりたいな、と思ってたんだ。」
「スカートを直す人間に、ってこと?」
「他の人たちが暴れたり、騒いだりするのは止められないでしょ、そこまでの勇気はないよ。ただ、せめてさ、スカートがめくれてるのくらいは直してあげられるような、まあ、それは無理でも、スカートを直してあげたい、と思うことくらいはできる人間ではいたいなって、思うんだよね。」
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比較してしまうと「モダンタイムス」の方が個人的にはのめり込めたが、読み終えた後に色々考えさせられる作品では在る。総合評価は星3.5個。
ナチス党も最初は極めて少数の党だったけれど、やがては巨大な政党へと変わって行った。巨大になるにつれ違法な手段を講じた事も在ったろうけれど、それ迄の過程は然るべきシステムに則って勢力を強めて行った訳で、社会不安を煽り立て、仮想敵を攻撃する事で国民のガス抜きを行うという手法で、世論を一方向に誘導して行ったという歴史から学ぶ事は少なくない筈。
何度も書いている事ですが、小泉ブームに一度は乗っかってしまった自分故偉そうな事は言えないのだけれど、プロパガンダの恐ろしさには充分過ぎる程警戒しなければいけないと思うんです。
確固たる主張を持つ事は非常に重要。唯、自らのプライドを死守せんが為に、意固地になってその主張を何から何迄推し進めるのは愚の骨頂。正しいと思う事は絶対に曲げない強さを持ちたいと思うと共に、誤りはしっかり認めるという潔さを持ちたい。そうじゃないと「スカートを直して上げたい。」という思いすら浮かばない人間になってしまうと思うので。